独り言のコーナーです。  このサイト全部独り言じゃねーか、というのは置いといて。  最も粗雑で話の早い見解を好む……。  この世では赤ちゃんで生まれて年老いて死んでいくのだから、来世では老人からスタートして徐々に若返り、受精卵まで戻って消滅するのではないか?と思った。  どうでもいいけど受精と愛情って字面が似てるね。  なかなか自分が信頼できんな。  「すげえ上手いこと言ったなこれ!」って表現が、後から見ると「何これ意味不明やん……」ってなったりするからな。  偉い人にやらないことは、親しい人にもやっちゃだめです。  恐ろしくどうでもいいものに自己が侵食されていくような不気味さが、社会にはある。  自分で自分を診断するなら、自己愛性人格障害だ。回避型の。  社会科見学気分で労働してみましょう  そうしてちょっと覗いてみるつもりが、どっぷりと巻き込まれて……。  労働などという反社会的活動に加担したくない。  私の様子が変なのは、半分その場にいないからです。  好きな英単語は fluffy だな。日本語のふわふわよりふわふわ感が濃い。  fluffy な存在を目指しています。  全体と全体がぶつかってゴシャァッってなるんだよ。  あるいは、全体と全体が入り込んでグワァッってなるんだよ。  事事有礙法界?  突如として襲い来るトラウマ  でもみんな多かれ少なかれ傷を抱えているはず  現実の身体は創作の身体と比べてあまりにも醜すぎ、汚すぎで……。  現実の人生は物語の人生と比べてあまりにもつまらなくて……。あ、俺の人生がって話じゃなくて……。  「人生が面白くない」って言う奴に「お前が面白くないだけだよ」って言う奴が一番面白くない  熊のアクセントって昔は猫と同じだったと思うんだが、いつ頃から犬と同じになったんだろう。  「何であるか」への究極の答えは「何でもよい」あるいは「何でも無い」だろうし、「どうしたらよいか」への究極の答えは「どうでもよい」あるいは「どうしようもない」だろう。  これと真逆の究極を求めるのも人生の醍醐味であるはずだが。  労働を恐れるのは労働に対し誠実だからだ。  書けることは何でも書いておくのが良い。価値は問わない。  小説を読んでいて情景が目に浮かぶのと同じく、哲学においても哲学者が見た現実の風景を読者も見るのでなければならない。  自分の生き甲斐が本当に生き甲斐たり得るのか、いつかこの生き甲斐が自分を裏切ることはないだろうか、などと考えるのはもっともなことだ。  「一般的に見てこれは生き甲斐たり得るか」などと考え始めると行き過ぎだが。  何でもいいのだ。それで生きられるなら。  労働を生き甲斐にする必要は全く無いが、労働を生き甲斐にできている人とできていない人とでは、何となく前者の方が立派な気がしてしまうものだ。  平日の大半の時間を自分の生き甲斐として生きている人と、何か別のことのためのやむを得ないコストとして生きている人とでは、確かに前者こそ良い生活を送っている人だと言わざるを得ない。  私にも知性はある、と思いたい。しかし独り善がりの知性は知性でないと人は言う。  苦しんでいるということは罪があるということであり、悔い改めねば先に進めない。  好きなものを読み好きなことを書くために生きている。  何がしたいかというと、労働をしたくない。  何故皆そんなに真面目なのか。  何故皆そんなに無礼なのか。  自分が汚物だという自覚が無いのか? 汚物め。  クソ共が。  私は呪われている。  呪いを解くことで大人になる人もいれば、呪いをかけられることで大人になる人もいる。  何であれ「楽しみだなあ」と思って生きることだ。楽しみでないこともまた「楽しみだなあ」と。  そして全ての「楽しみだなあ」が最終的に神あるいは阿弥陀仏により確定された救いに根拠を持つように。  ↑ 何言ってだこいつ  歴史の中に生きないと虚しいのかもな。  別に偉人になれっていうんじゃないが、ある文脈の中で、ある良い未来の実現に参与できたという実感がなければいかんのかも。  やっぱ人間って未来を見据えないと駄目な生き物なのかね。  いわゆる文脈・経緯と、自己同一性から来る存在意義が無ければ……。  一貫性のある人生、筋の通った人生、矛盾の無い人生、論理的な人生。  あたかも最初からそれのために生まれてきたかのように。  喜びも悲しみも快楽なのかもしれん。  生きていけるかどうかと、自殺するかどうかは別問題だ。  生きていけないと思い込んで自殺する場合はあるだろうけど。  自殺するにしても有り金尽きてからが本番なのでは?  選択肢はあるが、選択した結果どうなるかは、選択してみないと分からない。  また別の選択をした場合どうなっていたかは、選択しなおすことができない以上、やはり分からない。  では一体、選択をするとはどういうことなのか。選択する時、何を選択しているのか。  未来を選択しているのではなく、現在の希望を選択している。  やってみないと分からないことをひたすらやってみるのが人生なのか。みんなで賽子を振っているのか。  死ぬために生まれてきた。言い換えれば、宇宙は私を殺そうとしている。  立身出世批判って出世してる奴が言うと自己矛盾っぽくなるし、出世してない奴が言うと負け惜しみっぽくなるから、誰が言っても説得力ないのよね。  いったん「これやらなきゃ」って思うのやめようか。読書とか。  書くことができるなら、読む必要はあまりないのではないか?  誰に頼まれたわけでなくともこれが自分の使命だと思って生きられるなら、その人は幸福だろう。  世の中の人たちはなぜあんなに真面目で不平不満がないのだろうという違和感が年々強まっていて、これが当然なのだとしたらやはり人間社会に私の居場所などないのではないかと  他にすることないやつがSNSをやるのか、普段することの余剰がSNSなのか。  労働とか、恋愛とか、ステップアップとか、キャリアとか、他にないのか。みんなそればっかりか。  成長、そんなにしたいか? 別に成長すること自体には何の魅力も感じないけど、他の人間たちがあまりに成長成長言うのでその煽りを受けて焦りが生じて  そんで焦りが生じるとだんだん「焦るってことは深層心理では成長を望んでいる証」みたいな論理が出てきて  「本当は~したいのに、できないから~したくないって言ってごまかしてるんだ!」みたいな、「~したい」っていう世間並みのどうでもいい欲求を擦り込まれていく感じ  心身が汚れる。他人は嫌なものだ。人間社会は汚い。  どうも競争や比較前提で考えるのが一般的らしく、キャリアやら何やらについて「どうでもいい」などと言ってしまうと即座に「嫉妬している」に変換されてしまう風潮がある。「どうでもいい」と言っている当人ですら「もしやこれは嫉妬なのか?」などと考え始める。  一般的な価値観こそ正当であり、それを否定する考えは全て何らかの倒錯・負け惜しみ・ルサンチマン等々として処理される。誰もが薄っすらと心理学者気取りであり、ニーチェ気取りであり、労働宣教師であり、隠れたものを暴きだすことで他者を同化できると考えている。  日がなパソコンに向かって、何か思いついたら書いて  忙しい、充実している、努力している、貢献している、だから何だ。リアクションに困る。でも普通は、そういう話をされた方が盛り上がるらしい。  色んなことについて「どうでもいいなあ」と思いながら生きるのは虚しいことなんだろうか。  世間的価値観に馴染めない人間もそれはそれで「そういうやつ」というカテゴリに包摂され世間的価値観の中に位置付けられる。そして世間的価値観に馴染めない当人もまた、知らず知らず自分を「そういうやつ」と見做すことで世間的価値観に迎合していくことになる  常に自分の正当性を言葉で確認しながら生きていくしかないのだ。わざわざ言葉で確認せねばならないのが劣位の証、言葉にするまでも無く自明であるのが優位の証、だから世間的価値観というものは強い。  変な子供は割と周りの子供に好かれるが、変な大人は周りの大人に嫌われる。私の自意識はずっと変な子供のままで、周りもずっと子供のままのような気もしていて、しかし最早好かれることはない。  私のほっぺはいつの間にただの頬になってしまったのか。  価値観を相対化していくと言語が信用できなくなる。言語が信用できなくなると、「言うまでもないことこそ信用できる」という話になってくる。そこで、世間一般の常識的価値観が勝ち残ることになる。相対化の結果相対化できなくなる。そういう罠がある。  平凡なことを、考えた通り平凡に書くこと。  どいつもこいつも死ねばいい、と思った時の最適解は、やはり自分が死ぬことだろう。  全てを間に合わせで生きてきてしまった感がある。  間に合わせるのではなく、常に努力して余裕を持ってことを運ぶのが良かったのではないかと、たまに考える。  しかし「努力して余裕を持つ」というのはおかしいのではないか。努力なんぞしているということは、余裕が無いということなのでは。  志望が無かったので、雰囲気で選ぶしかなかった。  とにかく済ましてしまえば、後のことは後の私がどうにかするだろう、といつもこれで済ましてきた。  怠惰に過ごすとそうなる。といっても、一体何を勤勉にやるべきなのか分からなかったのだが。  適当に流れ着いたところに居つけばいいという自分の格率に従ってきた。指針を持たないのがむしろ指針だった。  行き当たりばったりを極めることだ。私に人生論があるとすれば、それだけだ。  興味の無さを隠すのが苦手だ。日常会話を上手くこなすことすら苦手だ。内容に興味がないと頭が真っ白になる。問い合わせはしてるのだが、脳味噌が回答しない。  興味の無いことについては私抜きで勝手にやっててくれとしか思えない。  協調って支配だよな。  哲学や宗教についてだけは、誰か私より優れた人間に任せるというわけにはいかない。だから好きだ。  先人たちに敬意を。彼らは私にとって最も大事なことを、私の代わりに考えてくれたのだ。  私自身のものの見方や思想というのもほとんど他人の写しに過ぎないとはいえ、原本より写しが劣っているということはない。  少なくとも対象をきちんと見れていないと写すこともできないのだし。  正確な写しなら、誇りを持ってその写しを自分のものと言い張ってよく、不正確な写しなら、それはそれでその不正確さの中に自分のものがある。  それが自分のものだというだけで、他人のそれより優っているのだ。  オリジナリティがない? いいんだよ。良いことは誰が何回言っても良いんだから。  対等な友人も仲間もいない。「私ごときが誰かの友人になれるか?」という気持ちと、「お前らごときが私の友人になれるか?」という気持ちが同時に  互いに評価し合わなくて済むような人はどこかにいないのか。評価し合わず済むような、そんな素晴らしい人は……。  いつでも私は人生の本題らしきものを疎かにして、それ以外に全力だったな。  いや、私にとっての本題が周りと違っただけだ。  「やるべきことをやってから、やりたいことをやるんだぞ」と説教されたことがある。そんなの言ってて悲しくならないのか?  しかし人生の悲哀がどうのこうのということもなく、自然にそう思っているようで、それが恐ろしかった。  良い人ほど自分を卑下しがちだ。だから私は良い人なのだ。卑屈な者に幸いあれ。  「人生」という言葉は、もちろん私も大いに使うが、あまり好きな言葉ではない。なんか胡散臭い。「人生」などというものが本当にあるのか?  「人生を賭ける」というのは、何を賭けているのか。「人生が滅茶苦茶になる」「人生が壊れる」という場合、何が壊れるのか?  過去が変えられないのは自明なので、過去に囚われないことは割合簡単ではある。深刻な心的外傷を負わない限りは。  未来に囚われないようにするのは難しい。何となく、未来は変えられるような気がするからだ。実際のところまだ未来は無いのだから、何が変わるということも無いのだけれど。  既定路線があるような気がしてしまうのだ。「このままだとこうなる」。それはまずいから、「じゃああっちの道に移ろう」ということで、「未来が変わる」と。しかしやっぱり、まだ無いんだから、変えるも何もないのではないか?  未来に囚われず行き当たりばったりに生きると、今度はそれを後悔して、過去に囚われたりする。  根拠らしきものを添えて断言されればそれらしく聞こえるものだ。  自然になろうとする人間は不自然だし、人間の不自然さもまた自然の一部ということで、両者は対立しない。  社会という単一の集団があり、その中に構成要素としての集団や個人がいる、のではなく、社会とはそもそもある集団、ある個人から見られたものに過ぎない。  「ために」というのは生の中にあるのであって、生そのものが何のためにあるかというのは不適切な問いだ。  人は社会に貢献するために生まれてくるのではない。  人は活躍するために生まれてくるのではない。  人は成長するために生まれてくるのではない。  生が何のためにあるかと問いたくなるのは、生が時間により分断されるからだ。現在が未来のためにあると思うからだ。  現在が苦痛に満ちており、より良い未来に向かう見込みも無い時、生は何の為にあるのかという問いが出てくる。人は痛めつけられると、自分自身を手段としか見做せなくなる。  「自分の人生は自分で決めた」と言っている人も、「自分で決める流れ」だったからそうしただけで、その流れを作ったのは自分ではない……。  動ける時が来たら動けるようになるから、それを待つこと。  動けない時に動こうとしても仕方ないからね。  意志とは発揮するものではなく湧いてくるものなのだ。  怠けなければ時間はある。  怠けてないのに時間が無いなら、まあそれは、状況が悪い。  意味があるからやるのではなく、やるから意味が出てくる。  何であれ、犠牲を捧げてこそ本物になり、現実になる。  一つ一つ読み解いて、覚えて、記録して、相談して、解決するように。するといつの間にか、理解している。  喜んで、自発的に従属する時、人間は最も幸福なのだ。  すべきことができねば生は虚しいのだ。  神に生まれたかった。さもなくば虫に生まれたかった。  自分の意志を信じるくらいなら、神仏を信じた方がましだ。  罪があるから神が裁くのではない。神は裁きたかったから罪を作ったのだ。  歴史的には、人間が神を作った。非歴史的には、神が人間に自己を現した。  人間が神を作らねば、神は存在できない。しかし神が許さねば、人間は神を知ることも信じることも、作ることもできない。  病んでいる人、苦しんでいる人、不幸な人が好きだ。でもずっと不幸でいて欲しいわけじゃない。幸せになってほしい。ただし、彼らより先に私が幸せになりたい、というだけだ。でないと彼らの幸せに、私は耐えられないだろう。  自分の生活の苦しみを、人生そのものの本質的苦しみと取り違えないよう。生活は変えられるかもしれない。  物事のほんの一面を指して本質と呼ぶのはやめましょう。  マシな方を選んでいくしかない。  一時凌ぎを繰り返していれば、いつの間にか終わっている。  誰かが悪いという発想を捨てるべきだ。誰も悪くないからだ。  「誰も悪くないなら、このようなことになるはずがない!」いや、なるのだ。起きることは有っても、起こすものは無いからだ。  人は悪くないし、社会は悪くないし、環境は悪くないし、歴史は悪くない。全て完璧だったのだ。それでもこうなる。  一冊を散漫に読むよりは、一箇所を注意深く読む方が良い。  初めて聞いた曲が分かることは稀だ。分かるには何度も聞かないといかん。  というかもう、ある程度はその曲を覚えて、慣れないといかん。慣れている曲が名曲なのだ。最終的に、曲を聞いているのか、慣れを聞いているのか、分からなくなってくる。 同一律 AはA自身と等しい 矛盾律 Aは非Aと等しくない 排中律 Aでありかつ非Aであるような中間Mは存在しない 充足理由律 Aは可能であり非Aも可能である。そうして非AでなくAが現実となることは、偶然でなく、必ず理由がある。  (概念的にはAでも非Aでも矛盾はないが、現実的にはどちらか一方でなければならず、その選択には必ず理由がある、という考え)  夏は日差しを防ぐため、冬は窓から来る冷気を防ぐため、カーテンは常に閉めておく。  自分と戦うのは嘘だ。人は状況と戦うのであって、自分とは戦わない。克己は幻想だ。自分は味方でなければ。  ずっと一緒にいよう。決してお互いを見捨てずにいよう。共に老い、共に死のう! 何がどうなろうと、私は私を愛している。  日常の中に幸福なひとときがある、では駄目なんだよなあ。日常そのものが幸福でなければ。