日々悩みは尽きず、一つ山を越えればまた次の山が現れ、生きることそのものに嫌気が差してきているのは、何も最近に限ったことではない。問題の解決は新たな問題を生むだけだ。しかし解決しない訳にも行かない。
世界の真理が明らかになったとして、それでどうするのか?
結局のところ、現に有る通りに有るしかないのではないか?
哲学で何が分かるということも無いが、哲学以外で何が分かるということも無い。
問いに答えるのは良い。問わずに答えるのはなお良い。
何物も自分の物と思うな。それらにはそれらの都合がある。
言葉に深いも浅いもあるか。ただそう思ったのだ。
生きているだけで、何かが減っていく。減るのは勝手に減る。増やすのには苦労する。壊すのは容易いが、直すのは難しい。肉体は確実に死へと崩壊し、食い止める術は無い。死んでいくこと、減っていくことにより苦痛が生じる。苦痛を解消するために、欲求が生じる。苦痛は止まらない。欲求は止まらない。だから苦労も止まらない。欲求を処理して満足しても、それは減ったものを元に戻しただけ。元を越えて増やしたとしても、いずれは全て無くなる定め。総じて無意味、空虚なだけ。でもその空虚な過程をやらざるを得ない現実。積み上げたものは崩れ落ち、妄想しては幻滅し、目覚めたとしてもそれは夢、終着点は決まっている。
世界とは、存在とは、生とは、私とは、何か? もしここが全く無苦痛の世界だったら、そんな問いは不要だったし、思いつきもしなかっただろう。そもそも生きることは、苦痛に対処することである。
完全に無苦痛の世界を仮定する。それは果たして世界たりうるだろうか? 苦痛が発生しないのなら、私はどこに注意を向ければいいのだろう。ものを識別する必要もない。思考も行為も必要ない。つまり世界が必要ない。然るに世界は存在している。だから、世界は苦痛を原初に持つ、と言うことができる。世界の前提は苦痛である。
苦痛と共にある世界、苦痛によって形成された世界においてこそ問いが生じる。これは一体何なのか? 何故こんなことになったのか? 「何」とは本質の問いである。「何故」とは根拠の問いである。どちらにも所詮、答えられない。
本質は、本質規定者との関わりによってのみ本質なのだ。世界とは何であるか?――現に私がそうであると思ったようなものである。単に私がそう思っただけだ。世界が本質的に何であるかなど、誰に答えられるのか?
また私はいつでも同じ私である訳ではない。時と場合により認識は変わる。世界に不変の本質があるなら、それは時間を超えて、現実の出来事の外から、与えられたものでなければならない。しかし私は世界内にいるのだ。
認識する者の数だけ本質もある。認識者が一人だとしても、なお時間的に分裂する。「ただ一つの本質」は存在しない。世界は多義的であり、本質は時間的にも、空間的にも離散的である。
時間的・空間的に複数の存在者が同じ本質を見ることはあり得ない。見る者が違えば、見られたものも違うのだ。
本質は根拠の一種である。事物が正にそのものとして、そのように働くために必要な何かである。事物は関わりによって生じる。その関わりの各項が、その事物の根拠である。そして関わりが成り立つ正にその時、その現在において働き、関わりの在り方を規定するある種の力が本質である、と考えられる。本質は内的根拠である。
根拠の存在は後付けの説明にしかならない。
まず特定の状況がある。それからその状況を生み出すに至るまでの過程、状況を成立させるのに必要な要素を想起、或いは考案する。事物には直接出会われる。しかし事物の根拠は、事物に関する思考を通して間接的にしか与えられない。
生起の根拠は生起に遅れてくる。それが成立した後でのみ、それが生じた原因・根拠・理由が分かる。
いつでも「ここにいること」「このようにいること」から話が始まり、その後、絶対的な遅れと共に「何故ここにいるのか」「何故このようにいるのか」が問われるのだから、「ここにいること」「このようにいること」の原因は、真実には説明できない。生起の理由を、生起する前に問うことはできない。だから理由は無い。とにかくこうなっている。以上、問いは先に進まない。
理由を答えられたとしても、その理由の理由を答えねばならない。これは無限に続くので、遂に理由は答えられない。
何かを知るということは、それをそういうものとして受け容れるということである。知られたもの、理解されたものはその性質を固定され、世界に正しく位置付けられる。
苦痛を知ることは、苦痛の正当化に繋がる。本質への問い、根拠への問いを通して、苦痛が生じざるを得ない必然性を探っている。苦痛をあるがままの真の現実として肯定するため、そうすることで却って苦痛を逃れるためである。
苦痛を克服しようとする具体的努力は常に実践されている。それが即ち生である。そしてその努力そのものが、また一個の苦痛なのである。生じてくる苦に対処する戦い自体が。ここに、偶発的に生じてくる個々の苦痛とは異なった、より根底的な苦痛の存在が示されている。個々の苦痛への対処のみでは不足する。個別でない苦痛とは、普遍的苦痛である。普遍的苦痛は世界の根拠である。と同時に、世界があってこそ苦痛も生じてくる。だから世界を知らねばならないのである。普遍の観点に立って自己を救うためである。
その都度の瞬間は、その都度の本質を語る。唯一の本質が有るのではない。瞬間は連なってこそ瞬間であるから。その都度の本質があり、その都度の探求があり、理由がある。その関係性の全体については、もはや理由が無い。或る理由の羅列、因果の系列が存在するということそれ自体については、もはや理由が無い。根拠の無い本質、原因の無い原因を現に生きている。ただこうしているだけなのだ。
苦痛から問いが生じ哲学が始まるというのは誤解であり得る。哲学の根拠に苦痛はないかもしれない。それは哲学が現に始まった後に、その哲学自身によって呼び出された根拠に過ぎない。とにかく哲学は始まってしまっていたのだ。
苦痛を引き起こす根底は無い。苦痛には何の根拠も無い。意味も無い。それを問いただし、解明しようとすることの方こそ倒錯であり、更なる苦痛の元となる。無いものを追い求めているのであるから。ただ実践が残る。苦痛は根底的に解決されるべきものではなく、日常的な範疇でその都度対処し、向き合っていくべきものとなる。
哲学とは何か。迂路を見渡すことである。結局始点に戻りつつ、しかし以前より「深く」物事を見ること。深く見つつ、浅く振舞うしかないと知ること。この一連の運動そのもの。
「哲学は何のためにあるか」などと問うのは、「時間や空間は何のためにあるか」などと問うようなものだ。
快楽は苦痛の裏返しに過ぎない。快楽は、「そこから離れると苦痛だ」ということ、「そこに向かわねば苦痛だ」ということを示す。快楽を求めねばならないのは苦痛であり、快楽から離れねばならないのも苦痛である。
現れたものに対処するのが意志である。対処の最も原初的形式は、「そうしないと苦痛だから、そうする」ということである。意志は苦痛に対する反応に過ぎない。
何かが与えられる。適切に対処しないと苦が生じるから、対処する。この繰り返し。
散らかったものを片付けているだけだ。しかも散らかしたのは私ではない。
不足が生じたので、それを埋め合わせる。また不足が生じたので、それを埋め合わせる。
現れたものに対して反応するのだから、その現れたものによって、意志は制約されている。完全に自由な意志は無い。
苦しむ所に意志がある。意志は二次的であり、対処的であり、自発ではなく、引きずり回される。
世界の全てが思い通りに動き、望んだことが全てそのまま実現する場合、世界の動きと私の動きは一致し、私は私がここにいることに気付けない。
私がここにいるということは、既に世界と私がずれていること、思い通りにならないものがあること、苦を感じていることを示している。
完全に自由な意志は、何かに反応するのではなく、全く自ら全てを創造する。全てを自ら創造するところには、自己に対する抵抗が無い。抵抗が無ければ自己は無く、自己が無ければ意志も無い。よって完全に自由な意志は無い。
自分の願望と、現に有る物事とのずれが苦を生じさせる。否、苦とは正にこのずれそのものである。だから起こることを全てそのままに受け入れ、臆することなく事物の内に分け入り関わることができれば、苦は生じない。苦は現象の根底に有るものではなく、主体の或る兆候を指示するに過ぎない。――しかしこの解釈こそ、「そのように振る舞わねば苦が生じる」からこそ成り立つものである。苦を前提とした上で、そこから逃れるのだ。苦は何時でも、主体が落ちてくるのを待っている。
私の存在は苦により自覚される。他者は苦をもたらすものとして有る。意志に抵抗をもたらすものは、意志である。私が進もうとすることを阻むのは、私と同じく進もうとする意志である。私は自己の苦痛を通して、他者の意志を知る。
結局、これは何なのか?
なるようにしかならないし、なってしまえば大したことはない。
どうにでもなるし、どうにもならない。
「知っている」と思うな、「信じている」と思え。
知ることはできずとも信じることはでき、信じられずとも考えることはでき、考えられずとも存在することはできる。
世界の本質はその都度の規定を超えていなければならない。むしろその都度の規定の意味をこそ規定するものでなければならない。
評価・恣意・相対性から独立してそれ自体で輝く、絶対的な意味こそ世界の本質である。
私の目的は、世界全体の目的に接続されねばならない。
世界の意義は私の苦痛の意義であり、行為の意義、生死の意義でもある。
世界に意義が無ければ、私の存在にも意義は無く、私がすべきことも無い。
生起はただ偶然に生起する。
瞬間は断絶し、現象はただ端的にこのように現れるのみであって、常に推移して本質を持たない。
世界の本質は不変の真理として、生起の推移・瞬間の外になければならない。
しかし世界は常に全体として生じ滅するのであって、その外は存在しない。外の表象もまた世界の内でしか生起しない。
世界内の事物の意味は、世界内に有る関係による。世界そのものは、何とも関係しない。関係は世界内にしかない。
世界内のどのような些事もその根柢を私は知らない。
物理的な意味は無い。意味は心情による。では心情には何の意味があるか。
意味が実感できたとしても、それはただの感覚である。感じられたから何だというのか。
意味を持たせることはできる。だが持たせた意味は意味なのか。
意味を語る者がいたとしても信用に値しない。それは言葉に過ぎない。
幸福は世界の意味たり得ない。その幸福の意味こそ更に求められねばならないから。
仮に真理に指標があり得るとしたら、それは幸福以外にあり得ない。
幸福はその外を排斥する。幸福は自己完結する。幸福は完成である。
世界の意義は、求められるから問題となる。求められない限り問題とならず、存在もしない。幸福な者は世界の意義を求めぬ故に真理に達する。
不幸な者だけが世界に意義を求める。
幸福は真理がそこに有るという気分である。気分は世界を満たす。幸福な世界は真理そのものである。
幸福感が伴わなければ、何かを真理とすることはできない。また真理に到達したとしても、それに気付けないだろう。真理は幸福に依存する。
真理に達したが故に幸福になり、真理を逸したから不幸になるのではない。幸不幸が真理を決める。
真理が幸福をもたらすのではない。幸福であればそれが真理となる。不幸がそれを虚偽とする。虚偽にあってこそ真理は求められる。だが求められているのは幸福なのだ。
或る真理と共に幸福であった者が、後にそれが非真理であったと気付かされ、不幸になる。だが、非真理が不幸をもたらしたのではない。不幸な気分の訪れが、それが非真理であることに気付かせたのだ。
何も問題にしなければ、何も問題にならない。
なるほど、意味はある。では意味があることには、何の意味があるか。
よろしい、無意味である。では無意味であることには、何の意味があるか。
無意味であることが真理であるなら、その無意味さを誠実に認め、無意味を無意味としてそのままに味わわねばならない。
無意味を意味にすり替えてはいかんのだ。例えば、無意味だからこそ「自由」なのだとか、「気楽」なのだとか、これは一つの「遊戯」なのだとか、無意味であることは「自明」だから別のことを考えろとか、そんなことを問うのは「無駄」だとか。無意味さは、意味を問い続けることによってのみ示される。
全時間を通じた真理を把握するには、現実に全時間を通じて私が存在するしかない。全時間を通じて存在するには、過去と現在と未来に同時に存在するしかない。過去も未来も現実に存在しないため、それは不可能である。
過去と未来は現在に有ると考えれば、全時間に存在することは可能となる。永遠の真理は現在に有る。だが現在は即座に過去であるから、永遠の真理は常に新たに想起され直されねばならない。常に新たに想起を要するものは、想起の可能性として永遠に有る。ただし、常に新たに生起するものとして、永遠では無い。
世界の創造主は世界創造と共に自己をも創ったか、世界を創る以前から存在したか、どちらかである。
前者の場合、創ったとは言えない。創造主が世界を創ったという事実自体がここで創られたものであるから。
後者の場合、創造主はそのまま自己のみで存在することが不服だったから、世界を創った。つまり世界創造以前に、創造主の苦痛が、即ち創造主にとっての世界が、存在していたことになる。(だから、その創造主の世界をも創った者が、真の創造主ということになる。この過程は無限に続くため、真の創造主には辿り着けない。)
創造主が理由無く(「楽しみのため」とか「退屈凌ぎのため」とかの理由すら無く)世界を創った場合、創造主は自分が何をしているのかすら分からず動いていたはずだ。行為は理由によって意味を持つのだから。創造主は訳も分からないまま世界を創ったことになる。よって自分が何を創ったのかも分からなかったことになる。よって世界を創ったのではないことになる。
世界を無から創造するものは、それ自身無から出てくるのでなければならない。故に創造主は存在しない。
世界が理由無く存在しているとしたら、私は何をしているのか。訳も分からず、生きているから生きているだけだ。よって私は何をしていることにもならない。
世界の存在理由が、私の存在理由でもなければならない。
何の実在を疑ったとしても、その疑いを持つ私の存在だけは疑えない。自身への懐疑が遂行される時すら既にそこにいる、懐疑に先行するものが私だからである。
しかしこの理屈が底の底から本当に正しいかどうかは怪しいものだ。何しろ「我あり」といって証明されたその我は、とにかく疑っている我だからだ。疑っている我の存在が証明されたところで、それは証明になっていないのではないか。我は依然その証明を疑っているはずだから。
疑っている私が実在することの証明に成功した、という事実を疑っている私が実在することの証明に成功した、という事実を疑っている私が……と無限に続かねばおかしい。結局我は我に届かず終いなのだ。我ありという真理は証明ではなく、むしろ証明の放棄によって証明されたことになる。だからこそ、私の実在ということは幾度となく言い直されねばならず、その度ごとに改めて自覚され直す事柄なのである。
私は考える。――考えているのは私なのか?(私ではない何ものかの考えたことが、私に送られてきているだけかもしれないではないか?)
私は考える。――考えるという行為があるからといって、それを可能にするような何か(主体)が必ず存在するとは言えないのではないか?(考えている内容はあっても、考えている主体などどこにどうあるのか? 主体もまた考えられている内容に過ぎないではないか?)
単にある考えが浮かぶだけでは、その考えの主体が私であることは導びかれない。また、「考えの浮かぶ場を私と呼ぶのだ」と言ってみても、考えの発生するための場が、考えの内容から独立に存在するということは疑わしいし、そういう場があったとしてもそれは「私」ではあるまい。ただ単にそういう場があるというだけのことである。
ここにこれがあるという、これだけが確実なのだ。疑いあり、ゆえに疑いあり、とだけ言えばそれが最も確実である。疑いに徹する時確実なのは疑いの存在であり、私の存在ではない。
懐疑は本当に懐疑なのか、と懐疑することはできない。それを懐疑と呼ぶのなら、それは懐疑でしかあり得ない。それは活動であり、在り方である。在るものが本当に在るかどうか疑うことはできるが、在り方まで疑うことはできない。私があって疑いを抱くのではなく、疑いがそのまま私である。さもなくば私は無い。
考えても仕方ないことは、考えないのが良い。しかし考えても仕方ないかどうかは、考えないと分からない。そして考えているうちに、考えずにはいられなくなってくる。
「考えても仕方ないことについて考えても、仕方ないでしょう。」
「考えても仕方ないことについても考えてしまうのだから、仕方ないでしょう。」
一体、仕方なくないことなどあるのか?
生きるために考えるのではない。考えるために生きるのだ。
「考える」は、他の行為に比して重要なものとされやすい。思考はあらゆる存在をそれとして規定するための要であるからだ。思考は他より一段高い行為である。「夢を見ている」という判断も思考、「騙されている」という判断も思考、「歩く」も「食べる」も思考である。思考によって規定されねばあらゆる行為は無効であるからこそ、思考は行為の根源である。
では「思考する」という行為をそれとして規定するものは何なのか。それも思考だということになるのだろうか。思考は自己原因だろうか? しかしそうであるなら、思考というのは終には無根拠だということになる。当然「私」が思考の根拠であるのでもない。「私」がここに存在するということすら思考によって可能となるのであるから。
思考が規定することで、あらゆるものは存在できる。存在は思考により基礎づけられる。しかし思考自身は基礎づけられていない。それは突如として有る。だとすると、思考により規定されるものもまた、突如としてそのように有る、としか言えない。そして突如としてそのように有るものは、そもそも思考されて有るものではないだろう。それは「思考によって成立したもの」として、思考以前にそれ自体で有るのだ。
だとすると、「思考があらゆる存在を規定する」という命題は誤りだということになる。有るものは思考によらず、単にそれである。我もそれとして我であり、汝もそれとして汝である。
それはそれとしてそれである、故にそれあり。
「私は考える、故に私は有る」。
「私は考える」は有る、故に私は考える。「私は有る」は有る、故に私は有る。
「私は考える、故に私は有る」は有る、故に私は考える、故に私は有る。
行為が成立するためには、行為の認識が必要である。全ての行為は自覚された行為である。即ち、知的な、思考された行為である。他の現象から切り離されることでそれとして規定され、自覚と共に行われるのでなければ行為とは呼べない。
私の身体を私が動かしているとしたら、それは私の意志である。
私の身体の動きが感覚の集合であるとしたら、それは諸感覚の意志である。
世界が私の夢だとしても、現に私はその夢の中で、私の現実に対処している。ただ世界が私の夢だとしたら、私以外の全てのものをも、私の無意識が作り出していることになる。私の恐怖も不安も憎悪も、全て私の無意識の願望ということになる。一人芝居なのか。自業自得なのか。何故私はわざわざこんなものを?
存在するということは、それが何らかの機能をもって直観ないし思考に現れてくることである。一切の機能・作用を持たないものは、認識されず、存在もしない。
世界の全体は作用の全体である。作用の全体は影響関係の全体である。
世界は作用の全体だが、物理作用の全体ではない。
影響関係は物の関係ではなく、概念の関係である。物理的関係は既に概念的関係である。概念によってのみ、物理的関係はそれとして理解可能となる。
概念的関係の背後に、成立根拠として何らかの物理的作用を想定したとしても、その想定自体、概念を経由しなければ理解できないことである。
全ての事物が何かに作用し、繋がっている。世界は一つである。
全宇宙は、隣り合った部分相互の物理的関係の総体として、一つであると考えることができる。しかし実際に全宇宙を隅から隅まで隈なく点検して、全部分の相互の繋がりを確かめるという訳には行かない。
世界は物理現象として一つである前に、概念が並列し、関係することを可能とする場として一つである。
物理的全体、空間的な相互作用、時間的な因果関係は、世界の有り方として一つの解釈に過ぎない。
全てが一つであるその場は、現にここにある。
私は世界内の全体作用の中にいて、一端を担っている。
過去は無数の事物の集積である。その中から特定の事物のみが抽出され、原因とされる。だが原因は無数に連なるため、本来見渡すことができない。
遠くのものは小さく、近くのものは大きく見える。しかしそのもの自体の大きさは恒常的に変わらない。見え方は表象にすぎず、実体は固定されている。この固定されたものが、真理の素朴な原型である。
真理はそれ自体としてあり、誰に対しても等しく現れるか、或いは現れ方が違ったとしても、そこに唯一の本質がなければならない、そういうものである。
善の現れ方は多々あれど、善そのものは一つでなければならない。
世界は様々な存在者に対し様々に現れるが、その本質構造は一つでなければならない。
私たち二人がいて、私からは彼が見えるが、彼からは私が見える。しかし我々は同じ一つの世界にいる。両者の間にものがある。見る角度が違っているから、見え方も異なっている。しかし同じものを見ているはずである。
ある物が実在なのか、それともただの幻なのかは、私一人では判断できない。
誰にとっても同じものが真理である。だから真理が真理であるためには、他者からの承認が必要となる。
私が一人で勝手に主張する言葉、他者からして誤った言葉、説得力のない言葉は真理たりえない。
真理は公共のものである。
真理の条件は説得であり、共有である。
誰からも承認されずとも、実存的に掴み取られる真理がある。それは妄想と区別がつかない。
妄想と真実を区別しようと思えば、その基準は公共性にしかない。
完全な真理とは、全ての存在者が承認する真理である。しかし全ての存在者が本当に全てであるかどうかは不明であるため、完全な真理もまた導かれることはない。
真理は或る集団にとっての真理である。
「真理である」ということは、「説得が成功した」ということに過ぎない。
今だけが存在する。全ては「常にこの瞬間に」存在する。事物は動くが、事物の有る場は動かない――いや、場も確かに動いてはいる。場に映じる内容が動く限り、場もまた動いている。内容から場だけを切り離すことはできないからだ。生起は全一的であり、事物も、事物が生じる場も、その都度の全体として滅しまた生じている。流れるものと、流れの見える場所を分別するから両者がある。流れる事物を窓から眺めている訳ではない。――さりとて只管流されるばかりでもない。流されたところが同じ場所なのだ。彼方へ流されたと思えば、同じ場所にいる。何処まで行っても同じ場所、絶対の此処にいる。時は去りつつ回帰する。これもまた「去る」ことと「回帰する」ことを分別するからそうなるのであって、現に有るのは両者以前の、ただ只管な即今当処である。そのように自覚される度毎に。
今に落ち着き、今に動かねばならない。
現に有る今、現に有る。ここで何をするかだ。何をするでも無い。これをするのだ。これをしている。しているのが私だ。落ち着いているなら、それが私だ、それで良い。動じるなら、それも私だ、落ち着け。
前も後も無い。何が起きたということも無い。起きるだろうということも無い。次にどうするか考えるな。現に有る通りに自ら成れ。有るべきところのものに成れ。集中して対処せよ。放っておくな。しかし測るな、計算するな。いや、計算しようがしまいが、来たところに応じるしか無い。それもやはり今だ。どうなってもそれは同じだ。逃すな。捕まえておけ。
過去を思うことは過去に動くことだ。未来を思うことは未来に動くことだ。動けない。だから過去・未来は散乱、濫費だ。気が散る。力が散る。動けないところに動こうとするには無理がある。無理をやるから力が削がれる。力が削がれて、遂に今にも動けなくなる。時が死ぬ。後は流されて行くだけだ。それは死体だ。私は死体では無い。
別様に有ろうとするな。他を、外を求めるな。理想を抱くな。先を読むな。後のことは、後の私がどうにかするだろう。
今やらねば、後で困るか? そう思うならやればよい。だが今やったから、後で困るかも知れん。どちらにせよ、出たところで勝負するしかない。
動揺や不安は時と場合により生じる。だからそれらを克服するには、時と場合を超えたものに落ち着き、悠然と構えていなければならん。それが今だ。何処まで行っても同じだ。だから何処まで行っても、同じようにやることだ。
ただこの「何処まで行っても」を間延びした形で捉えると、倦怠、懈怠、退屈、空漠が生じてくるのだ。不足が生じる。それを埋める。また不足する。また埋める。この繰り返しだ。何の意味が有るか。しかし不足を満たそうとするその動きにこそ、積極的なものがあると見なければならん。それが働くのは何時なのか。即今だ。何時でも今なのだ。繰り返しなど無いのだ。ただ今どうするかだ。今こうしているところに全てが有る。自余のことはどうでもよいし、実のところ、どう有るのでも無いのだ。
何か一つしくじれば、次もしくじるだろう。そうして何処までもしくじり続けて、終には潰れてしまうだろう。そういう不安がある。だが「終」とは何時か。潰れるのは何時なのか。潰れたらどうなるのか。死ぬのか。死んだらどうなるのか。死んだ先に何が有るか? やはり今なのだ。死ななくても今、死んでも今だ。同じようにやればよいのだ。何も変わらぬ。
「こう動けば、こう返ってくる」というのがあるだろう。私の動きは私だけの動きではない。必ず返ってくるものが有る。動いて、返ってきて、また動く、これが活動だ。これが今だ。何をしようと一つの今だ。何が返って来ようとまた一つの今だ。その働きそのものを見よ。
現に私は世界や他者と関わっている。こちらが動けば向こうも動く。押せば退かれることも有り、退けば押されることも有り、双方押し合うことも有り、退き合うことも有る。それが現にしている活動だ。そこを抑えておかねばならぬ。何をしようがしまいが、その通りのことが返って来る。善悪の話ではない。事実の話だ。何かすれば、何かが起きる。当たり前だが重要だ。やっているのが自己なのだ。
試みに一歩踏み出してみよ。何が起きるか。それは分からぬ。だが起きることはその一歩に応じたものであるはずだ。だからその応じてくるものに、また一歩応じてやればよい。それなのだ。それだけだ。自己が有るということはその交渉のことを言うのだ。
「だから全ては自己に懸かっている」。確かにそうだ。だが自己に懸かっていることは、他者にも懸かっている。自分さえしっかりしていれば、全て上手く行くなどと考えるなよ。それは真理の半面だ。全てを上手く打ち返せるのが達人だ。それは理想だ。打ち返せないものが出てきたらどうする? 打ち返さないことだ。擲つことだ。苦痛を覚悟することだ。祈ることだ。
それだけだが、これもまた真理の半面に過ぎぬことも忘れるな。簡単に諦めてはならぬ。良く発せよ。一つ発することを一つの試行と見よ。応答の連鎖を自ら作り成せ。だが決して何か重大事がそこに懸かっているなどと考えるな。単に一つの試行と思え。上手く行けば上手く行き、上手く行かねば上手く行かぬ。それぞれの結果にまた応じるだけだ。それを淡々と繰り返すこと。
「かもしれない」と言っておけば間違いはない。――誠実だが、退屈だ。
真理を語るなら、嘘つきを名乗らねば。
未だ破られぬ妄想を真理という。
そう思うならそうなんだろう。信じれば真実だ。信じ切れれば。
世界には表面しか無い。発見された深層は新たな表面となるから。
全てが真理であるから、思い煩う必要はない。同時に全ては疑わしいので、思い詰める必要はない。
何かが存在するのは自明だが、何が存在するかは自明でない。とにかく何かが存在してはいるが、それが何かは分からない。これが哲学的困惑である。誠実であろうとするなら、哲学はその初めから終りまで、困惑であるべきだ。言わば哲学は、始まってはならない。
所与の何かを自明と見なすことから哲学は始まる。困惑は徐々に解かれ、気晴らしが始まる。困惑は問いとなり、論理となり、謎の解明となってしまう。後はそれらを巡って「探求」を続ければ、立派に哲学が完成するという訳だ。
現に有るような、こういうもの(意志したり、思考したり、苦悩したりするもの)として私が存在していることは不思議だ。世界がこのような構造・歴史・性情を持っていることもまた。
これ以外の在り方を想像しようとしても、それはただ空虚な概念、言葉、非現実としてしか得られない。これも不思議だ。どうしてこうなのか。
もしこういう存在の仕方しかできないとしたらそれはそれで不思議だし、他の存在の仕方もできたのに何故かこれになったのだとしても、やはり不思議だ。なんなのか。
どうせ分からないものについて問うのは気楽だし、楽しい。
私は現に感じられ考えられた通りの世界を描写したいのであり、謎や問題を解きたいのではない。
私が別の何かに変わる時、記憶を保持したまま変わるなら、それは根本的には変化ではない。記憶を失って変わるなら、変化したことに気付けない。よって私が別の何かに変わることは無い。
私の経験における瞬間と瞬間の間に、全くの別人の一生が挟まっていたとしても、私がそれを記憶していない限り、それは無かったことになる。別人は別人の記憶を持つ。そして別人になった私は、自分が変わったとは認識しない。別人になった私は私ではないのだ。だから、私は私である。私が別人になることは、絶対的に不可能だ。
「五角の四角形」が直観的に現れることは無い。それは言葉としてのみ有る。ただ、言葉が単に記号だとすれば、「五角の四角形」という言葉は、どのような形ででも直観に現れ得る。
言語表現に矛盾は無く、言語で表されたどのような事態も現実となり得る。
また、言語で表せない事態も無い。それはどのような言葉にもなり得る。
言葉は知覚される。知覚は他の知覚と結びつき、状況の中で機能を持ち、思考や行為を指示する。この点で言葉は他の知覚的存在者と何ら異なるところが無い。
言葉が無くとも物は有る。物がなければ言葉は無い。物は言葉に先行する。
言語は文節構造を持つが、それは世界の文節をなぞるだけだ。言語が世界を分節するのではない。言語自身もまた、世界から分節されてきたものに過ぎないのだ。
言葉は物を表せる。言葉自身が一つの物である。言葉は物が自身を現す手段である。
知覚は器官に依存しない。
まず目が有り、それが物を見るのではない。「見える」ということが有り、その原因として器官が特定される。
目の存在は視覚を前提するが、視覚の存在は目を前提しない。
目を失えば、視覚を失うことになる。だがこの場合でも、「目を失ったから視覚を失ったのだ」という認識が成立するのは、現に視覚を失った後のことである。目を失っても視覚が失われなかった場合、「目を失ったから視覚を失ったのだ」という認識は成立しない。よって体験の順序として、視覚の喪失は目の喪失に先行している。
或いは、今生じていない種類の知覚が突如生じたとする。その知覚が依拠する器官は、その知覚が生じたことで初めて、その知覚を生じさせる器官として存在するようになる。
知覚されたことと、思考されたことにより、世界は構成されているように思われる。実際には、両者は切り離せない。
思考された内容は、像として見えたり、言葉として聞こえたりする。思考そのものは無意識下に行われ、その結果として、様々な像や音声が脳裏に現れ、認識されるのだと考えられる。
しかし、作用などどこにあるのか? 無意識下にあるとして、無意識とはどこにあるのか? 脳内に流れる物理的作用がそれなのか? しかし物理的作用はそれ自体、認識され、思考された対象に過ぎない。
ただ思考された内容が、すなわち折々の像や音声だけがあるのであり、像や音声を発生させる作用というものはない。作用もまた像や音声としてしかない。結果としての像や音声だけがあるのだ。原因としての思考作用は存在しない。
思考されたことは対象としてある。思考する作用は、それ自体思考されたことでしかない。思考されたこととしてのみ、思考することがある。だから、思考されたことだけがあるのであって、思考する作用はない。
思考する作用がないのだから、思考された内容もまた、実のところ、思考された内容ではない。それは単に、それ自体で現われる知覚の一部なのである。
よって、世界には知覚しかない。知覚の塊が世界である。現にある最も表面的なもの、この知覚こそが世界の全てである。知覚以外には何もない。
まず認知があり、思考があり、それから行為があるとされる。そうではない。端的な行為がある。行為の根拠としての認知や思考は、行為そのものに遅れて来る。やってしまってから、何を見たのか、どう思ったのか、どうすべきだったのか、が整序される。
行為の生起とは、行為の知覚である。知覚は第一のものである。だから知覚に原因が無いのと同じく、行為にも原因は無い。
知覚はそれ自体では単一なものであって、単なる素材である。そこに思考の作用が加わり、現にある知覚が何の知覚であるかが判断されることにより、知覚の中に個が識別される。そうして知覚が意味を持ち、整序されると考えられる。純粋な知覚は無分別である。思考がそこに分別を加える。
しかし純粋な知覚などどこにあるのか? 思考の加わらない知覚など存在し得るのか? 存在するとして、そのような知覚が「現にある」とは認識できないのではないか? それが「純粋な知覚」であると認識することにすら、思考の作用が必要となるから。
だから純粋な知覚は、「あった」とは言えるが、「ある」とは言えないのだ。純粋な知覚は、思考された概念であり、現前しない。現前しないのだから、存在もしない。
純粋な知覚はないので、「そこに思考が加わる」とか、「思考により知覚が整序される」とかの表現もまた無意味となる。知覚と、そこに加わっている思考を分けて考えることは無意味である。純粋な知覚がまずあり、それが思考によって判断されるのではない。知覚は初めから判断され切っているのである。知覚が何の知覚であるかを判断する作用の概念こそ、すでに判断済みの知覚に対し改めて外的に付与されたもの、捏造された原因に過ぎない。知覚が判断されているとしても、それは思考によらない。
個を成り立たせるための作用の存在は「現にあるものは、何故そのように、それとしてあるのか?」という、根拠への問いによって付加された余計なものに過ぎない。そしてその問いと答えもまた、思考作用によってあるものではなく、それ自体で端的に与えられた一つの知覚なのである。
個は端的にその個であり、その個をその個たらしめるような作用は存在しない。直接に出会われるのは、常に特定の個である。成立過程は妄想なのだ。
私は人間であり、他人も私と同じような身体構造をしている。似たような原因からは似たような結果が生じるはずである。だから私の身体が私の知覚を生むように、他人の身体もまたそれと似たようなものを持つに違いない。
原因に遡り、概念的一般化のもとで結果を導き出すことで、私と他人にそれぞれ同質の意識があると考えられるようになる。
しかし私の知覚は、他人の知覚とは在り方が異なる。私の知覚は直接感じられる。他人の知覚は概念として考えられる。私は本当に何かを感じている。他人は本当には何かを感じていない。
私の知覚は根源的な場であり、全てに先行する前提であり、いかなる原因によるものでもない。まず知覚が生じ、それから身体を原因として見出したのだ。身体を知覚の起源とすることは順序を転倒している。
だから類推は失敗する。他人の身体が有るからといって、そこに知覚が有るとは限らない。
しかし現に有る知覚は、何故「私の」知覚なのか? これを「私の」知覚であると言えるのは、既に私と、私に対する他者の概念が与えられているからではないか? 両概念が有るからこそ、「現に知覚しているのは私であり、他者ではない」と考えることができるのだ。概念が無ければ、現に有る現れは「私の」知覚ではない。それは単なる現れであって、誰のものでもない。
他者が「本当に」何かを感じているかどうか、は問題ではない。現に現れているものが「私の」知覚であるということ自体、解釈されたことである。つまり私もまた「本当に何かを感じている」訳ではないのだ。「私が感じている」ということが概念的に構成されるのと同じく、「他者が感じている」ということもまた概念的に構成される。この点で、私と他者とは同格である。
ここでは確かに、本当に何かが感じられている。だが感じるのは私ではない。私は感じられる対象であり、感じる主体ではない。
社会的関係の中で、そこに有るべき(普通の、公的な)自己を見出す時にのみ、心は意味を持つ。剥き出しの心は心ではない。
倫理的含意(害意)の無い独我論は無意味である。
もし他者に心が無いのであれば、その身体を破壊しても本当に苦しむものはそこにおらず、殺しても殺したことにならない。
他者の心は倫理の根拠である。
私は他者に心が有るかのように振舞う。これはそのまま、他者に心が有ることを示す。
心が現実に存在するかしないかが問題なのではなく、現に私がどのように振る舞うかが問題なのだ。
「有るのか無いのか分からない」と考える時も、また「無い」と断じる時でさえ、既に他者の心は有る。無いものについては、無いとも言えないからである。
有ると言うも無いと言うも、同じものに対する態度であり、配慮である。
他者の心は懐疑以前に既に有る。
懐疑は一つの可能な態度に過ぎない。
独我論が正しい場合、私は「他者の心」について、有るとも無いとも、その中間とも考えられない。「他者の心」は単に意味不明の空語となる。
他者の心は実存しないが、実存しているかのような振りをするしかない。同じく、他者の心が実存しないとしても、それはただ実存しないという振りに過ぎない。
既に理解してしまっていることからしか始まらない。私はその理解に従って行為するしかない。
独我論の正しさは主張されるのではなく、遂行されねばならない。
心の概念は社会的である。それは他者と関わる時のみ意味を持つ。
心は、物的外面から区別された内面を意味する。
自分の内面と外面を分けることは、他者に対する時のみ有意味となる。
物的な振る舞いに反し、内心で別に振る舞い、別の思考を持っている時、心が意味を持つ。即ち心は、偽装する時に意味を持つ。
他者の心の概念が私の心から消え失せることはあり得る。その時全ての他者は、単に外面的に動くだけの客体となる。
単なる客体に対し、私は自己を偽装できない。よって私の心の概念もまた意味を持たず、成り立たない。
その時、私の心に映じた事物もまた、心に映じたものとしては解釈されず、単なる直接の現れとなるだろう。
そこで私は独我論に基づき行為するのではない。私は存在しない。ただ内も外も無いそこで、自然なことが行われる。
私の身体がどれほど痛んでも、彼は痛くない。彼がどれほど痛がっても、私は痛くない。
このことは存在者の孤独さの一例だ。孤独さとは言い換えれば、私と彼との非同一性だ。私は私と同一だ。私と彼とは同一ではない。
しかし同一性とは何か? 同一性とは、あるものと、別のあるものとの同一性だ。「一方に或るものAが有る。もう一方に或るものBが有る。そして両者は同一である。A=B」。これが同一性の表現だ。しかし、二つ有る時点で、同一ではないのではないか?
だとすれば、私自身の同一性もまた疑われるべきではないか? 実際、かつて痛がっていた私が、今はもう痛がっていないということは普通に起こるではないか。にも拘らず、その二つの私は同一と見做されるのだ。
であれば、むしろ私と彼が同一であることもまた、起き得るはずではないか? そのためには、彼が痛む通りに私も痛み、私が痛む通りに彼も痛むと、ただ端的に思い込むだけでいいはずなのだ。「しかし本当は……」などと続ける必要はない。同一性の根拠は、同一だと思うことだけなのだから。
いずれ死ぬ。精々今を味わうことだ。だがそれは死からの逃避ではないか? 逃避した先に何があるのか。――やはり死ぬ。
だが未来を悲観することこそ、今を生きることからの逃避ではないか? では逃避しなければどうなるのか。――結局死ぬ。
いずれ死ぬ。今は生きている。生きて何をするのか? 快楽を求め、苦痛を避ける。そしてどうなるのか?――いずれ死ぬ。
いずれ死ぬから虚しいのか? では不死であったら、虚しくないのか?
「いずれ死んでしまうというのに、私はこれでいいのか?」
「いずれ死んでしまうのだから、私はこれでいいのだ。」
いずれ死ぬということからは何も帰結しない。
死ほど分からないものはない。
現に私は死のうとしていない。だから死は悪いものに違いない。もし死が良いものだとしたら、何故今すぐ死なないのか?
今すぐ死なない理由。「まだ生きてすることがあるから」。「死ぬのは痛かったり苦しかったりしそうだから」。「なんとなく怖いから」。……「なんとなく」! これが死を怖れることの最も浅く、かつ最も深い理由ではなかろうか?
そもそも善とは、少なくとも善の特徴の一部は、何かしらそれが「分かる」ことだ。反対に、悪とは何かしら「分からない」ことだ。分かるものには対処できる。分からないものには対処できない。死は分からない。だから怖ろしい。
私は死ぬ。これは大変なことだ。どう大変なのか? それは分からないが、とにかく大変なことだ。むしろ「死が分からない」ということが、大変なことなのだ。死とは何か、死んでどうなるかが全く分からない。全く分からないところに、いつか放り出されることになるのだ。
いずれ死ぬことは分かっている。いつ死ぬのか、どう死ぬのかは、死ぬまで分からない。
私が本当に死ぬのかどうかすら、実のところ、死ぬまでは分からない。永遠の命ということを私は想像できる。また、自分が死んだことをどうやって私は確かめるのか。確かめられるのなら、死んでいないではないか。
死への恐怖とは、死ぬまでの苦痛への恐怖か、死後の状態への恐怖かである。死そのものを恐怖することはできない。
死ぬとどうなるか。天国や地獄へ行くかもしれず、人間へ生まれ変わるかもしれず、動物へ生まれ変わるかもしれず、同じ生をそのまま繰り返すことになるかもしれず、無になるかもしれない。記憶を失うかもしれず、失わないかもしれない。今の私からは到底理解し得ない次元に行くかもしれず、案外この世界に、同じ記憶と知性を持って(魂として)留まることになるかもしれない。これらすべては可能性に過ぎず、どうなるかは分からない。
分からないというところが、死の恐ろしさの本質である。何か死後の状態を仮定し、それを恐れるというのは派生に過ぎない。
死が恐ろしいのは、死後に無になるからではない。
分からないことは何故恐ろしいか。――分かっていれば対処できる。分かっていないと対処できない。
対処できないと何故恐ろしいか。――酷い目に遭って、為す術がないかもしれない。
問題になっているのは苦痛である。どのような苦痛があるか分からないのが恐ろしい。
案外死んでみれば、そこには苦痛ではなく快楽や幸福があるかもしれない。かもしれないが、やはり、分からない。
分からなかったものが分かるようになるのが、精神的成長というものだ。だから成長は死で止まる。
分かったということと、分かったことにすることとは異なる。
無視するか、分かったことにせざるを得ないのが死というものだ。
この世の苦痛に耐えかねて自殺したら、自殺した先がさらに苦痛に満ちていた、ということは十分にあり得る。
死に対処するということは分からないものに対処することであり、分からないものを分かったものと見做すことである。
死を想っても、何を想ったことになるのか分からない。むしろ死を想うことが、その都度想われた通りに死を規定する。
自殺をするのは、死んだ先に苦痛が無いと思うからである。そのように規定する時、実際にそれは事実となる。
死について考えている暇などない。今すべきことがあるのだ。ということは、死ぬとそれができなくなるということだ。死は現実に行動することの期限として、既に考えられている。
死ぬ前に何かを成し遂げ、後に残さねばならないと考える場合、死は世界そのものの消滅を意味せず、単に私の消滅のみを意味する。世界は私を超えて存在するものとして規定される。
どうせ死ぬからと流れに任せて生きるなら、死を無になることとして規定していることになる。その無はいかなる生をも正当化する。正当化の裏には、「この生はこのままでよいのか?」という不安・疑念がある。
死は分からないものなので無視すればよいという考えは、分からないものへの恐怖から来る。死を無視することでは、死から逃れられてはいない。
生と死を切り離せば、どちらも分からなくなる。現に生き方を選ぶことが、死を知ることである。死を知ることが、生き方を選ぶことである。
死は分からないものだということもまた、分からないものとして死を規定することである。分からないものだから恐れるとすれば、それは死を恐れると共に生をも恐れている。死に対する不可知論は生に対する不可知論であり、生を生き死を死ぬ主体が、自己の生き方を定めていないことに由来する。死が分からないということは決して必然ではない。
死は破滅にも救いにもなる。
死は、幸福な人間には破滅として、不幸な人間には救いとして現れ、生の帳尻を合わせてくれる。だが真に幸福な人間なら幸福に死ぬこともできるだろうし、真に不幸な人間は死ぬ時も不幸だろう。
一般に、不幸な人間ほど死に思いを馳せる。では幸福な人間は死をどう考えるか?
幸福な人間は、「何だかよく分からないが、とにかく乗り越えることは可能な一つの課題」として死を捉える。
死だけではない。幸福な人間においては、万事がそうだ。物事をそのように考えられることは、そのまま幸福の定義だとすら言える。
かつて生きたものは皆死んだ。どのような形であれ、自己の死を立派に死に果せたのだ。であれば私にもできないことがあろうか。
死を無闇に恐れることは怯懦の証であり、恥ずべきことだろう。
実際にやってくる死は、思い描いていたものとはきっと異なるものだろう。まだ死の気配が無い時には、考えてみても空想にしかならない。もう死がすぐそこに来ている時には、考えるまでもないものになっている。
行き止まりは無いし、出口はちゃんと有る。何を恐れることがあるか?
私が無になることは、世界が無になることでなければならない。世界とは感覚され、考えられたものであり、私が何も見ず、聞かず、考えない時、世界は無いからである。
死が分からないと、生も分からない。生が分からないと、死も分からない。
死についてよく考えた人の方が、よく考えない人より死をよく知っているということもない。
私のいない所では、全てが自然に上手く行く。私だけが不自然で、ぎこちない。私だけが現実に選択し、葛藤しているからだ。
私は異物だ。全ては許されているのに、私だけは違う。だから私が死ぬことは、世界が真の自然として、悪の無いものとして完成することである。
他者の死は単に身体の機能停止・崩壊である。その他者の身体が動くところも、その身体が思考し言葉を発するところも知覚できなくなるという点で、他者の死は単にその他者が無に帰することと見てよい。
私の死は私の身体の機能停止・崩壊を意味するが、そこにはなお精神が残される。知覚も思考も無い状態を私は想像できない。そのように無となった状態を思考することはできるが、思考されたそれは概念に過ぎず、現実の体験とは異なる。
意識の無は端的に世界の無としてしか体感されない。無は経験できないので、意識が無になることは無い。
死後の状態は理性的に推論不能である。だから無としか表現しようがないのだ。
因果関係は物理的に働く。死後の体験は、物質としての身体が失われた後のことであるから、因果律を適用できない。
生は不自由なものだ。死は生の反対だ。だから死ねば自由になれる……と考えるのは早計だろう。それは論理ではない。
死んで無になれるなら、これほど良いことも無いだろう。生は所詮、問題解決の連続に過ぎない。問題が無くなるなら、それに越したことはあるまい。
もし死後が無であるなら、死んで解決されない問題はない。
全人類が無苦痛に、突如として死ぬなら、そこには何の問題も無い。それは絶対善である。
死んで困るのは当人ではない。周囲の人間である。
殺人が悪事だとしても、それは殺された当人にとっての悪ではない。
何の罪もない子供を、快楽目的で殺して、報復を受けて、自分も殺された男がいたとします。死んだ子供の冥福を祈るのは当然のことですが、殺した男の冥福も、祈ってはいけないでしょうか? 一人が幸福になるより、二人が幸福になる方が良いのではないでしょうか?
良い人は死んでも良い人だ。嫌な人も死んでしまえばそれ以上恨みようがないから、やはり良い人だ。
また生きている良い人は、今は良い人だけれど、そのうち嫌な人になって、失望するかもしれない。死んでいればその心配も無い。
とにかく死んでりゃ良い人だ。良い人は死んだ人だけだ。
なることのできる無は、無ではない。だから無になることはできない。
死は絶対の未来である。必ず来るが、決して来ない。
死に近づくことには苦痛が伴うため、死は苦痛の極限だと錯覚されやすい。
死によって世界に溶け込み、世界と一つになると考えることができる。固有の意志としての身体は死によって崩壊し、単なる物質と同化する。また固有の領域としての自我は死によって消滅し、自己の内と外との区別は無くなる。
多様な存在は有るが、多様な無は有り得ない。死後に無になるとしたら、無なるものは一つしか無いので、死者は全てそこへ行く。そこで私は、全ての死者と一つとなる。
死後に無にならないとしたら、死者には再会し得る。全て存在するものは、存在することが可能であった。また未来永劫、存在することが可能である。可能性が無くなることは有り得ないから。
死んで無になるなら、死んで何かが失われるということは無い。何かが失われたという事実自体が無になるだろうから。
死んで無になるなら、いつ死んでも同じだろう。どう生きても結果は同じだということになる。いずれ死ぬなら、今死んでもよく、今死ななくてもよい。
いつ死ぬかが問題になるのは、死に生を当てはめて考えるからだ。生においては、何事もタイミング次第で良くも悪くもなることを知っているからだ。いつ死ぬかを気にするのは、死んで全くの無になるとは思っていない証である。
死を恐れることは、無になることを恐れることではない。むしろ死を恐れているのなら、それは死後が無ではないことを前提している。
死とは何か、死後はどうであるかについての完全な理論を構築できたとしても、それは信用に値しない。死を語れる理論は無い。理論の構築も理解も応用も、全て生きている間の出来事であって、生きている間に死をいかに分析し理解することができたとしても、実際に死んだ瞬間にそれらが全て誤謬であったことが明らかになることがあり得るからだ。
死については分かりようがないので、死について考えることが無駄であるかどうかすら、分からない。死が分かるものであるのか、分からないものであるのかということ自体が、分からない。実際に、死について様々に考え、語り、態度を取ることができる。
死ぬ前にはまだ死は無く、死んだ後にはもう死は無く、死そのものは境界でしかないのだから、死の有る時など存在しない。だから死ぬ前も死ぬ前ではないし、死んだ後も死んだ後ではない。
来世が有るかどうかは、来世に記憶を持ち越せるかによる。記憶が持ち越せなければ、来世に行ってもそこが来世と分からない。
前世の記憶が有ったとしても、またその記憶と符合する証拠(記憶通りの場所や人や物)を見つけることができたとしても、なお前世の存在を証明したことにはならない。記憶はどうしても現世で得たものでしかないからだ。
前世での死の記憶があったとしても、次に来る死がそれと同じとは限らない。
死後、全く同じ人生がもう一度始まる可能性があることは否定できない。しかし現に生きているこの人生が、同様に回帰してきたものであることは証明できない。回帰を証明するには、私は前の回帰の記憶を、それも完全な形で持たねばならない。断片的な記憶なら、同じことが起きていることの証明にはならないからだ。ということは、私は私の生の未来に起きることをも完全に知っているのでなければならない。しかし未来のことを知っているのなら、その知っていることによって、却ってその未来を変えることが可能となる。かくして回帰は回帰でなくなる。それは可能性に留まる。
死については仮定するしかない。
死後が無でなく、何かが残るのだとしても、それでも今のこの私の人格は、死と共に失われるだろうという漠然とした確信がある。
この確信がなければ、死を想うこともないだろう。事が上手く運ばず、問題が解決不能と思われるにつれて、死への憧れは強まっていく。
不幸な人間は、万事に乗り越え難いものを見る。八方塞がりの中、まだしも越え易いものとして、死が存在を主張してくる。生と死とが選択肢として、代わる代わる立ち現れる。
その上不幸な人間は、生における問題を一つ乗り越えられたとしても、その先にはまたその次の問題が待っているだけだ、ということをも知っている。その意味でも万事は乗り越え難いのだ。
生は自己を追いかけ、追い詰め、選択を迫ってくる。それに比して死のなんと優しいことか! 死は静かに待つだけだ。そしてその先には何も追ってこない。
全ての苦しみは生の苦しみである。死は人を苦しませない。死を避けることもまた、生がそれを強いるのだ。
死が良いものだと考えることと、自由意志により今すぐ死ぬことができるということとはまた別の問題である。死が良いものだとしても、だからと言って今すぐ死ねるものではない。生きることを選んでいるというよりは、死ぬことを選べないのだ。
現に生きているからといって、生きることを選んでいる訳ではない。ただ生きてしまっているだけである。死もまた同じく、たとえ自殺するとしても、死んでしまうのみであり、死を選んだのではない。
自ら死なない理由をもっともらしく挙げることはできるが、死なないのが本当にその理由によるのかというと怪しいものだ。実際には、単に死にたくないから、死なないだけではないか?
死ぬ理由にしても同じだ。理由があるから死ぬのではなく、単に死ぬしかないだけなのでは?
生の中で何かを手にすることができた者は、死と共にそれが失われることを恐れる。その恐れから、死んでも自分が無になる訳ではないとか、世界が無になる訳ではないとかいう希望的観測を欲するようになる。
死によって全てを失うと覚悟しておいた方が健全だろう。
これからも生き続けるものに、子孫に、社会に、歴史に何かを託すことで、自己もまたその中に生き永らえるという。都合の良い妄想だ。私は死ぬ。そいつらも死ぬ。何も残りはしない。
生の中にも多くの死がある。最後に来る死は単なる象徴のようなものだ。
生きているだけで老いていく。醜くなり、病気になり、身体も知覚も思考も衰える。得意は失意に変わる。終には失意すら無くなる。将来は尽き果てる。
命より大事なものはない。ただしそれは、その「大事なもの」と、命が別ではないからなのだ。その人が大事にしているものが、その人の命なのだ。
全てを失って死ぬ場合、それは死ではあるまい。既に死んでいたのだ。
何も失わずに死ぬ場合、それは恐らく即死であって、死を認識する暇が無い。
実際に感じられる死は、時間をかけて何かを失う過程である。
最も恐ろしいことは、取り返しのつかない過去と、どうにもならない未来に挟まれて絶望することだ。全てが無意味にすらならず、悪しき意味に満たされていることだ。地獄とはそういう場所だろう。
全てが無になるのなら、問題を感じる自己も無いので、何も問題にはならない。
得たものが無意味だったなら、喜んでそれを捨てられる。
得たものを失った上にそれへの執着だけ残るとしたら、それこそ恐ろしい。
転生という発想は、生きて存在するものたちの根底的な同質性を前提する。最も不幸なものも、最も醜いものも、私の仲間だ。私はそれらになるかもしれないからだ。
「こうはなりたくないな」と思ったものに実際になってしまうかもしれないことが、未来というものの恐ろしいところだ。未来の極限は死で、死後には何にもなり得る。なってしまうなら仕方ない。問題は現在のその嫌悪にある。
死んで身体が消滅しても、それでその人が無になる訳ではない。
物が壊れても観念は残る。観念の消失は自覚されない。何が無くなったか分からないので、無くなったことにならない。だから観念は無くならない。
忘却は消滅ではなく、再会可能性である。観念は待ち続ける。
死を超えて何かを残すという発想が誤りなのだ。初めから全ては、無か、永遠か、でしかない。どちらにせよ何も得られず、何も失われない。
有るものが無くなることを死と呼ぶなら、私は瞬間毎に死んでいる。瞬間毎に死に、瞬間毎にまた生まれる。瞬間に死ぬことは瞬間に生きることである。生がそのまま死であり、死がそのまま生である。
生まれは選べるものではない。選べるなら既に生まれていたことになるからだ。だから今この瞬間に私がどのようにあるか、私は選んでいない。生きるか死ぬかそれ自体、私は選んでいない。生死に選択の余地は無い。
私はこの世界にこのようなものとして生まれることを選ばなかった。全く同じく、今此処でこのようにしていることをも、選んではいない。
変化一般がその都度の死であるとすれば、死とは何か、また何故死が有るか、等と問うことに意味はなくなる。静止した世界は無に等しいからである。こう考える場合、死は存在の終極ではなく、存在の条件(根拠)である。
苦痛が有るから、その先に死があると認識できる。苦痛を伴わない死は認識されない。苦痛なしに死ぬとしたら、死んだことに気付けない。だから今この瞬間に死が有るとしても、それが死だと気付けない。しかし変化一般を死と呼ぶなら、現に現われる世界は時々刻々変化しているのだから、時々刻々に死は有る。やがて来る死も、現に有る死と根本的に異なるものではない。
死後どうなるかは、予め決まっていない。
楽園のような世界、快楽に満ちて一滴の苦痛も無いような世界でも、そこに生まれるには値しない。生まれる前にその快楽を欲しているものは無いから。
この世に生もうとする意志は有る。生まれようとする意志は無い。
生まれる前と死んだ後が同じであるかは定かではない。
無を本来あるべき常態・基体とみなし、生がその無の中に生じた一時的攪乱のようなものと考えるなら、生まれる前と死んだ後とは等しい。だが時間はそのような構造になっているか。
「生まれてこない方が良かった」と考える者が自殺しないことは、不合理なことではない。生まれる前が無であっても、死んだ後が無とは限らないから。
生まれたがっている子供はいない。
「生まれてこない方が良かった」と言っても、それを認識している私は既に生まれているので、遅すぎる。
また生まれる前にその真理を知ったとしても、それで自身の出生を防げたかどうかは謎である。
現に有るこれが、このように有るということ自体、不条理なのだ。
私の出生に関する限り、反出生主義はこの不条理を表現する一手段である。
記憶が無いことをもって、生まれる前が無であったと判断することはできない。
私自身が望んでこの世に生まれた来たのだが、それを忘れてしまっただけだという可能性は捨て切れない。
しかし選んだそいつと今の私は別人ではないか?
生まれる前が無であったかどうかは不明である。
全ての子供は生まれる前には地獄におり、この世に生まれることによってのみ束の間休息を得るのだ、と仮定することもできる。
生まれる前が無でないと主張する者は、無でないなら何が有るのか、具体的かつ科学的に証明し得るのでなければならない。
生まれる前について考えることができるのは既に生きている者のみであり、生きている者は死ぬことはできるが、生まれる前に戻ることはできない。生まれる前の存在にそれを尋ねることができたとしたら、その存在はもう生まれている。故に生まれる前が実際にどのような状態であったかについては証明のしようがない。
生まれる前の状態については水掛け論にしかならないので、反出生主義への有効な反論にはならない。反出生主義は、生まれる前は無であったか、現世よりは良い状態であったことを仮定して論理を立てる。反対者のすべきことは仮定に反対することではなく、別の仮定(生まれる前は無ではない、あるいは現世より悪い状態である)に基づく別の論理を立てることである。
現に私が有る限り、私は無を思い描けない。何かを思い描けばそれは無ではないし、私がいない世界を思い浮かべたとしても、それを思い浮かべている私がいる。
「私」という言葉を、あまり哲学に持ち込みたくはない。哲学は私無き真理を求めるべきだ。私はむしろ真理を攪乱し、濁らせ、覆い隠している。
だがこの認識自体、私を捨て去りたいという、私の願望ではないか?
人間などどうでもよい。人間の真理は取決めに過ぎない。真理は人間がいなくとも真理でなければならない。生も死も問題ではない。宇宙もその法則も問題ではない。それは人間にとっての宇宙だからだ。全ては宇宙の内に有る。では宇宙は何処に有るのか?
「何であるか」は不味い問いだ。何でもないのは自明だからだ。
「何故であるか」も同様に不味い。理由が無いのは自明だからだ。
物事はどう動くか予想がつかず、何処から危険が迫ってくるかも分からない。そこで可能性の概念が生じる。数多ある可能性の中から現実となるのは一つである。その一つが知りたいから、法則の概念が生じる。法則によって予測して、危険を避ける。しかし法則があるなら、避けられなかった危険もまた、法則によって必然的に、避けられなかったことになる。避けられ得ない危険がある。だから今度は法則が恐ろしくなる。そこで自由の概念が生じる。自由は法則からの自由である。自由は意志の力である。意志は望んだことを引き起こす力である。ところで法則もまた、数ある可能性の中から一つを現実とする力なのである。だから自由とは法則からの逸脱であると共に、法則に対し新たな法則を持ち込むことでもある。意志は法則である。そして法則は意志なのだ。だから自由と必然の相克、意志と法則との相克とは、意志と意志との相克なのだ。かくして全ては自由となる。自由な物事はどう動くか予想がつかず、何処から危険が迫ってくるかも分からない・・・
全ては無常であり、無常には実体が無い。
有るものは絶えず生滅している。堅固に思えるものも瞬間毎に生じ滅している。瞬間と瞬間とは断絶する。持続ということが無いので、ものは力を発揮しない。ものが力を発し、その力が持続し、次の事態を引き起こす、ということは無い。動きは有るが、動かすものは無い。主宰者がいない。全てはただ、生じる通りに生じ、滅する通りに滅するだけだ。これが無常にして無我ということで、だから無常は思い通りにならない。
無常における生起は、何によっても引き起こされず、規制されない。だから無常における生起は偶然である。もっともこの偶然は必然と表裏一体であり、なおかつ世界が必然であるか偶然であるかということもまた真理として実体的にはあり得ず、無常なのではあるが。生起はただ不可避であるという点で必然であり、如何様にもなり得るという点で偶然である。
思い通りにならないこと、自由と対立する事物の必然性については、因果律の存在から理解され得る。思い通りにならないのは、私の意志を規制しその振舞いを決定するような、諸々の原因のせいだと考えられる。しかし因果律を持ち出すまでもなく、単にこの現実がこの今しかないという、この直接的な事実から、既に生起の不自由は成り立っている。現に有るのはただこの一瞬間だけだ。瞬間に前後は無く、原因も無い。全てはただ端的に、突如として、全体として与えられる。そこに自由の余地は無い。
まず状況が有る。
状況の中に、私と他者が見出される。
全ては状況の中に配置されている。
状況を抽象することにより、状況を構成している個々の事物が得られる。
要素が集まって状況を成すのではない。状況以前に要素は無い。
「状況は私により知覚され、思考される」ということもまた、状況の内に有る要素に過ぎない。
私は状況に先行しない。状況は常に私を超え、私を含んで有る。
状況が私を与える。私が状況を表象するのではない。
世界は私の世界ではない。状況は私にとっての状況ではない。
主観と客観との関係は、単に数多ある関係の中の一つに過ぎず、現象の根底に関わる第一の関係では決してない。
現実は概念操作により成り立つ訳ではない。操作が行われる場が現実であるから。
抽象は現実を単純にも複雑にもする。
抽象という迂回をしつつ現実に関わるのは一種の怯懦なのか。
だが「抽象無しの現実」など、甚だ抽象的ではないか? それはどういう現実なのか? 「こういう現実だ」と語ることができるのなら、それもまた抽象を免れまい。
抽象を極め、全てを緻密に語れば、それは具体になる。具体は高度な抽象である。
また具体は具体として(つまり語るまでもなく現にこのように知覚されたこととして)扱われる時、却って抽象的である。
抽象的に緻密に語られれば具体、明白に具体的に眼前に有るものは、却って抽象である。
具体的現実を知りたければ、抽象せねばならない。抽象は迂回ではない。
明白さは囚われである。
「哲学で世の中のことが分かるか?」
「世の中などどうでもよかろう。」
「では哲学することで、世の中から逃げているのか?」
「哲学に逃げることもできるし、哲学から逃げることもできる。」
非難したいものなら何でも、逃げと呼ぶことができる。何からでも逃げることができる。生きることからも死ぬことからも。よって誰もが逃げているし、誰も逃げていない。逃げることから逃げることすら可能だ。
AがBを引き起こす時、AはBの根拠である。では何故AはBを引き起こすことができるか。AとBを媒介するCが根拠に有るからである。ならさらに、AとC、CとBの間の根拠が求められねばなるまい。これは無限に続くため、AがBを引き起こすことは遂には無根拠であると考えざるを得ない。
石を手に持ち、放すと、落ちる。これは必然ではない。石は浮かび上がってもよかったのだ。浮かび上がった場合、原因が追求される。原因は見つかる。しかしその原因が石を浮かび上がらせたのだということが事実となるのは、既に石が浮かび上がった後なのだ。浮かび上がる前には、原因は無かった。原因は事後に構成されたのである。
物が動く時、その動きを無限の段階に識別することができ、更にその無限の段階の一々を現実に体験できるとしたら、過程が無限である以上、その動きは完結しないことになる。これはどれほど小さな動きにおいても成り立つため、一般に運動が不可能となる。
無限の分割・識別が可能だとしたら、動かない。完全な連続は運動を不可能とする。だから、運動には必ず断絶が含まれる。一つの運動を構成する瞬間は、有限個である。時間には分割不能な限界がある。瞬間は飛躍している。だから動くのだ。
ある状態から、次の状態に行くことが、動くということだ。つまり動きは断絶した動きだ。動きとは普通、滑らかな、無限にきめの細かい連続と思われているが、そうではない。
連続していたら、むしろ動けない。無限に連続するものには、「次」が無い。完全な連続とは無限に細かい動きであるから、「次」に行こうとするその一歩は、無限小でなければならない。だがどんなに小さな動きも、無限に小さくはない。だから動けない。無限に小さく動けたとしても、それは無限の過程となるから、いつまでも「次」に辿り着けない。
連続体とは一つの塊なのだ。もし連続体が有るとしたら、それは一瞬間の内に直観される。連続は時間ではなく、空間に有る。動は連続体ではない。
断絶の無い連続とは、瞬間の不在、無限の過程、段階の一切無い変化、を意味する。だが無限の過程は完結せず、段階を踏まない変化は変化ではない。連続のみでは動きは無い。動きは断絶に、瞬間に、瞬間の狭間の無によって有る。
世界は動いている。これは確かなことだ。瞬間はそれ以上分割できない。これも概念上確かなことだ。だから瞬間の内部は静止している。そして現にある動きは常に有限個の瞬間よりなる。
以上のことは仮説として正しい。ただし、ここから「現にある動きは無限に分割できない」ことは導けない。考えられた動きと、現実の動きとは異なるからだ。
考えられた動きは、「何処かから何処かへの」動きだ。これを無限に分割できるかどうか、答えるのは容易い。無限に分割できるとしたら、運動は不可能だからだ。もし動きを無限に分割できるとしたら、如何なる小さな動きの中にも、無限の過程があることになる。無限の過程は完結しない。だから運動は不可能となる。しかし、それは動きの表象、軌跡・図形化された動きについて考えた結果、導かれたことなのだ。
これに対し現実の動きは、「何処から来るのでもなく、何処へ行くのでもない」動きだ。これについて、そもそも分割という概念が成り立つのかも怪しい。現実の動きを無限に分割したと仮定しても、その動きの一々を現実に体験することは可能である。確かに、現実の動きは分割されている。「さっき」と「今」の区別はつく。動きは永遠に未完了でありつつ、常に完了している。だがその動きが無限に分割されたものなのか、有限に分割されたものなのかについては、全く不明である。その判断は動きを外から見た時に初めて可能となるが、世界は現にこの動きの全体としてあるのであり、動きに外はないからである。
例えば、ボールを蹴ってから地に着くまでの間を無限分割できるかというと、できない。できるとしたら、ボールはいつまでも着地しない。これが考えられた動きというものだ。
現実の動きはもっと大きく、最も大きい。現実の動きはボールを蹴る前から動いていたし、着地後も動いている。また、仮にボールがいつまでも着地しないとしても、それはそれとして、そのいつまでも続く動きは、現実に動いていることになる。こういう動きをさらに分割するの、しないのと言ってみても無意味だろう、ということだ。だから現実の動きは、有限に分割されていると見ても、無限に分割されていると見ても、結局同じということになる。
考えられた動きを無限に分割すれば、運動は不可能となる。現実の動きを無限に分割しても、運動は不可能とならない。無限なら無限のまま動く。現実とはそういうものだ。
さらに簡潔に言えば、始点も終点も無い現実の動きにおいては、有限も無限も無い。動いているものは動いているのだから、その分割の粒度は全く問題にならない。
故に「瞬間は具体的に何秒か」などと考えることにも意味はない。瞬間は数値ではない。
動きの最小、識別の限界の概念として瞬間を仮定することは正しい。
考えられた動きと現実の動きの違いは、考えられた動きは一個の連続体であり、概念としてなら、無限個の瞬間をその中に詰め込めるのに対し、現実の動きは現実の進展であって、分割できない瞬間の連なりから成る、というところにある。
両者においては瞬間の意味が異なるのだ。考えられた動きには、「最小の動き」などというものは無い。概念としての時間は、数値として無限に分割できる。ただそれを現実の動きに適用することはできない。考えられた動きにおける瞬間は、動きの全体を前提としてそれを分けたものである。現実の動きは未完結であり、全体を前提しない。瞬間は動きを分けたものというより、動きを現に成すものである。
考えられた動きにおいては「動きから瞬間へ」という方向しかないが、現実の動きにおいては「瞬間から動きへ」という方向がある。というより瞬間の有がそのまま動きの有、瞬間即動、動即瞬間である。
私の生涯の全ての瞬間をばらばらに切り離し、順番を滅茶苦茶にして繋げ直し、できた過程を改めて生き直すとしても、その中を生きる私は何の違和感も持たず、自然な経過を体験するだろう。
瞬間はそれぞれに完結しており、正しい順番を持たない。
「動かす」「動かされる」は相対的だ。
私が右手を挙げる時、私が私の意志により、私の右手を挙げるのだと普通は言う。
しかし逆かもしれない。むしろ右手が挙がりたがっていて、自分が挙がるためにこそ、私を利用したのかもしれない。
ここで脳を持ち出しても話は変わらない。脳は周囲を知覚し思考するが、右手はそれ自身で知覚も思考もしない、だから脳が右手を上げることがあっても、右手が脳を動かすことはない、と普通は考えられる。しかし知覚や思考が無いからといって、意志も無いというのは自明だろうか? むしろ右手を挙げるための知覚や思考が、脳や神経の働きが、右手によって要請されたとは考えられないか?
因果関係は因果の両者により成り立つ。
未だ如何なる結果も生まない原因は原因ではない。
結果が生じる時、既に過去は無く、原因も無い。よって結果も結果ではない。
結果が有る時原因は既に無く、原因が有る時結果は未だ無い。因果は関係しない。
瞬間は断絶し、因果は必然でない。故に生起は予知できない。予知不可能なものが突如として生じるのだから、生じたものの理解は、現に生起した後に得るしかない。生起と同時にその生起の理解があるとしたら、それは何が起きるか予め知っていた場合のみである。だがそれは不可能だ。法則から未来を予知する時ですら、予知が的中するか否かは、現に生起してからでなければ分からない。
自由の概念は苦との関係においてのみ意味を持つ。苦しみが無ければ、自由も不自由も問題にならない。苦が有るのが不自由であり、無いのが自由である。これ以上の定義は無い。
選択自由意志の概念にしても、まず苦痛が有るからこそ選択肢が生じるのだ。選択とは常に「どちらがより苦ではないか」の選択なのだから。
また選択は可能性の概念と共に有るが、可能性の概念が要請されるのは、現に有る苦が無ければ良いのにと(または現に無い快楽が有れば良いのにと)思う時だけである。
「決定論か非決定論か」などということが問題となるのも、前者は慰めになるし、後者は励ましになるからという、ただそれだけの理由による。決定論は苦が不可避であったことを語り、非決定論は後の苦が回避可能であることを語る。
「苦痛は有るが、それを無くしたいとは思っていない状態」は、有り得ない。無くしたいと思っていないのなら、それは苦痛では無い。「苦痛の存在を肯定する」ということは、有り得ない。肯定できるものは苦痛ではない。「苦痛を必然として受け容れる」ということも有り得ない。苦痛は無ければ良いものなのだから、不可避の必然ではなく、無くても良かったはずの偶然でなければならない。「苦痛と戯れる」ことはできない。苦痛はそのように生易しいものではない。これらの戯言は苦痛を苦痛として直視しない。苦痛の有り方として有り得ないものを苦痛に押し付け、苦痛の定義を捻じ曲げることで苦痛が解消するかのように見せかけているだけである。
自分の身体がある。これは自由に動かせる。自分の心があり、これも自由に動かせる。ではそれらを動かしているものは何なのか。それは自分そのものか。そのようなものが何処にあるか。――動かしているのではないのだ。自分が自分の身体を心を動かすのではなく、身体として心として動くものが自分である。また身体が心を動かすのでもなく、心が身体を動かすのでもない。身体の内には脳があり、脳の仕組みで心が動く。また心が動けば脳も動き、身体が動く。どちらがどちらをというのでもない、動こうと思って動く、否、現に動くということがそのまま動くということで、この動きが自己である。現実の動きから身体が、心が、そして自分が分かれてくるのであって、本来一つの動きしかない。
成し遂げたことが何もなく、みんなに軽蔑されていて、ただ苦しんで生きて死ぬだけだとして、そういう人間が堂々と威厳を保った態度を取ったら、周囲はさらに軽蔑を深めるだろうが、それはそれとしてその人間は立派ではないだろうか。偉くて堂々とするのは当然であり、偉くない。偉くないのに堂々として、初めて偉い。
瞬間は一つ一つ独立であり、繋がらない。繋がらないから無根拠であり、偶然だ。偶然だがこれしかない。現に有る通りに有るのが現実だ。だから現実は必然だ。瞬間は偶然であり必然だ。こうでなくともよいが、こうでなければならない。つまり、自由だ。瞬間は自由意志なのだ。
死ぬために生まれてきた。言い換えれば、宇宙は私を殺そうとしている。
いずれ死ぬなら、既に死んでいるも同じだ。生者は死者である。死者が死者を生む。いずれ死ぬものを何故生むのか。
生が終わるまでの現象は、死に至るまでの現象であり、生に押されることは死に引かれることである。だから生は死であり死は生なのだ。生の領域から死の領域へと向かうのではない。一つの絶対的生死が有る。外は無い。
自分のことは放っておくに限る。
私は私の主人ではないので、私に命令もしない。気遣いはするが。基本的には好きにやっていてくれればいい。苦境には同情するが、何もできはしない。本人の意志次第だ。
この世界は私の世界であり、この世界の存在と私の存在とは不可分である。
――であるならば、この世界の存在と、路傍の石の存在もまた不可分である。
――そんなことはない、この世界が有る限り私も常に存在するが、路傍の石は時に有ったり無かったりする。その石が存在しなくてもこの世界はこの世界のままだが、私が存在しなければ、この世界はこの世界ではない。
――しかし、現にその石が有るなら、その石が無い世界は本当に「この」世界であるのか? 世界とはそのように抽象的なものであるのか? 何かが有ったり無かったりしても「同じ」世界であるような、幅のある概念が世界なのか? その認識が成り立つのは、初めから世界の存在根拠として私を定義し、それ以外を世界という言葉の定義から捨象したからという、ただそれだけのことによるのではないか?
自分が自分ではない不安から他者の問題が生じ、自己は実体に、他者は仮象に振り分けられる。自己は世界の存在根拠・認識の唯一の原点として祭り上げられる。他者と不可分の混濁した自己の有り様は、むしろ自己ならざるものとして他者化され、やはり仮象とされる。
私の生は私と全ての他者との共同作業である。
問題を解決することはできない。問題が勝手に解決する。
思い通りにならないものが苦である。ただし、「まず自分の思いというものがあり、その思い通りにならないものがあって、両者の結合によって苦という事態が生じる」ということではない。結合ではない。まず苦が有るのだ。苦があって、それから自他が分かれる。自他が苦の根拠であるのではなく、苦が自他の根拠である。苦以前に自他は無いのだから。
世界は知覚の塊であり、その中には自由に動かせる部分とそうでない部分がある。自由に動かせる部分が私の身心である。
身体は私の思い通りに動き、行為を行う。他の物に干渉して間接的に動かすことも出来る。
身体を動かすものが神経であるとすれば、私が直接動かしているのは神経であり、身体もまた間接的に動かされているだけだと言えるだろう。無論私は神経細胞において起こる物理作用を完全に理解し操作している訳ではない。ただ身体がそのように動くことを欲し、身体はその欲した動作をある程度の精度で実現してくれるというだけである。
私は身体のみならず、思考・想像の内において、心としても行為を行う。思い浮かべた像は自由に動かすことができる。考えたことを言葉として内心で唱えることができる。あれが欲しい、これは欲しくない、と判断することができる。苦痛を避け、快楽を求める。
私が身体を持たない知覚だけの存在だったとしても、快いものに近づき不快なものから遠ざかろうとすることに違いはないだろう。身体が無くとも、私は身体的である。
有るものが何であるかは、それが何として規定されるかによる。規程は既に「それが何であるか?」という問いを前提する。問いはそれに答えねばならないという衝迫を前提する。衝迫とは苦痛である。ものの規程は苦に根拠を持つ。
人生航路って言っても、持って生まれたものと、外から与えられるものの組み合わせで今の自分があって、その今の自分の力と他者の力が更に組み合わさることで、成り行きでそうなるってだけですからね。流れです。勝手に動きます。自分がしっかりしてれば大丈夫だとか、もっとしっかりしてれば良かったとか、考えちゃうのはまあ分かるんですけども、実際それは真理ではないです。
世界は組み合わせでできています。組み合わせってことは、つまりその、自分がいて他者がいて、その総体が現実の自分(=自分の現実)で、だから自分っていっても他者がそこに混じっているのであって、他者には他者の都合があるんだから、「これが自分だ」って言っても、その「自分」が正に思い通りにならないものなのだ、ってことを言ってるのです。「作り成されたもの」は不自由です。「作り成されたもの」ではないものであれば、それは「それ自体で存在しているもの」ですから、それ自体で自由ですし、自分が何であるかを自分で規定して自分だけで進んでいくこともできるでしょうが、人間はそういうものではないです。
しかし、組み合わせはどうして成り立つのか? 「作り成されたもの」はそれ自体で存在しているわけじゃないけど、組み合わせられるもの(作り成すもの)についてはそれ自体で存在するのか? つまり、自分の行く末が、自分の力と他者の力との組み合わせで決まるものだとするなら、自分の自由ってのも半分くらいは真実であるのか? とか考えると、そうではない。要素がまずあって、それが組み合わされるわけではないです。要素ではなく、まず全体があります。どーんと大きな全体があって、それが動いています。要素はその動きの中から切り出されてきます。自分もその中にいます。大きな動きの中に自分がいて、それを「自分が(自分から、自発的に)動いている」とか言ってるわけですけど、違います、動いてるのは自分ではありません、自分を含んだ全体です。自分っていうのはただその中に置かれてるだけです。全体に置かれた後に、「あ、ここに自分がいますね」というのを、切り分けて、判断して、認識しているだけなのです。でもその切り分けること以前に自分ってものがそれ自体で存在することはないのです。
楽になりたければ要求を下げましょう。それは諦めるのとは違います。諦めるということは、未練があるということです。そうではなく、初めからそれに拘る必要がなかったのだと認識すること。
人生は一つのゲームだが、どういうルールでプレイしているかは人による。重要なのは、自分に合ったプレイスタイルを見つけることだ。
様々なゲームがある。相手方より多く点を取って勝利することを目指す対戦型ゲームもあり、何らかの成果物を作成していくこと自体を目的とする創造的ゲームもあり、対象の鑑賞や研究が目的である場合もあり、他者に貢献することを目指す場合もあり、いかに長くゲームを続けるか、あるいは、いかに短く済ませるか、といったゲーム性もある。
総体としてのゲーム目的は、自分の性質に合ったゲームをプレイし、苦痛と快楽のバランスを調整し、ルールを整え、なるべく満足いく経過を送ることにある。スタイルを構築することが重要であり、そのスタイルから何を為すかはさして重要ではない。
私が、私の、身体を動かす、と考える時、動かす私と動かされる身体とは分離している。このことから、私の身体と同様に、何ものかにより動かされている身体が存在するという考えが生じる。私の身体に私(の心)が宿っているのだとすれば、私の身体以外の物にも、私と同じようなものが宿っていることが考えられる。その宿っているものこそ私の同類であり、物を動かす真の主体であるということになる。
しかしそのように何かが何かに「宿っている」という考えをとる必要があるのか。私の身体に私が宿っている訳ではないのではないか。私とは現に動いているこの身体のことであり、それ以外の何でもないのではないか。動かすものと動かされるものとは一つであって、この身体の、動かすのでもなく動かされるのでもない動きそのものが、そのまま私そのものなのではないか。
この身体の動きそのものが私であるなら、他者にもまた、私に類する何かが宿っているとかいないとかいうことも無いということになる。この身体の動きが私であり、それ以外の動きが他者である。
世界の全体の動きから、私の身体の動きは如何にして切り出されてくるのか。私の身体はどのように、私の身体として認識されるのか。そのことの根拠として想定されるのが、「動かしている私」の観念である。「動かしている私」が動かしている範囲が、私の身体ということになる。しかしこれは話が逆である。「動かしている私」が動かしているのが私の身体なのではなく、私の身体が端的に識別されるということが最初にあって、その根拠として後から登場するのが、「動かしている私」の観念なのである。私の身体の識別自体は無根拠である。
だから、他者の身体の識別もまた無根拠であると言ってよい。それぞれの物は、そこに何かが宿っているとかいないとかと関わりなく、端的にそれぞれの物として動いている。全ては自然に識別されたままで、私の同類である。主体の動かすものと、主体性のない単なる客体を分けることはできない。そこに私の有り方(私が私の身体に宿って動かしているという仮定)との類比は不要である。
それにしても、私の身体は他の物とは明らかに特異であるように思われる。確かにこの身体を「動かしている」という感覚・感情がある。またこの身体は知覚の中心であって、実際に見たり聞いたり、快や不快を感じたり、痛んだりする。他の物については、その物の感覚や感情は感じられない。このことからもまた、この身体には他の物とは違った特別な要素が宿っているという発想が出てくる。私の身体の感覚だけが実際に感じられるのは、その要素のお陰であるというわけだ。
しかし、感覚とは本当に何か特別な存在者であるのか。私の感覚とは、つまり他者ではないか。身体の外に感じられる感覚・物と、内に感じられる感覚・情とは、結局は同じく客体ではないか。つまり「私が、私の、感覚を感じる」というこの事態もまた、結局は、「私が、私の、身体を動かす」ということと同じことではないか。私があり、他者があって、それぞれに独自の感覚が宿っていて、その中で実際に感覚できるのはこの身体についてだけ、ということではなく、そもそもそのように各自に宿っている感覚など無く、単にこの感覚が、それぞれの感覚として識別されて、このように現われているというただそれだけのことなのだ。他者のそれとは異なる私の感覚を可能にする要素としての私とは、単に存在するそのような感覚を根拠付けるものとして後から想定されるのみである。よって、「感じていること」をもって私の同類とその他を分けることもできない。私は感じるものではないからだ。
世界は目的に向かう過程ではなく、目的そのものとしての過程である。
無駄や徒労は存在しない。それらは目的を前提するが、目的は存在しないから。
快楽や幸福は目的ではない。それらは有り得る一つの状態に過ぎないから。
目的が無いから、何も無駄にはならない。虚しくはない。未来における報いも無い。現に有る状況が、過去の報いであることも無い。
何処へ流れ着くことも無いし、流れ着いたところは終極ではない。
永劫の苦痛が与えられることは有るかもしれない。しかしその永劫もまた一つの過程として、一々の瞬間として、与えられる。
予め決定された過程は無い。如何なる状況が生起することもあり得る。そして起きることは起きるべくして起きる。
現に有ることを現に有ることとして受け容れること、受け容れて余計な注釈を付けないこと、存在を二重にしないこと、その中で自然に展開される状況に任せること、これが苦痛を逃れる道である。
存在が単に存在することに安らう時、何処にも問題は無い。
すべきでなかったことの認識が後悔である。すべきでなかったことは、しないこともできた筈のことである。すべきであったことと、現実にしたこととの齟齬により後悔が有る。
行為選択の自由は後悔により理解される。後悔が無ければ、選択も自由も認識されない。
過去の自己と現在の自己との同一により、過去の自己の自由は現在の自己の自由である。現在の自己の自由は、過去の自己への後悔により理解される。後悔への対処として現在の自由が有る。
後悔の観念が無ければ、現在は単なる確定的現実であり、為すべきことと現に為すことが分かれない。
後悔の観念が有る限り、現在の自己は、後悔しないように行為すべきであると感じる。
未来において生じ得る苦への予期が不安である。
単なる不安においては苦への予期が有るのみであり、自己の自由の理解は無い。自由は後悔を根拠とする。
未来においては現にしたことは無く、すべきことだけが有る。
未来においてすべきことは、後悔に根拠を持ち、現在予期されて有る。
未来においてすべきことは、後悔しないためにすべきことである。
過去への後悔により、未来の自己の行為への不安が、即ち未来の自己の自由が生じる。
選択の自由は過去から生じる。また現在をも未来をも過去として、後悔し得るものとして捉えることにより、自己は自由である。
自己は発する。他者もまた発する。そして全ての個、力が激突し、識別されつつ統合されてある場が現在の状況であり、世界である。
世界は常に動いているが、それは過去から現在へ、現在から未来への動きではない。そのような連続は無い。瞬間は断絶している。まず過去の経験があり、そこへの思案があり、次いで行為がある、というようにはなっていない。自己は突如としてこうするのだ。根拠は無い。根底的には、訳も分からずこうするのだ。
自己が、そして全ての他者が、無根拠に当てずっぽうに、同時にカードを出す。それで状況が決まり、勝敗が決まる。それが世界の全てだ。それだけだ。
これは一体何であるのか、なぜ世界はこのようになっているのか。究極を言えば、偶然だ。何かを何かたらしめる力、因果関係、意志、法則があったとする。ではそれらの要素はなぜ存在するのか。問いが尽きることは無く、答えは得られない。それらは、ただ存在するから存在する。これが一体何であるのか。現に有る通りのものである。一体なぜこのようなものが存在するのか。存在するから、存在する。そんなことは自明であって、究極を求めると哲学はすぐに終わってしまう。だから、哲学を続けたければ、究極でないところを求めていかねばならない。
具体的に存在するものと、観念としてのみ存在するものがあると思われる。
具体的に存在するものは、身の回りにある形の有るもので、知覚されるもので、時間と空間の中にあり、場合によっては作られたり、壊されたりするものである。
観念としてのみ存在するものは、直接知覚はできないが、具体的なものを通して認識することができ、それ自体は時間や空間の中にはなく、しかし現にあったり無かったりするもので、作られることはあるが、本当に消滅することはない。具体的にある限り、同じものは一つとしてないが、観念はそれとして想起される限り、常に同じものである。
両者は明確に分けられるか。現に身の回りにあるものが単なる観念でないことは、実際にそれを見聞きし、触れて見て、リアルに体感することで分かる。その知覚的リアリティを抜き去り、ただ記憶や想像において思い浮かぶだけのものとなった時、それは具体的なものではなく、観念となると考えられる。だが具体的に知覚できていたそれと、思い浮かべられるだけになったそれがもし同一のものであるのなら、具体的なものと観念との違いもまた存在しないということになるのか。
「あの時のあれはああだった」と語る時には、具体的なものについて語られているが、その具体的なものは観念としても扱われている。つまり、観念が具体的に扱われている。いや、そもそも、観念であろうとなかろうと、それを語る者の方が具体的である限り、語られたものについても具体的でしかありえないのではないか。例えば「愛」一般の本質について語る場合や、物事の「空しさ」や「無」について語る時でさえ、それらの観念は正にその時、その語っている今において具体的であり、知覚的であり、文脈的なのではないか。具体以外には存在せず、具体を超えたところには何もないのではないか。
私が、物に、触れる。動く私が動かない物に触れる時、私は能動、物は受動である。私が触れるのであり、物が触れられるのである。しかし私が触れると同時に、私は物に触れられるのでもある。接触そのものは能動でも受動でもないからだ。であるならば、私が物に触れると同時に、物が私に触れているのでもある。むしろ物の方が私に触れに来ているとすら言える。私が物に接近することと、物が私に接近することとは同時にあるのだから。よって、私にではなく、物に能動性を見出すこともここでは可能となる。物が私に触れる。私は物に触れられる。だから私に意志があるとするなら、物にも意志はある。物が私に触れようと、私の身体を引き付けたのだ。
歴史的に、人間生きてりゃ色々あった訳だ。例えば狩りが成功するとか、しないとか。病気に罹るとか治るとか。長生きする人もいれば早死にする人もいた。で、「何故これはこうであり、あれはああであったのか」っていう問いが出てくる。物事の分析が始まり、因果関係が得られる。因果の認識は人間の知恵の根本だ。それで少しずつ「こういう場合はこうなる」って認識ができてくる。情報は言語化され、伝播して、蓄積され、継承される。ということで集団的にある程度まとまった世界観が形成される。原因と結果が理解できたら、次は原因としての事象を自ら引き起こすことで、特定の結果を得ようとする。そうして生活のための技術が出来上がる。現象の分析と介入は生活の基礎で、ここに素朴な科学性と技術の基礎がある。
そうなんだけれど、人間は何でも分かる訳ではなく、何でも制御できる訳でもない。より良い弓を発明し、より良い狩りの方法を編み出しても、必ず上手く行くとは限らない。では結局、何故上手く行ったり行かなかったりするのかというと、分からない。色々と、そのつど原因を分析することはできる(天気・風向き・射手の体調・獲物の気質等々)が、では何故そのような要因が正にこの時このように組み合わされ、今回の結果を生み出したのか、ということについては、どうにも分からない。それは「我々の理解の外にある何らかの力で」としか言いようがない。ということで、不可思議な力・霊的なものが想定される。人間と同じように現象に介入して、望みの結果を得ようとする何らかの意志があると考えられる。ここに素朴な宗教の基礎がある。
理解された力と一緒に、理解されない力が認識される。そして全体的な世界観は因果の概念によって統一されている。これが現代まで通じる人間の普通のあり方だ。宗教的な力というと現代では排斥されたようにも見えるが、まだ「自然の力」とか「運」とかの概念が残っているし、「祈る」というのも普通に行われていることだ。どんなベテランでも、最終的に上手く行くかどうかについては、祈るしかない。
現象を理解するということは、現象を、それを引き起こすための要因、構成要素に分解し、条件を知ることである。何により引き起こされ、結果として何を引き起こすのかが知られている時、現象は理解されている。現象の理解は、必然性に貫かれている。確実性の伴わない認識は、認識として頼りにならないからだ。AはBを必然的に引き起こさねばならない。AがBを引き起こすこともあり、引き起こさない場合もあるというのであれば、その違いを生み出す要因Cが求められねばならない。しかしこのようにあらゆる関係性を必然性として整理したとしても、その関係性そのものが何故このように存在しているのかについては、決して答えが得られない。AがBを必然的に引き起こすとしても、何故AがBを必然的に引き起こすのかについては、「そういう性質だから」としか言えない。新たに要因Cを規定しても、AとBとCの関係の全体が何故そうであるのかという問いが生じ、新たにDが要請され、Eが要請され、完結しない。かくして探求は無限に続き、結論は得られない。このことは自明であるから、世界内には必然的に、理解された領域とされない領域が有る。理解された領域もまた根本的には理解されていないのであるから、両者は二つの対立する領域ではない。理解された領域は、理解されない領域に包含される形となる。
全てが他人事という感じだ。自分の意志で参加した活動というよりは、運悪く巻き込まれてしまった災害だ。
いや、これは単に比喩ではない。別にこの時代のこの場所のこの状況を選んで生まれた訳じゃないんだから。生まれが選べないってことは、生まれた後も選べないってことだ。「選択」ってのはただの言葉だ。最初に偶然与えられたものがその後の全てに影響する。
こういう理屈は因果の必然性を用いた決定論なのだが、別に因果を持ち出さなくても同じことが言える。というのも、今この瞬間、そして全ての瞬間が、生じては滅し生じては滅しというのを繰り返している訳だが、諸瞬間の間には何の関係性も成り立たないからだ。瞬間は断絶している。連続は、一つの瞬間の内部にしかない。一つの瞬間の内的分節が時間なのだ。時間の中に瞬間があるのではない。よって瞬間は常に断絶している。
もちろん、本当に断絶しているのなら「常に」とは言えないはずだから、完全な断絶ではなく、連続もしている。ただその連続もまた、唯一絶対の現実であるこの一瞬間においてしか存在し得ないということだ。瞬間は唯一絶対で、断絶しており、かつ他の瞬間を前提し、複数である。過去も未来も一瞬間に収まるが、その一瞬間もまた即座に滅し、新たな瞬間に存在を譲る。
早い話が、物事は流動している。ただ流動の中の瞬間相互に何らかの必然的関係を規定するのは不可能だ、ということだ。相互に断絶した瞬間の絶えざる生起がこの流動なのだから、流動の方向は予め決定されていないし、何かによって選択もされない。
つまり、「生まれを選ぶことができない」ということは、そのままこの瞬間の生起についての話にシフトできるのだ。私は今この瞬間に何をするかを選んでいない。だから一切の過去においても、未来においても、選んでいない。瞬間は常に一つの出たとこ勝負だ。私の意志を認める場合、まず或る瞬間があり、そこに私の意志があり、その意志が力を持って、次の瞬間における或る結果を引き起こす、というこのような過程が必要となる。無論そのような過程は無い。私が何かを思った瞬間と、その思いが動きを引き起こしたとされる瞬間とは別である以上、断絶しているからだ。別の側面から言えば、「私の意志によって引き起こされた」という認識自体が、無根拠に生じる瞬間の内部においてしか与えられ得ないからだ。
唯一絶対のこの今には、文字通りの存在する全てが含まれている。今が生起した理由は、今に含まれている。だから今には根拠が無いのだ。原因は無い。意志も無い。引き起こすものも引き起こされるものも無い。
ただ物事には、私の意志によって生じたと見做した方が良いことと、そう見做さない方が良いことがある。そこで一つ疑念が湧く。「原因は無い」「意志は無い」と説くこと自体の背後に、そのように認識することによって何らかの利を得ようとしている意志が存在するのではないか?と。
ということでここにまた別種の意志の概念が、即ち或る瞬間において次の瞬間を生起させる意志ではなく、瞬間において瞬間自身を解釈する意志の概念が出てくることになる。しかし瞬間における意志とは無根拠な意志であるから、たとえそのような意志の存在を認めたところで、最早その意志は「自由な」意志ではない。なのでやはりそこに選択の自由は存在しないのだという点に変わりは無い。かくして一言で言えば、「意志は意志であり、意志ではない」ということに尽きる。
無根拠に生起する意志というのは超越的にはこの上なく自由な(無限の可能性の中から何故か一つだけ実現される)意志なのではあるが、内在的には単なる強制に過ぎない。で、私は内在する存在者なので、当然この強制に服している。だから私は自由ではないのだ。
死んだらどうなるかなんて何も分からないのに、分かったふうなことを言って納得して、分かったふりをして対策したりしなかったりするのはなんだか馬鹿らしい。死については全てが演技でしかない。死は根本的に虚構だと言ってもいい。
病気で死んだり老衰で死んだり、事故で死んだり殺されたり自殺したり、様々だ。となると死んだ後だって、天国に行ったり地獄に行ったり、転生したり無になったり、同じ人生を繰り返したり、想像もつかないようなよく分からない状態になったり、人それぞれだというのもありそうなことだ。
殺しに至るだけの正当な理由があったということと、殺しは人間が人間に行い得る行為として普遍的に悪であるということは両立する。よって普遍的な罪に対して償いつつ、個別なものとしての殺人行為が誤りだったとは認めないという立場はあり得る。
先のことを考えて、将来実現されるべき自己の状況を理性的に選択して行為する時、私は自由である。
先のことを考えず、今現在の自然な情に本能的に没頭して行為する時、私は自由である。
私は瞬間の存在であり、それぞれの瞬間がそれぞれに自分の経緯を、因果を内包している。それぞれの瞬間は独立しつつ連なっている。だから、純粋に客観的に見た場合に(そのような視座は不可能なのだが)、もし瞬間の連なりとしての私の各瞬間が、全く滅茶苦茶な、支離滅裂な、一つの経験として統一されていないカオスであったとしても、そこに内在する私としては、一つの繋がり、過去から現在に繋がり未来へと至る自然な流れとしてしか体験できないだろう。私が本当は無数の経緯、無数の世界、無数の存在者として各瞬間を存在しているのだとしても、私はそれをそのままに感じられない。だから私は私でしかない。私以外のものになった私は私でしかない。また瞬間はそれぞれに独立であるのに、体験は一つの連続としてしか感じない。一つ一つの瞬間が絶対なら、本来瞬間に前後関係など無いとすら言える。しかし瞬間は前後を持ち、一つの動きの一部として有る。
平常の落ち着いた心身としての自己においては、出来事は現前してくるものであり、目の前に、または意識の前に距離を持ってあるものであり、処理する対象である。そうではない混乱した状態、処理しきれていない状態、非常時においては、対象は自己と混ざる。自己の前に置いて処理するというより、自己を取り囲み消化するようなもの、環境そのものとしてそれはある。状況がいつの間にか終わり、元の平常が戻ってきても、混乱した状態はまだそれとして残る。大変な状態だった、とにかく必死に格闘していた、あるいはもう、とにかく飲み込まれてしまっていた、というように後から語られる。語られる時には、体験は記憶として現前し、処理する対象となりつつある。しかし一方その裏に、「あれは私の体験か?」との問いが残り続ける。混乱した自己は自己か? 混乱した状況は自己の状況か? 何だか分からないが、とにかく通り抜けた。そんな感覚が残る。それは過去でしかあり得ない。過去として初めて、それは対象である。現在する時には対象ではない。同じことをもう一度体験することはできない。本来全ての出来事がそうなのだが、とりわけ混乱は、反復できない。それは絶対的過去である。それについて考える時、それは必ず過去である。平常の出来事は、現在それを体験しながら、現在それを対象として捉え考え観察することができる。非常の出来事はそうは扱えない。このことが、事物の起源には混沌があったに違いないという考えの起源であると思われる。非常事態、危機を通じて、人は世界の起源を知る。
経験は自分を規定することもあり、揺るがすこともある。「あの経験あればこそ今の自分がある」とも思われ、かつ「どうして自分にあんなことができたか」という形でも想起される。自分の経験したことながら、どこか他人事のような気がする。上手くやった場合であれ、何かしくじった場合であれそうだ。自分があれを、あのようにやり果せたのは、何故のことだったか。それについては結局、自分が他ならぬあの自分であったから、としか言いようがない。それは同時に、自分は自分ではないから、ということを意味するはずだ。あの自分はこの自分ではないのだから。自分はその都度の自分でしかない。
経験は血肉となる。然るべき場面が来れば、また感覚を思い出す。再現を繰り返せば、いつしか刺激は薄れ、それが平常となりもする。そうしてようやく経験が自分のものとなる。現在が過去を取り込み、統合したかのように思える。だがそこで理解された過去は、もうあの過去ではない。過去そのものは捉えられないまま、謎であるまま浮遊している。過去は理解し得るものではない。想起されるものでもない。無論それ自体で実在するものでもなく、体験し直すことができるものでもない。それは現在の否定としての謎である。
落ち着いた状態が真理に、混迷した状態が非真理に対応するという見方は余りに浅薄ではないか。
動いてしまってから、何が動かしたのか理解される。その意味で主体は存在しない。
だが動かしたものの存在が理解される限り、その動きは紛れもなく、動かしたものの動きである。その意味で主体は存在するが、主体がなぜそのように存在したかは、分からない。
人生が上手く行かない時に、「どうすれば上手く行くか?」と考えてそこを脱け出す者もいれば、「人生とは何なのか?」というところに立ち止まってしまう者もいる。後者は根本的な解決あるいは理解を志向しており、ただ単に「上手く行く」状態になるよりも大きな魅力をそこに感じる。
自由意志については、有るとも無いとも、分かりません。ただプラグマティックに処方されるだけです。「お前には自由意志が有るんだ、もっとしっかりしろ!」と言う方が効く場合もありますし、「いやいや、自由意志なんか無いんですから、もっと気楽に行きましょう」と言う方が適切な場合もあります。
死んでもまた会えると信じているところがあります。
仮にですよ、死後に無になるとしたら、みんな同じ無へ辿り着くはずです。「複数の無」とか「多様な無」とかが有る訳ないですからね。みんな同じ所に行くのです。だから必ずまた会えます。まあ「同じ場所で会う」というよりか、「同じになる」んですけども。
そしてまた仮にですよ、死後に無にならないんだとしたら、時間は無限です。無限の時間の中で同じことが再び起こらないなんてことがありましょうか? 私は現にここに存在しています。私が一度でも存在しています。ということは、この世界は初めから、必然的に、「私というこの存在が可能であるようにできていた」はずです。それは未来永劫変わりません。世界そのものは時間を超えているからです。いつでも私が可能です。彼らも可能です。だから必ずまた会えます。
……いや、まあね、無限の時間があったって、同じことが必ずまた起こるとは限らないのですけど。でも無限ですからね。必ず「次」があります。そして可能性は決して無くなりません。実際に起きなくても、可能性は可能性のままですからね。現に有るものは無ではない。無ではない以上、無にはならない。
まあずっと永いこと、一人でいることもあるでしょう。再会してもお互いそれと分からないこともあるでしょう。忘れてしまっていることもあるでしょう。それはそれで、何も問題はありませんが。しかしとにかく、分かる時にははっきりそれと分かるでしょう。同一性なんてそんなもんです。物が壊れても観念が残ります。観念すら失われた時、その喪失は認識されません。だから却って観念は永続するのです。そして不意に再来します。
心が思い通りに動かないことがある。すべきことがあるのに、実際にする気になれない。その気になれば、身体は動くだろう。だがその気になれない。身体はただ心が決断するのを待っている。思いさえすれば、身体は思い通りに動く。身体は自由自在に動かせる。だがその手前に、自由自在には動かせない何かがある。これが心である。自由な心であれば、心として認識されない。不自由だからこそ心は対象として取り出されてくる。
身体に指示を出すのが心なら、心には何が指示を出すのか。脳・身体か。となると循環してしまう。だがそうではない。身体の動きと心の動きは一つの動きでしかない。どちらかがどちらかを動かすという関係ではない。行為が自然に問題なく遂行されている限り、心と身体は分かれない。自然な行為は一つの心身の行為である。思い通りに行かない行為があって初めて、心と身体が分かれる。
行為が思い通りに行かないということには、身体に異常があってうまく動かせない場合と、心の方が身体に無理な動きを要求している場合とがある。両者の複合もある。例えば怪我をして動かせない足を無理矢理動かそうとしても、歩行は失敗するだろう。
単に身体が故障で動かないという場合には、まだ心は対象となっておらず、心と身体の間の関係も問題とならない。無理なことをやろうとしていたということを、心自身が反省した時に初めて心が対象となり、心と身体の間の関係も成り立つ。
人は経験的に、できることとできないことがあることを学んでいく。自分にできないことは、失敗により明らかとなる。行為の失敗において、失敗の根拠が問われる。単に身体的にできなかったというだけでなく、それをやろうとした自分(心)が間違っていたということが気付かれ、行為は断念される。その時、「心が身体を動かす」というこの関係もまた成り立つ。この反省を経て、心は身体を動かす主体となる。
その上で、今度は心そのものが問題となる。身体が心の思う通りに動かないのと同じく、心もまた心の思う通りには動かないのだ。すべきであると思ったことが、できない。これもまた失敗した行為の一種である。ここで再び根拠が問われる。何故心は思い通りには動かないのか。そして、「身体が心を規定するからだ」という答えが得られる。この推論を経て、心は身体に動かされる客体となる。
世界は無常であり、何であれ失われ得る。だが失ったものはいつでも回帰し、再会し得る。とは言え全く同じものに再会するのではない。全く同じであれば、それが再会だと分からないだろう。前と同じだと分かるのは、前と違うからだ。物は常に異なりながら同じ物である。
恒常不変の物が過去と現在を通して存在しているのではない。むしろ物に同一を見出すところに過去と現在がある。物が非同一だから過去と現在も異なるのであり、物が同じ物だから、過去と現在もまた同じ一つの時間、一つの世界にある。物を抜きにして時間は無い。物が時間の中にあるのでは無い。物があることが時間である。
過去は現在に有る。自分の体験した過去は想起されるし、自分のものでない過去は言語的に構成される。
ただし、想起・構成された限りでの過去が、過去の全てであるのではない。実在する過去は想起より大きい。想起・構成されるのは飽くまで過去の一部である。現に知覚されている世界が私の知覚であり、実在する世界はより大きな全体であるというのと同じく、それが私の想起・想像である限り、実在する過去はより大きな全体である。
そのような全体は部分に先行しない。予め過去の全体が与えられ、そこから私が部分を選択して想起・構成するというようにはなっていない。むしろ全体は、部分的な想起・構成に付け加えられ補うものとして、後から生じてくるように思われる。
だがそうではない。部分に全体が加えられるのではなく、両者は同時に有る。全体は、部分と識別されたものである。だから想起が私の想起であると規定されることと、それが過去全体の一部であると規定されることとは、同時である。全体があるから私の領域があり、私の領域があるから全体がある。私が世界内に置かれることにより、全体もまた世界として私を包むようになる。その意味で、部分も全体も対等に実在する。過去の全体があり、その中に私の過去がある。
だが部分と全体が区分される以前をなお想定できる。その以前、原初においては、私は世界と同じであり、従って私ではなく、世界でもなかった。絶対的な無名の生起があった。その生起が属する全体が想定されると同時に、生起は相対的な、私的領域となった。今私的領域と呼ばれるそれは、かつては主客以前の絶対であった。無名の生起が私的領域となると同時に、主客以前の絶対性は、主客以後の、主客を超えた全体性へとずれ込んだ。
過去の全体は見通せない。全体は、現に明瞭に与えられていないからこそ全体である。だが現れないものが、なぜ有ると言えるか。それは過去の全体なるものが、現にある想起の出てくる元、根拠として要請されるからである。根拠が要請されるのは、想起の真偽を分けるためである。想起の真偽を分けるのは、想起にまつわる利害を調整するためである。つまり過去の全体なるものは、対人関係において要請される。利害を調整するためには、可能性が留保されねばならない。可能性の詰まった未確定の領域として、過去は不明瞭である。
確定された過去は公共の真理である。私の過去の想起があり、他者の過去の想起があり、両者を修正し得る真なる過去がある。また真なる過去もその都度真とされた過去に過ぎず、いずれ修正され得る。これは要請された事実であり、倫理である。
私がいて、他者がいる。時間的展開として、私が先にいるように思える。
私の知覚・思考こそ直接与えられていて、他者のそれらは間接的に知られるだけだ。私のそれらがあることは考えるまでもなく分かる。他者にもそれらがあることは、考えないと分からない。だから、どこかの時点で私は他者の知覚・思考を知った(学んだ)のだ、と考えられる。
だが他者を知る前の私はまだ私ではない。単に直接あるだけのものは、まだ直接ではない。間接的なもの、他者を知るから、却って自分は直接的なものとなるのだ。そのような直接と間接の区分された認識そのものは、改めて私の認識として直接に生起している。だがその直接性は、間接性を経由してのみ直接となるのだから、直接と言いつつ、間接なのだ。真に直接なもの、原初の直接性は、私という立場から見られるから直接性と呼ばれるのであり、本来直接でも間接でもない。
直接と間接が区分されて現れる認識そのものは、直接でも間接でもない。私も他者も直接と間接として対立しながら、その対立によって両者共に間接であり、両者の間接が私の認識として直接成り立つ場そのものは、直接でも間接でもない。「それが私の認識である」と言われるその場そのものは、私のものではない。自分と他者の成り立ちを時間的経過において考えること自体は、私も他者も無いところで、今与えられている。
つまり私でも他者でもないところに、私と他者が乗っている。これは単純に、私がいて、他者がいる、同時に実在するということを意味するに過ぎない。どちらが先にいることもない。
世界が現にある通りの知覚・思考の有り様であり、別様でないのは何故か? 特に理由は無い。偶然である。
では現にあるのとは別様の世界は存在しないのか? そうだとも言えるし、違うとも言える。現にこのようであるのだから、同時に別様である訳にはいかない。なおかつ、いつでも世界は別様になり得るし、現になりつつある。
私の世界と他者の世界についても同じく言える。私がこの私であることに特段理由は無い。他者の世界は存在しないが、しかし私は他者になり得る。
あらゆる思考は原理的に言語として展開可能である。
雑多な物事が単に存在している。その雑多さを要素に切り分け、関係として結ぶのが思考の作用であり、その形式・規則が論理であり、言語である。
何が何をしており、どのように有るか、またどのように有ることが可能であるかを、規定しているのが言語である。表立って音や記号としての言葉で表現されずとも、言語は思考の形式として常に作動している、と考えられる。
だが実際に行われている思考以外に、思考の形式としての言語なるものは必要なのか?
「思考は言語を必要とする」という認識は、「思考なるものはいかにして可能か?」と問うことにより成り立つ。思考の根拠として、言語が取り出される。根拠を問うということ自体思考の働きであり、根拠・帰結の関係は言語的構造だと考えられる。では言語の根拠は何であるのか? 経験や歴史だろうか。脳・身体だろうか。ではそれら何故言語の根拠たり得るのか? それは、経験や脳を言語の根拠とする思考が働いているから、ということになるだろう。ここで根拠は循環してしまう。
つまり物事の根拠を問うための思考作用自体には、根拠がないのだ。思考の作用を「思考」と「思考の根拠としての言語」に分けているのもまた、思考の作用である。作用としての思考の背後には回れない。だとするなら、思考の根拠を問うこと、それが言語であるということは、本来無意味なことではないか? そこで扱われている思考なるもの・言語なるものは、実体化・概念化されたものでしかない。根拠のある思考は思考ではないし、思考として捉えられたものは、思考そのものではない。その都度の思考作用は単にそのように有るのみであり、形式・規則を根拠として持つのではない。
「言語無しに思考することはできない」と言う時、それは「両者を分けることに意味が無い」という点では正しい。「働き」があるなら、「どのように働いているか」もまた必ずある。思考には何らかの言語が伴う。
しかし「言語なるものが予めあり、それに従って思考が為される」と考えられる時、それは誤っている。思考が言語なのであり、どちらがどちらを成り立たせるのでもない。
私が思考しているのではない。世界が思考している。
何かが現れる。現れたそれを要素に分解し、関係として繋ぐ。また何かが現れる。分解して、繋ぐ。ひたすらに分析と総合を繰り返す。これが生起した事態を理解するということである。だが要素に分解する前の生起そのものは、延々と理解されないのだ。
瞬間を超えるものはない。法則は常に消失し得る。法則の消失が現実に観察されようがされまいが、原理的にそうである。
瞬間は前後を断絶する。だが真に断絶するとしたら、それを断絶と捉えることはできない。かと言って連続するとしたら、変化ということがあり得ない。瞬間は真には断絶しないし、連続もしない。
まず無分別の全体があり、そこに分別が加わることにより個が成り立つ、という風にはなっていない。
なぜなら現にあるのは分別されている全体であって、無分別の全体というのは飽くまで分別の中にある理念に過ぎないからだ。つまり、現に分別された全体に対し「なぜ?」と根拠を問うことにより初めて得られる起源が無分別であって、その意味で無分別は分別に先行するわけではないから。
しかしながら現に有る分別の全体は、瞬間の出来事としてそのまま直接の真理なのではある。だから無分別は分別の根拠であるということと、分別は無分別の根拠であるということとは、異なる次元で同時に成立し得る。
無分別と分別との関係は時間的関係ではない。両者は同時に有る。
無分別から分別、分別から無分別への移行は無い。移行を移行と捉える時、既に分別している。
全て実在するものが直接に同時に自らを示す。示すことは必然に、示され方は偶然に有る。
記憶を無限に遡ることはできず、抜けがないことも確かめようがないので、過去の全てを知っている者は存在し得ない。
時は流れ移り行くものだが、過去を想起することもまたその流れの内に有る。移り行かない過去は無いので、過去を一挙に把握することもまたできない。
よって定まった過去がまず有り、そこから選択的に現在の記憶が構成されるという図式は成り立たない。想起されることが過去である。想起されない過去は無い。
私が認識した世界に価値など無い。真理は私を超えていなければならない。だがそれは真理が客観的であることを意味しない。客観性とは所詮、主観的現象でしかない。つまり私の認識でしかない。そんな真理は私が消えたら御役御免の幻だ。何の役にも立たない。
道は三つある。第一に、私を超えた真理には到達できないことを唯一の真理と認めること。第二に、客観的真理こそが私を超えた世界の真理そのものだと信じ、その枠内に私を溶け込ませること。第三に、私は本来無いのであり、物事は主観的現象ではなく客観的実在でもなく、現に有る通りに有るのだ、現に有る「これ」が真理なのだと私自身に言い聞かせること。
ふと気付けば、いる。何かしてしまっている。それが自分というもので、これは自分が生きていようと死んでいようと変わらないのだろう。
誰も分かってくれないし、分かってくれてもあなたは私ではない。
そのようであると言うのはそのようであるとしか言いようがないからそう言うのであり、実際のそれはそのようであるというその言葉とは異なる。
私が求めているのは意味ではない。むしろ意味を散らすもの、意味による覆いを取り去ってくれるもの、意味の煩わしさの無い所を求めている。意味が無ければ苦しみも無い。意味に溺れそうになっているのかもしれない。水の中では息ができない。
意味は正しさだ。正しさは苦痛だ。苦痛は執着から来る。何かしらの正しさに囚われて、その正しさの通りに生きたいと願い、なおかつその通りに生きられないのは不幸なことだ。意味が苦痛になり、意味に溺れ窒息するのは、意味の通りに生きられないからだ。
そこで、生きるために意味を捨てるか、意味を大事にして死ぬか、死に切れずに惨めに生きるか……ということになる。
求められているのは安定だ。意味に沿って進むのではなく、ただ進むことがそのまま意味になるような、静かで安定した歩行だ。進むこと自体が意味ということは、意味は無いということだ。そうして意味がないことが至上の意味となることだ。また、意味が無いことが新たな意味として立ち上がってくることすら無い道を行くことだ。意味を否定しつつ意味であることだ。そうしたことを考えないことだ。考えないということ自体も考えないということで、そう考えている時点で無理をしているのを自覚した上で別の道を探すことだ。
だから結局、哲学に救いを求めているのか、哲学からの救いを求めているのか分からなくなってくる。しかし哲学すること自体がまた一つの意味であり道であり、というように循環していく。気が済むまで、疲れ切るまでこれを繰り返すしかない。
私が心安らぐのは言葉に没入している時だけだということ。
裏の仕組みを考えるのは科学の仕事だ。哲学は表面を扱う。
瞬間は瞬間に総合されない。滅したものに総合することはできない。
現在する瞬間が過ぎ去った瞬間を把持するのでもない。過ぎ去り滅した瞬間と、把持された瞬間が同じものだと何故分かるのか。
瞬間に瞬間を総合することで世界が動くのではない。現に有る瞬間の内部に過去の瞬間が有ることで「動いた」という認識が成り立つのでもない。
動くことの裏に仕組みは無い。世界は動くから動く。瞬間は動から取り出されるのであり、瞬間が動を成り立たせるのではない。
全てが一瞬間に収まる。生じ滅する全てがそこに有る。にも拘らずその全ては滅し、また生じる。一瞬間が有ってそれが全てであり外など無いのに、その全ては即座に滅して自らの外を作り出す。作り出された外はしかし即座にまた瞬間の内に有る。本来単一であり絶対であるこの瞬間が、同時に自ら複数となり相対となり、その複数性相対性の在処がまた絶対である。生じ滅する瞬間は複数だが、複数の瞬間はそれぞれに単一であり、しかしそのような複数の単一、複数の絶対の立ち並ぶ処を外から見ることなどできず、必ず現に有る瞬間の真なる単一性においてそれらは直観され、尚且つその直観の全体がまた複数の瞬間として生じ滅して行く。全てがそこに有って外は無いのに、尚そこが置かれる更なる外を持つという、この矛盾が瞬間である。
生きても死んでもこれは続いていくのだろうという、予感以上確信未満の感覚がある。
それは「今こうして生きている私が、死んだ後別の何かに生まれ変わる」とかいう話ではなく、単に「今こうしているのと同じように、いつでもこうしているだろう、そして『こうする』ということは決して『ただひたすらにある』という形を取ることはできず、何かしらの苦とそれへの対処という分離を前提するのだろう」という空漠たる話でしかないのだが。
ずっとこうして来たのだし、ずっとこうして行くのだろう。無など何処にも無かった。無であったことも無いし、無になることも無いし、さりとて純粋な有であることも無い。ふと気付けば侵略があり、抵抗がある。押したり引いたりしている。しているうちに線が見えてきて、形ができて、それが私と他者になる。関係とは力の干渉だ。また力とは動くものであるのだから、その動きの中にしか私も他者もない。
その感覚に根拠は無い。元より存在に根拠など無い。強いて言うなら次のような疑念があるだけだ。「死ねば無になってそれで万事終わりだなどと、そんな都合の良い話がある訳ないだろう」。しかしこの疑念も所詮「死にたくない」ということの単なる言い換えかもしれない。
自己は主体であり、客体ではない。だから自己を外から見ることはできないし、内から感じることもできない。自己の外には立てないし、自己の内は無い。
考えても仕方ない問題について考えないようにしたところで、問題が消えてなくなるわけではないですよね。
一切の苦痛も前触れもなく突如として生が終わる場合、それは死なのか? あるいは深く眠っている最中に、そのまま消え入るように死ぬ場合、それは死なのか? あるいは突然事故に遭い、考えを巡らす間もなく即死する場合、それは死なのか?
いや、突然の死は死ではないのだ。死が死であるためには時間が要る。いつか来るが、まだ来ていないものとして気付かれ、しかしいつ来るかは分からない、そのようにじわじわと迫ってくるものが死である。最後の苦痛として、あるいは救いとして死はやって来る。死が有るためには、死ぬ前に死に気付かねばならない。
また死んだ後にも、自分が死んだことに自分で気付くようなものでなければならない。死んだことに自分で気付けないようなら、結局それは死んだことにならないではないか? だから死は時間をもって受け入れられ実現され、また時間をもって回顧され得るものでもなければならない。
……という訳でここに2つの可能性が有る。「死んだ後、自分が死んだことに気付く場合」。意識があるので、これは結局死んでいないことになる。「死んだ後、自分が死んだことに気付かない場合」。死んだことに気付かないので、死んでいないことになる。どちらにせよ、死んでいない。死は生においてのみ死である。
「人生は死ぬまでの暇潰し」という言葉について、以下のように憤っている人がいた。「こんなに大変な暇潰しもないもんだ。今まで苦労して生きてきたが、とても暇潰しと言えるような気楽なものではなかった」。……これも一つの真っ当な受け止め方だろう。 私としては、暇潰しというのは時間的状態であって、「暇ではない時間」や「暇だけど暇潰しはしてない時間」との区別により成り立つと考えた。だから人生の全体が暇潰しだとすれば、暇潰しという概念は意味を失う。よって「人生は死ぬまでの暇潰し」という言葉が意味を持ち得るとしたら、人生の全体とは異なる時間を前提した場合、つまり「死んだ後は暇潰しではない」=「死んでからが本番!」と主張している場合だけだ。これは極めて宗教的思想の強い主張である。 ……と、思ったのだが別の解釈もできることに気付いた。人生には暇でない時間や、暇だけど暇潰しはしてない時間があり得る、ということは認めた上での、「この私の人生には、暇潰しの時間しか存在しなかったなあ」という詠嘆または卑下の表現として、この言葉は解釈できる。もちろんこの表現が成り立つためにも「暇でない時間」や「暇だけど暇潰しはしてない時間」の存在を知っている必要はあるのだが、それらを知るのに自分が実体験を積む必要はないのだ。ただ人生の過ごし方が明らかに自分とは異なる、他人の振舞いを見ることができればよい。つまり「何かに執着して全力で打ち込んでいる他人」や「何もすることはなさそうだがそれを苦にすることなく、無為を無為として受け容れている他人」を見ることができればよい。あるいは、「かつては自分も暇ではない時間を過ごしたことがある、と思っていたのだけれど、今になって思うとあれも所詮は暇潰しに過ぎなかったのだなあ」、と思うような体験をするのでもよい。そういった他人や過去の自分との比較によって成り立つ現在の詠嘆表現が、「人生は死ぬまでの暇潰し」という言葉である、と解釈できる。 そういう風に解釈する場合、暇潰しであるのは飽くまで「人生は死ぬまでの暇潰し」を主張しているその人についてのみ言えることであり、一般化されない。ただ言葉としては「私のこれまでの人生は、現在の私が思う限りでは~」ではなく単純に「人生は~」とされているから、一般化されて聞こえるだけなのだ。だからこれを聞いた人は憤ったり、「人生の全てが暇潰しだとしたら~」というような変に論理的な解釈をしたりする。だがこれは客観的主張ではなく主観的情感的表現なのだと捉えれば、そのままに味わうことができるだろう。表現としては個別的なまま、分かる人にだけ分かればよい。この言葉は「私の人生は所詮暇潰しに過ぎなかった」と感じている人の共感を呼んだり、「生きているうちに何かを成し遂げなければ!」と張り切り過ぎて苦しんでいる人に届いたりして、そこに安堵をもたらすことができる。
「死ぬこと以外かすり傷」なんて言われたら、殺したくなっちゃうよ。というかそこまで言うなら、なんで死ぬことだけはかすり傷じゃないんだよ。死んでも平然としてろよ。訳が分からんわ。
一度きりの人生だから、悔いの残らないように懸命に生きねばならない……のか? しかし一度きりというのは、死んだら無になってそれで終わり、ということではないのか? 無になって終わりであるなら、どう生きても同じではないか……?
幸福になる方法の話。曰く「今ここに集中すると幸福になれる」「何事にも感謝をすると幸福になれる」「貢献すると幸福になれる」「目標を持つと幸福になれる」「考え方を変えると幸福になれる」「身体を鍛えると幸福になれる」云々。これらは幸福な人の幸福を分析した結果に過ぎないのであって、「これをやれば幸福になれる」という方法論として提示するのはおかしいのではないか?
他人に感謝したり貢献したり、目標を追いかけたり身体を鍛えたりして幸福になれる人というのは、元々幸福な人なのではなかろうか。そもそも感謝できること、貢献できる能力があること、身体を鍛える気力があること等々は、それ自体が幸福の証なのであって、幸福に先立つものではないのではないか? 今ここに集中して幸福になれるのは、今ここが元々幸福だった場合だけなのではなかろうか。今ここが虚しかったり苦しかったりするなら、どうすればよいのか。何もやる気が出なかったら? 幸福になるための方法を実践する気になれなかったら?
ということは、不幸な人間が幸福になる方法というのは無く、ただ偶然にそうなるしかないのではないか?
物は法則に従わない。むしろ法則が物に従う。法則が物を縛るのではなく、物が法則を実現する。
物が一切無いが法則だけは有る、という状態は有り得ない。そんな法則は有名無実だ。物が有るが法則は無い状態、これは有り得る。だから法則より物が先に有るのだ。
法則とは、物の振る舞いを観察し、データを取り、まとめ上げて一般化・抽象化した結果得られるものに過ぎない。それは予め有って物の動きを規制するものではなく、物が動いた後、結果的に残るものでしかない。自然に絶対の法則は無い。
物は何故こう動くのですか?
――そういう法則があるから。
そういう法則は何故あるのですか?
――物がそう動くから。
「自由意志(自由選択意志)は本当は存在しない」という話のバリエーション。
まず最もポピュラーなものとして、因果関係とか物理法則とかに基づいた自由意志批判がありますね。意思決定は脳味噌、脳味噌は物体、物体は物理法則に従う!原因があって結果がある、全部初めから決まってる!ってやつですね。しかしこれはあんまり筋が良くないです。何かって言ったら因果っていうのは因と果が揃って初めて因果な訳です。まだ結果を生じさせていない原因っていうのは、実のところ原因でも何でもない訳ですよ。つまり因果関係ってのはすでに完結したことについて言える関係であり、過去について言うことはできても未来においては成立しないんですね。今この状況がどういう原因から生じたものか、っていうのは色々挙げられるでしょうけど、この状況が原因になって今後何が起きるか、なんてのは予め言えるもんじゃないのです。というかそれこそ「意志次第」ということになってしまうでしょう。もちろん過去の経緯、知識、記憶に基づいて未来を予測することっていうのはできるんですが、それでも実際どうなるかは、やってみないとわかりません。というわけで、起こる出来事は因果関係によってあらかじめ決まってるから意志は存在しないのだ、って説明は成り立たないのです。因果関係はただの事後処理です。
じゃあ因果なしでどうやって自由意志を否定するのかって言ったら、(まあ因果関係が否定されただけで突然自由意志が出てくるはずもないのですが、)「必然性」って概念が鍵になります。因果関係は必然性を担保しません。しかし世界は必然です。何故かって言ったらそもそも世界は一個しかないからです。全てが存在する場所を世界と言うのだから、一個しかありようがないのです。もし複数の世界が存在するとしたら、その複数の世界を一個、二個、って数えてるその場の方が一個の現実世界なのです。そして世界が一個しかないってことは、当然起こることも一個しかありえないわけでして、だから世界内で起きることは全部必然(それ以外があり得ないってこと)になる訳です。世界の進行というのは、「因果関係があるから一個しかあり得ない」のではなく、「一個しかあり得ないから因果関係を見出すことができる」のです。
そうじゃない、世界には複数の可能性があって、その中から選択されたり、あるいは意志によって選択したりするのだ、とも考えられます。しかし現実は常に一つなので、可能性は妄想だと言うことが可能です。そもそも、因果関係が事後的であるのと同じくらい、自由意志だって事後的です。まず行為があります。行為があってから、その善悪(都合の良し悪し)が判断されます。「あっやべ、やっちまった!」って思います。そう思ってから、別の行為を選択する「べき」だったという考えがでてきます。飽くまで「べき」です。しかしその「べき」が現実的に可能だったかというと、不可能だったのです。だって現に起きたのは、現に起きたことだけだったんだから。(「べき」と思うからには、可能だったはずだ。不可能なことをする「べき」だなどと考えられる「はず」がないから、という考えがあります。しかし「はず」もやっぱり所詮は「はず」です。)「自由だから後悔がある」、じゃなくて、「後悔するから自由がある」なんですね。一切後悔をしない人というのを思い浮かべてみましょう。多分彼は自由なんて概念は思いつかないし、理解できないし、興味もないでしょう。羨ましいことです。そもそも自由は不安と強く結びついています。これもやはり自由だから不安を感じるのではなく、不安だから、自由なる概念を捏造するのです。自由意志があれば向かう先を自分で決められますからね。しかしそれはただの願望であって、現実ではないです。
というか自由意志って因果関係の一種(意志が原因になって身体運動を結果として引き起こすわけですからね)なので、因果関係が否定された時点で自由意志も否定されないとおかしいのではありますね。つまり因果関係が過去志向なのと全く同じく、自由意志だって過去志向なのです。
しかしとにかく、そういう「やっちまった」後悔の記憶を持って今度は未来の選択に向かう訳ですね? しかし「右にも左にも行ける」って言ってるときには、まだどっちにも行ってないので、どっちに行く意志も現実ではありません。(意志があって選択するのではなく、選択がそのまま意志なのです。実現してない意志は意志ではなく、ただの願望です。)そして実際に右や左に行った時には、既に行ってしまったので、どちらも選べるわけではなくなっています。まだ行為してないときには意志がなくて、もう行為したときには選択肢がないのです。「まだ行為してないので自由ではない」って状態から、「もう行為しちゃったので自由ではない」って状態への移行だけがあります。もちろん実際に行為をしているときには、正にその行為をしているのであってそれ以外はできません。という訳で、「選択肢があってその中から選んで行為する」ということは不可能なのです。選択の余地はありません。
もちろん「すべてが初めから決まっている」なんてことがある訳ありません。決まってるってんなら具体的にどうなるか言ってみましょう。具体的に言えないならそんな宣言に意味はないです。それもやっぱりただの願望です。ところが全てが初めから決まっている訳ではないにしても、それで自由意志が出てくる訳ではないのです。何が起こるかわからないにも拘わらず、必然なのです。だって一個しかないんだもの。
さらに仮に「行為を選択する」ってことがあり得るとしても、その動機が問題になってきます。根拠があってそうしたなら、その逆は不可能だったので自由じゃないです。根拠がなくてそうしたなら、その自由は偶然と区別がつかないです。というか事象は単にそのように起こるだけであって、それが自由のたまものだの、いや必然だの、偶然だのというのは全部後から概念的に構成されます。事象そのものはそのうちのいずれでもないのです。
主体とその行為とは、両者揃って現れることもあれば、片方のみ現れることもある。
行為が実際に為され、その行為の主体の観念が反省により伴っている時には、両者が存在する。
行為が為されてはいるが、主体に関する反省を欠いている場合、行為のみが存在し、主体は存在しない。
実際に行為が為されてはいないが、それを為し得る主体だけは認識されている場合、行為は存在せず、主体は存在している。
行為の基体としての身体は常に存在しているはずであると考えることはできる。しかし身体は主体ではない。身体を動かすものが主体である。また身体も主体と同じく、それとして認識される限りで存在する。
理由が有って行為する時、私は自由である。その理由に納得するにせよ抵抗を抱いているにせよ、とにかくその理由を理由として認め、従う意志を見せているのは他ならぬ自分であるという意識が、その行為には伴うからである。理由を持つ時、私は内的に自己を制御している。私は理由に従っているのだが、従わないこともできる。理由に従うことを通して、自己に命じ、自己を従えている。そこに私の自由がある。
理由が無くて行為する時、私は自由である。その行為は私の内奥から、自体から発したものであるから。その行為は理由に束縛されず偶然に起こるが、同時に私自身の自然な本性の発露である限り必然でもある。自然な本性とは固定的実体的自己ではない。そのような実体に従う自己なら、必然でしかない。だが自然は自ら変化する故に自然である。本性は束縛とならない。理由を経由せず、意志が直接に現れる時、意志は自由であると同時に必然でもある。
理由への服従が自己への命令となり自己の自由となるのと同じく、自然への服従が自己の発露となり自己の自由となる。
理由が自由となるためには、理由が内的によくこなされて(消化され、同化されて)いなければならない。理由はよく受け容れられねば自由とならない。理性的にそれが善であると判断されているのでなければならない。必然的にそうすべきであるから、そうするのでなければならない。内的にこなされない理由は、単に外的理由であり、強制となる。
偶然に事が起こるという場合、それは何者の意図にもよらなかったということを意味するのだから、外的強制であり、自由はそこで否定されていると解釈し得る。ただ、内的偶然ということもある。自己が概念的にはっきりと意図した訳でなくとも、それが自己の意志であることがあり得る。「これが自分の意図だ」と強いて規定することが、却って自己を束縛することもあり得るからだ。確固たる理由無くとも何となくそうするのが良いと思われる場合、その偶然性はむしろ自己の自然な在り方なのだ。その意味では偶然は自由である。
同一というのは複数のものの間の関係だ。一方にAがある。もう一方にBがある。AとBは同一である。A=B、という訳だ。しかし2つある時点で、同一ではないのではないか? AはAであり、BはBであるのだから。AとBが区別されている限り、同一ではない。そしてAとBが本当に同一なら、実のところそこにAもBも無いはずなのだ。区別がつかないのだから。そういう訳で、同一などあり得ない。ものがあれば、それらは全て異なる。時間的にも空間的にもそうだ。同じものは2つと無いし、同じ時も2度と無い。あの時のあれと、今あるこれは別物だ。何もかも別だ。同一性は虚構だ。AとBは違うし、AとA自身の間には距離が無く、関係が結べない。A=Aがあるとしたら、左のAと右のAはもう別物だ。
物がそこにあるのを見る。後ろを向いたらそれは視界から消える。もう一度見直す。さて、さっき見たものと今見たものは同じか? 同じだ。当たり前だ。でも「本当は同じではないのだ」と言い張ることもできる。さっきと今は異なるのだから。さっきと今が同じだったら、時が流れないではないか? これも当たり前だ。
そもそも同一ということがあり得ず、全てのものが根本的には異なるものであるとしたら、真なる同一と偽なる同一を区別することはできないことになるだろう。「これとあれは同じ」というのが同一だ。「これとあれは違う」というのが非同一だ。「これとあれは同じ」というのは全て偽だ。しかし現実には、ものは時間的にあるのであって、過去があり、持続があり、同一がある。「今あるこれは、あの時のあれと同じものだ」と認識することができる。言い換えれば、「あれがこれになった」と認識することができる。
昨日の私と今日の私は異なる。しかし同じでもある。昨日の私が、私であるままに、今日の私となっている。今日の私は昨日の私と同一だ。しかし私以外とは同一でない。昨日見た犬と、今日の私は同一ではない。犬は犬であり、私は私であり、ペンはペンであり、机は机であり……というように、それぞれのものに、それぞれの同一性、持続があるように思われる。しかしながら、話を戻すと、それらの同一性は実際、偽である。昨日の私と今日の私は、それらを二つ並べて語っている時点で別人である。であるならば、そもそも同一性自体が無いのだから、私に独自の同一性などというものも無い。犬に独自の同一性も無い。それらは交わり得る、ということになる。昨日の私が今日の私になるなどというあり得ないことが起きるなら、昨日の犬が今日の私になるなどというあり得ないことが起きたって、何もおかしくないはずだ。だから、何が何になることもあり得る。私と私の同一性が真で、私と犬の同一性は偽だ、などとは言い切れない。
時間は過去と現在との関わりだ。過去と現在は同時にある。過去は現在するのでなければ過去にならない。過去が過去であるためには、過去が過去として、現在認識されねばならないからだ。現在から孤立した過去は無い。だから、過去から現在に至るまでのものの同一性も、現在認識されてある。時間的関係は実のところ、時間的ではない。時間的関係は現在に、無時間的に、瞬間的にあるのだから。何かと何かの同一が主張されるとしたら、それはその認識が生じる、正にその時主張されるだけなのだ。
客観的に(現在の外に)存在する過去におけるそれと、今現在存在するそれとの同一性を、その過去から現在を通して完全に全体として把握し証明することはできない。言えるのは、今、過去のそれと現在のそれが同じと主張されている、というこのことだけだ。そして同時に、その今もまた、今として認識されるや否や、既に過去となっている。時間は散発的である。過去から現在の全体を把握することは不可能だ。ところが現在は実際に過去になり、常に新たに生じて止むことが無い。その現実の動きが、現実の時である。要するに、同一性とは散発的な時においてその都度主張され、その都度撤回される、その程度のものでしかない。散発的な時間において、時間的でない時間があり、そこに同一や非同一がある。
つまり、時間という容器のようなものが客観的にあり、その中にまた客観的にものが配置されて、そのものがまた客観的時間的に連続して、一つの物の同一性を成立させている、という風にはなっていない。そのような客観的時間を観察することはできない。もし仮に客観的時間を観察することができるとしても、その観察している視座、観察する作用は、観察対象としての客観的時間とは異なる現実的な時、動きの中にあるはずだろう。客観的な時間を見ている時、既に現実的時間は見られない。
単に今この時があり、今このものがあって、「ああ、今あるこれは、あの時のあれと同じだね」と認識している。それだけだ。それが実際に同じだったか違っていたかなど確かめようがない。だから同一・非同一に真偽など無い。その認識は、端的に為される。無論様々に思考を巡らしたり検証したりしながら、同一・非同一が徐々にはっきり判定されてくる、という過程を体験することはあるだろうが、同じことだ。その過程を体験した自分と、体験し終えた自分が同一か否かを、どう保証できるというのか。この瞬間における関係が、全ての関係であり関係の全てなのだ。だから究極的には、全ての判断はこの瞬間になされるしかない。これは時の必然だ。だから認識は端的だ。同一・非同一も端的だ。ああ、今あるこれはあの時のあれだ(というよりさらに端的に、「ああ、これはあの時の!」)、と判断できれば、もうそれで終わりだ。同じものは端的に同じで、違うものは端的に違う。
さらにその「端的に同じ」ということを縮めて言うとどうなるか。端的に同じであるとき、もはや2つのものを並べて、総合して、関係として「同じだ」と言っているのではない。同一であるもの、時間的に連続するものは、一切分割されない一つの実在として認識される。棒切れの端と、もう一方の端とは、分ければ別々の両端だ。しかし分けねば一本の棒だ。一本の棒を一本の棒として成立させるために、両端をまず認識してからそれらを総合する、などという操作を行う必要はない。同じように、時間的に連続するものは、単純に時間的に連続する一つのものであり、いかなる総合の結果としてそうなるのでもない。つまりそのような時間性も含めての「これ!」があるだけだ。一つの連続するものにあっては、もはや現在と過去が「同じ」とか「違う」とかいうことは問題にならない。一つしか無いのだから。だから同一性とはA=Bということではないし、A=Aということですらない。
棒の両端を分けないところに一つの棒があるように、実のところ、存在している全てのものを分けないこともできるはずだ。これは時間的同一、持続、に対する空間的同一の話だ。というより、時間的関係は同時的関係なので、初めから空間的なのではあるが。空間的に、一つのものは一つであり、複数の物は複数である。
一つの物が一つであるなら、もうそこにおいて同じであるとか違うとかいうことは問題にならない。複数のものがあるなら、それらは絶対にお互い異なる。それらは全て同時に一瞬間にある。一つのものは端的に一つであり、同一性により一つなのではない。複数のものには、そもそも同一性はあり得ない。だから結局、非同一しか残らない。全て互いに異なるものが瞬間に犇めき合い、世界を埋め尽くしている。
記憶は自己同一の根拠になるのか? その記憶が今降って湧いたものでないことをどうやって確かめるのか? 記憶はそもそも何かの根拠になり得るのか? それを言うなら、そもそも何かが何かの根拠になり得るとはどういうことなのか?
現実は常に動いている。動きとは瞬間から瞬間への動きである。現に有る瞬間が即座に滅して次の瞬間が生じる、その移り行きのことである。であるのだが、それはどうして可能か。瞬間から瞬間への移行は、前の瞬間が有り、後の瞬間が有り、その二つを乗り越える、ということではない。ばらばらな瞬間が個別に有り、その間を架橋するということではない。そんなことは不可能だ。前の瞬間が有る時には後の瞬間は無く、後の瞬間が有る時には前の瞬間は無いのに、どうやって超えられるというのか。二つの瞬間が予め有ってそれを跨ぐということが可能であるためには、その二つの瞬間がそれ自体で、個別に、同時に、客観的に有り、その客観的に有る瞬間を、その瞬間を体験する主体が通過する、というような図式が考えられている。だが現実の瞬間は一つでしかあり得ない。過去ではなく未来でもない、過去や未来がまとめて一つの世界として現成する場が瞬間なのであるから。だがそのように唯一絶対の瞬間を言ったところで、その一つの、ただ一つの瞬間からどうやって動きが生じるのか。瞬間は唯一絶対であり、唯一絶対のままで、それ単独で現に有って、それで終わり、などということはない。瞬間は現実に生滅しているのだ。つまり予め複数の瞬間が有ると見る図式には無理があるし、かと言って瞬間が絶対的に一つしか無いと考えてもやはり現実にそぐわない。瞬間は複数でも単数でも無い、ということになる。そして複数でも単数でもないようなものは現実に存在できない。よって瞬間は現実に存在しない。それは観念である。世界が何故動くかと言えば、瞬間が生滅する、入れ替わり立ち替わり現れるから、ではない。そのような瞬間の生滅・連続は、既に動いているということを抽象した結果得られる観念に過ぎない。瞬間の生滅が動きを成すのではなく、初めから有る動きの中に、瞬間の生と滅が分かれ、単数と複数が分かれるのだと、こう考えねばならない。
Aと見做されることによりAとなる、ということは、Aと見做されなければAでない、ということを含意している。見做されることが条件となって、AでないものがAとなるのだと。しかしそれを言うなら、見做されていないものなどあるのか。見做されていないものは、見做されていないものとして見做されているのではないか。見做されていないものがないのであれば、「もし見做されなかったら」などという仮定も成り立たないのだから、見做されることによりAとなるということもまた成り立たない。見做されてAであることと、それ自体でAであることが区別されない。よって見做されてAであるものは、そもそもAである、ということになる。
世界は一つの全体である。全体を分けた所に個が有る。一つのものを分けるのだから、分けたものは元々一つで、分けられることにより互いに繋がり合っている。全ての個は関係する。だから一つの個を取れば、そこには全てが含まれる。これが全ての個について言える。個は互いに入れ子の関係にある。
このことは単に世界が一つでありその中に多様が有ることからの、当然の帰結である。個が空間的に内包し合うことは単に平板な関係に過ぎない。重要なのは、内包し合って「有る」ことではなく、内包し合って「生じる」ことである。空間ではなく、時間なのだ。互いが互いに収まることではなく、互いが互いを収めながら現れ出ることなのだ。一個が生じること、瞬間にこの世に現れ出ることが、全ての現れをその一個の現われにおいて強制することである、というこのこと。全ての個についてこれが言えるということ。空間的相互包摂ではなく、時間的意志的相互作用、自由としての個の現成。
現れる一個は、自他の全てを率いて現れ出るのだ。だから私もそこに巻き込まれている。今この時の生は、これの生でありあれの生であり私の生であり、全てが互いに生じようとすることであり、結果として世界を成すことだ。何が生じているのか、生起は何の生起であるのか、ということは究極的には言えない。私は私の意志により動きつつ、それは他者の意志を呼び込み交わり強制されてある。私の意志は同時に他者の意志でもある。他者の意志は同時に私の意志でもある。全てが同時に、自由に、互いに互いを生じさせつつ自ら現れ出る。生起は何による生起とも言えず、しかも紛れもなく全ての、それぞれの個の全力の生起である。一個の現れが全ての現れである。それが世界なのだ。空間的に客観的に、静止して、単に有って、それで終わり、ではない。
原因が結果を引き起こす。諸原因の和合が、結果を成立させる。原因としての要素の集合が、結果としての総体を引き起こす。全ての原因の集合は、結果と一致する。とすると、原因と結果との区別はできなくなる。原因の全体がそのまま結果なのであるから。諸原因のうち一つでも欠けていれば、違った結果となる。原因の集合Aは、結果Aとして生起する。同様に原因の集合Bは、結果Bとして生起する。そうして、もし結果Aが成ったなら、そこには原因の集合Aが有ったことになり、結果Bが成ったなら、原因の集合Bが有ったことになる。これは単に結果を分析して原因を得ているだけであるから、実のところ原因の集合は結果の生起に遅れて得られることになる。よって原因は結果に先行せず、結果を引き起こすこともない。
今現在存在している全ての要素を原因とし、次に生起する状態を結果とした場合、原因と結果の間には間隙がある。結果が出るためには原因に何かが付け加わる必要がある。原因に何が付け加わるかは、原因により規定されない。もし規定されるとしたら、その付け加わる何かがまたその原因による結果であって、そこにまた間隙が有り、そこでまた原因に何かが付け加えられねばならなくなるからだ。よって原因に何が付け加わって結果となるかは、原因によって規定されない。よって原因は結果を引き起こさない。
構成要素は、既に構成された物を分析することにより得られる。構成要素が構成要素たり得るのは、既に構成されて有るものについてのことである。実際に構成する前の構成要素は、未だ構成していないのだから、構成要素ではない。構成要素は構成対象に先行しない。
一つの空が個々のものとして現れると考えられる。同一の極限としての空。全てが同一であるなら、その全体の一は何であるのでもない。
全ての空が互いに関係し作用しつつ現れると考えられる。別異の極限としての空。全てが別異であるなら、一々のものは何であるのでもない。
AがBになるとき、そのなることの基体は、AでもBでもない。AにもBにもなり得る、故にAでもBでもないCが、AとBの間にある。それは同一としての空なるものCである。
だがCがAにもBにもなるのであるなら、それらの間にまたAにもBにもCにもなり得るDを求めねばならない。それが真に空なる基体Dである。当然この過程は永遠に続く。
同一の空なる基体の探究は永遠に続くので、遂にそれは得られないことが分かる。A、B、C、D・・・の間に同一などない。それらは全て別個なのである。同一の何かが仮現してそれらとなるのではない。むしろ、別異であるそれらが相寄って同一を表現するという方が正しい。よって同一の探究の逆、別異の探究が行われるべきである。全て識別されて有るものは相互に別異である。別異だからこそ関係する。
別異を突き詰めると、それぞれのものは、それぞれ自分自身とすら同一ではない、と言わねばならない。A=Aもまた関係の一種なのであるから。だから空性はそれぞれのものにおける全き別異性として存在することが分かる。それぞれのものは、それぞれ何とも同一でないものとして空である。
空は普遍性の否定でもあり、個体性の否定でもある。一般概念的本質の否定でもあり、それのそれとしてのそれ性の否定でもある。だから各個の空(無自性)は、一般性の否定として個的でしかあり得ないものでありながら、それがそれ自身であることの否定として存在の全てなのでもある。
自体は具体の根拠である。自体が具体として現れるのであるから。
自体は具体の根拠でない。自体はその本性上何であるのでもなく、具体とも異なるから。
具体は自体の根拠である。具体が現れてこそ自体を想定可能であるから。
具体は自体の根拠でない。自体はその本性上何にも依らずにあるから。
自体は具体と共にあり、関係する、としか言えない。どのように関係するかは双方の意志による。
もし自体的空が具体的個として自分を現すのだとしたら、自体と具体はその関係において別異である。だから自体として現れる自体と、具体として現れる自体が別々にあることとなる。そうすると、自体の自体の自体……と、具体の自体の自体……が有ることとなり、自体は終に得られない、ということになる。
が、そもそも自体は自体である限り根拠を要しないものであるから、無限背進は問題とならない。自体の根拠として更なる自体は要らない。
また自体の自体の自体……と、具体の自体の自体……とは、現にそのように分別されて有る限り想定され得る。自体が単に自体として、具体が単に具体として単純に分別される限り、無限背信はそこに存在せず、やはり問題とならない。自体があり、具体がある。自体の自体があり、具体の自体がある。自体の自体の自体があり、具体の自体の自体がある、……という操作は可能だが、それはどこまでも有限な分別に留まる。無限遡行は無限である以上、完遂は不可能である。
またそもそも、自体と具体とは別に存在する個である訳でもない。単に、観念として見ればそのように見ることもできるというだけであり、実際の個の自体とは、具体と別に有るのでなく、具体が具体として現に現れることそのものの、その「こと」を指すのであるから。
一つの物は様々な構成要素・部分に分解することができる。それぞれの構成要素もまた様々な構成要素・部分に分解することができる。合成されていない物は何もなく、分解は無限に続けることができる
真実に存在するものはそれ自体で存在するのであり、他のものに依存しない。何かから構成されているもの、要素に分解され得るものは、要素に依存して存在しているのであるから、真実には存在するとは言えない。全ての物は合成されてあるのだから、真実に存在するものはどこにもない。と、考えることができる。
一個の物は、世界の全体において、他の物との関係として、意味を持ったまとまりとして切り出されてある。その意味で、物は観念である。物の構成要素も同様に切り出されてある。構成要素と、構成されるものとは、観念として関係として互いに意味を持つことにより成立している。だから構成要素と構成対象とは、観念として対等である。ものをいくら構成要素に分解・還元したとしても、元の物の観念は残る。
むしろ物を分解したところに構成要素があり、分解しなければないのだから、観念的には要素の方こそ物に依存している。そして物は他の物との関係により意味を持ち存在するのであるから、やはり他のものに、全体の関係に依存しているのであり、真実に存在するとは言えないこととなる。
だが全体が一個の物の現れである、とも考えられる。何故なら、一個の物は世界全体の関係においてあるのだから。つまり一個を取れば、世界全体がついてくる。一個があれば、それは世界全体の関係を内包している。その意味では、一個こそが全体であり、全体における個々の全てのものは、一個の構成要素であると言える。一個の物が構成要素に依存するのではなく、構成要素こそ一個の物に依存している。だからその一個の存在することが、世界全体を存在させることであり、一個の存在は他の何にも依存しない。つまり、一個は真実に存在するものである、と言えることになる。
あるものはより微細な要素に還元できるから、それそのものとしては実在しない、と主張することは誤りである。還元しなければ、要素の方こそ実在しないのだから。
構成されたものは構成されたものとして、構成要素は構成要素として、それぞれに単純に実在している。
ある物は時に有り、時に無い。またある時にはある姿をしており、別の時には違った姿をしている。現れは時により変わる。現れる物のそれ自体は、時を超えて変わらない。しかし時を超える物、時の裏にある物とは、何の性質も持たず、どのようにあるのでもないものであろう。現にそれは知覚されないのであるから。よって全ての物のそれ自体、本体は相互に等しい、ということになり、世界はその一つの等しい物の現れである、ということになる。
自体は自体の観念して現われる限り、いつかの時、どこかの場所において想定された具体であるから、自体を捉えるためには、自体が自体の観念として生起するための、真なる自体が必要となる。自体は自体であり、自体でない。そうして真なる自体は自体として分別されないため、自体として存在することもないということになる。だがそれは、存在する・存在しないということをも性質として超えたところに真なる自体が有る、ということでもある。何でもなく、かつ何にでもなり得る一つの自体が無限に要請される。――自体を存在者と見做す場合。
ある物は時に有り、時に無い。またある時にはある姿をしており、別の時には違った姿をしている。現れは時により変わる。そして時を超えて変わらない物は無い。全ては新たに生じている。持続が有るように思うのは、ただ一瞬間においてそれぞれのものが自分の過去、経歴を主張しながら現れるからで、瞬間を超えているからではない。全てのものは、現に別々に現れる。その別々さを裏から取りまとめているような同一性は、それ自体が一つの観念であり、別々に有る。生起には外も裏も無い。同一は現に無い。別々なら、別々である。もし本当に同一が有ったら、それは分けようがない一個として有るのであって、やはりそこにも同一はない。
それぞれのものが、それぞれの時に、それぞれ現れる。それらは何にもよらずにそれぞれ出る。何かによるとすれば、物は根拠を持つことになる。根拠を持つということは、根拠に動かされるということだ。根拠と帰結は別々だ。だから帰結は根拠に動かされない。
一個の現れは全体の現れである。一つのものは他の全ての関係として有るのであるから。何と関係が有り、何と関係が無いのか、何とどのように関係し、どのように用いられ、扱われるべきであるのか。これが個の内実であり、それを除いて個は無い。全体の関係において一個が有るので、一個を取れば全世界がそこに有る。一個は時間的・空間的繋がりとしての全世界である。と同時に、一個は、瞬間に有る。過去も未来も無いから。今とは端的には、常に変転して止むことの無い動きであるから。そうして動きの極限は瞬間でしか有り得ないから。時間的空間的連続としての一瞬間の現れ、それが一個に集約される。
一個は全体であり、全体に外は無い。個は外から動かされないので、自分の有り方を外から規制されることがない。一個の有り方を外から規制するものはない。だから個は自ら望んでその姿で現れる、そういう意志だということになる。何にでもなれるが、それでしかありえない。意志とはそういうものである。何にでもなれるのだから、その本体は、何であるのでもない。個の本質は空である。空なる自由意志である。
性質を持たない空というものが、生起の外にあるのではない。生起に外などないし、性質を持たない空が、それぞれの個として分別されて有るはずがない。空は具体的に個において、その自由として空なのだ。具体的に有るから、分別されている。分別されて具体的に有るが、自体的に、本質的にそれではないものとして、自由なるものとして、個は空なのである。それ自体それでないからこそ、それであることを意志できる。それが個の自由である。
全ての個がそうである。だからそこには矛盾がある。全ての一個が、一個の全体として瞬間に生起する。意志は一斉に発動している。外から規制されないものが、外から規制されつつ、その外をも自己の内として、個は互いに互いの意志を内包し、関係として現われつつ全体の関係を成す。
それぞれがそれぞれに瞬間に現れ、場所を占める。その自発性が、個の自体である。物は瞬間を超えないが、超えたものとして自己主張する。同一はないが、再会は有り得る。一つのものに、姿を変えて再会し得る。その再現を再現として成り立たせるのが、一つの意志だ。根拠としての意志でなく、物それ自体としての意志。だから無根拠な意志で、自由な意志。
意志はその都度の個の意志であって、生起の外にある、同一を保った個の意志ではない。そのように同一を保つ個は存在しないから。また予め意志というものが有って、それが瞬間に現象するのではない。潜在してはいるが現象していない意志、という観念は不可能である。意志は瞬間から瞬間への意志であるのでもない。瞬間は断絶しているのであるから。だから意志は瞬間において個が現れ出ることそれ自体であり、物でなく、働きである。
――自体を働きと見做す場合。
絶対の自由、他によらず、他を参照せず、純粋に自ら発する自由は、無からの自由であり、空的自由であり、内実が無く、偶然と区別できない。
自由が自由であるためには、自由を束縛する理由が要る。無制約の自由は自由でない。
絶対的自由は未だ抽象的自由に過ぎない。具体的自由即不自由こそ真に現実的自由である。
無常からは何も帰結しない。帰結がまた無常であるため、帰結にならない。
無常において全ては偽であり、偽もまた偽である故に、真が有り得る。
無常において真も偽も無い。また真も偽も無いということも無い。
無常において真偽は空である。
自分の行為に対し自分で責任を取る必要はない。自分で取るまでもない。いずれ必ず、相応しい形で取らされる。
好きにすればよい。好きにした結果辿り着いた所で、また好きにすればよい。
意志は常に全体への意志である。何かを意志するが、別の何かは意志しない、ということはあり得ない。そのような選り分け自体、全体を意志することにおいて初めて可能となるから。
世界というものがまず有って、そこに世界を知覚するものが生まれて来るのではない。知覚するものが生まれて来る前に、世界など存在しようが無い。
世界を知覚するものがまず有って、そこに世界が内容として生じて来るのでもない。内容が生じる前に、内容を知覚するものだけが有ることは無い。
空である場所がまず有って、そこに世界が流れ込んで来るのでもない。場所は何かを置く場所であって、空である場所はあり得ない。
世界と、世界を知覚するものとは同時に無ければならない。
世界という外界が有り、そこに同時に知覚するものの内界が有る。
外界と内界とは一つの現れにおいて分別されて有る。
知覚するものにおいては内界だけが現実に知覚されるのであるから、内界はそのまま外界である。世界の内に有ることは、世界が外に有ることである。
内界がそのまま外界なのであるから、全てが外界に有ると見做すことができる。外界だけ、知覚だけが有って、外界の中に知覚者の観念は有れど、現実に知覚者はいない。
内界がそのまま外界なのであるから、全てが内界に有ると見做すことができる。内界だけ、知覚だけが有って、内界の中に知覚者を離れた外的実在の観念は有れど、現実に外的実在は無い。
全ては分別されて有る。
分別されたものは外部を持つ。
世界とはXに他ならない、と規定した瞬間、そのX以外の何かの存在を認めたこととなる。
各個に内は無い。
個の内は個の外である。
全ての関係は互いに異なる個と個の外的関係である。
道徳的命題が証明可能かどうかは疑わしいし、証明できたとしても、そこから即座に行為は帰結しない。証明済みの道徳を、無視することは常に可能である。道徳を実体とするためには単にその行為/非行為が理性的に要求されるだけでなく、現実的物理的にその行為をせざるを得なく/することをできなく、することが必要となる。要するに道徳を現実に完成するには権力が必須となる。
「権利を主張するには義務を果たさねばならない」対「権利は条件に左右されない生得のものであって、義務とは関係ない」。
1.義務の側から権利を見る場合。そもそも義務は人間に自然的に備わっているものではない。義務が生じるのは、義務を果たさないと不具合が起こる時だけだ。特別脅されない限り、義務という概念は生じない。義務は「課す・課される」ものである。自分で自分に課す場合もあるし、他人に課す場合もある。誰かに義務を課したければ、脅しをかけるしかない。その脅しに使われる概念が、義務から見た権利なのだ。それで、「義務を果たさないと、権利を失うことになるぞ(お前の権利を失わせてやるぞ)」という話になる。これを言い換えれば、「権利を持っているのは、義務を果たしているからだ」ということが成り立つ。
2.権利の側から義務を見る場合。一方、権利は義務に比べて人間にとっては自然的なことだ。自分が何かを「してよい」ということは誰にでも基本的に備わっている感覚だろう。実際何かする時には、してもよいからそうするのだ。外的な理由や内的な衝迫から「せねばならない」状態は、これに比べて不自然だ。だから、権利の側から義務を見た場合、義務は単に権利を脅かすものにしか見えない。「せねばならない」はその反対をしてはならないということであって、権利の制限だ。ただ権利から見ればそんな必然は無い。権利からすれば義務など知ったことではない。権利は義務に関係せずある。
要するに、権利を常に人質にしないと義務の概念が成り立たないのと対照的に、権利からすれば義務の概念は不要なので、この点から権利に対する認識の齟齬が生じる。
自己が苦を感じるのと同様に、他者もまた苦を感じているのか?――
まず、「自己が苦を感じる」ことはない。自己は感受の主語ではない。自己なるものが有り、その内的世界が有り、そこにおいて苦が感受される、という風にはなっていない。自己にも他者にも内部など無い。よって「他者が苦を感じる」こともない。
感受は誰のものでもない。一つの、単に有る知覚である。誰のものでもない知覚において苦が生じることにより、そこに初めて、苦に対するものとして、知覚の一部分として、自己が生じる。
よって正しい問いは、「苦が生じることにより自己が生じるのと同じく、苦が生じることにより他者が生じるのか?」となる。これは全く肯定される。苦が生じるから、そこに自己が生じ、同時に自己と分別され、関係する他者もまた生じる。同時である。順序は無い。
あるいはまた問いを次のようにも解釈できる。「このように苦が生じこのように自己が生じるのと同じく、別様に苦が生じ、今現に他者と呼ばれる知覚が、今度は自己となる、そういう事態はあり得るか?」これには一応、あり得ると答える。ただし自己はその都度の自己でありその都度の自己同一を表現するものであるから、それは自己が別種の自己に変容した、という風には体験されない。自己が他者となり他者が自己となろうとも、やはりそれは現にその都度の自己であり、他者である。その意味で別様の自己が生じることは、あり得ないとも言える。
ただ、現にあるのとは別様の苦のあり方が、観念として世界内に有ることは可能である。世界内の局所における感受もまた、観念としては可能である。現にある苦・世界を「自己の知覚」と解釈することは可能である。何しろ、他ならぬこの自己が正に対処しているものこそ、現実の苦なのであるから。それでも、自己は世界の一部であって、全体を感じたり表象したりするものではないのであるが。そのような感受や表象の概念もまた世界の一部に過ぎない。ともあれ、同じ操作により別様にある苦・世界を「他者の知覚」と呼ぶこともまた可能である。
その都度認識された関係は、その都度直接真理であり、その通りに実在する。よって「自己が『自己の知覚』において苦を感じるのと同様、他者もまた『他者の知覚』において苦を感じる」という事態も、その都度現実として成り立ち得る、ということとなる。自己の内や他者の内とはそのような観念が現に形を成す限り可能である。
現に有る思考内容の他に、思考する作用は無い。
現に分別されて有る個の他に、個を分別する作用は無い。
無常は全空間の動であり、何処からも来ず、何処へも去らない。
主観は主観として認識されねば主観でないが、しかし認識された主観は主観でない。主観の概念には矛盾が有る。
自分が自分を動かすということは、動かすことに応じて感覚が返ってくる限り成り立つ。身体を動かす時、自分で動かす筋肉の感覚や空気に触れる皮膚の感覚、動かそうという意志的な緊張の感覚、そして実際に動く身体や風景を見るという感覚、等が無ければ、そこに自分の動きが有るとは分からないはずである。というより、そもそもそのような感覚の集合が、自分の動きであり意志である。自分の動きに対し他者の感応がなければ自分の動きはない。ただし、自分が動かす時に生じる他者としての感覚もまた、自分が求めるものとして、自分の意志の内に含まれている。例えば私は椅子から立ち上がる時、「いつも通りの立ち上がる感覚」を求めてそれを生起させようとしている。また、初めてある動作を実行する時も、「大体こんな感覚が生じるかな」というのを予め想定しておいて、準備をしてから行為に移る。感覚は自己の一部として意志されている。
寿命が無限であれば、直面した出来事にその都度そのまま全精力を注ぎ込めるだろうが、実際には寿命には限りがあり、生きている間にやれることには限界があり、リソース配分を考えねばならず、選択すること、回避すること、温存すること等々が必須となる。人生における焦燥や空虚さは、死が存在すること、時間が限られていることの、この根本的なケチ臭さに由来している。
現に有る世界は、自己がそこに現におり、苦に対処している世界である。その意味で、この世界を自己の世界と呼べることに疑いは無い。
ただしそのことは、この世界が「自己の表象する、自己だけの」世界であることを意味しない。
確かに自己は世界を表象している。現に自己は自己として動き、苦に対処し、有るべき状況を実現させようとし、世界に関わっている。この関わることにおいて、自己は自己をここに存在させる。それが、自己が世界を表象するということの意味である。
だが自己が世界を表象すると同時に、他者もまた世界を表象している。それは同じ場所、同じ世界、同じ存在において行われることである。世界は全てが有る場であり、全てが有る場は一つでしか有り得ないのであるから。
自己は他者に対し自己である。自己が自己を世界に表すのと同じく、他者はまた自己に制約されない仕方で、世界に他者を表している。それは、自己の有るこの世界とは別に、「他者の表象する、他者だけの」世界が認識されて有るということではない。一つの表象において自己が自己を表象し、他者が他者を表象するのだ。
自己の主観における世界が現に有る世界であり、それと同じような他者の主観における世界が何処か別のところに有って、そこに自己と同じように他者が存在する、ということではない。自己の主観も他者の主観も、観念として、この同一の世界内に表象される他ない。
他者は他者により他者として世界内に表象されるのだ。自己が他者を表象するのではない。自己が表象できるのは自己だけなのだ。言い換えれば、自己が動かせるのは自己だけなのだ。
ここが真に「自己の表象する、自己だけの」世界であったなら、全てが自己の思い通りに動かねばおかしいはずではないか。そして全てが自己であるなら、自己もまたそこにいないはずなのだ。自己は他者と区別されてのみ自己であるのだから。
現に私の認識する世界があり、それとは別に他人の認識する世界があり、両者は架橋不可能である……というこの観点を私は問題としない。重要な対立はそこではない。認識ではなく意志が、認識の架橋の不可能性ではなく、現に意志の相互が関わり合っているということが、そしてそこに苦痛が生じていることが、唯一の問題である。
美の定義……それこそが実在であり、他は仮象であると思わせるもの。
「どうせ死ぬのだから、どう生きても同じだ」というのはその通りなのだが、では具体的には何時死ぬのか?という問題は残る。今すぐ死なないのであれば、今しばらくは生きて頑張らねばならないのであって、より良く過ごす工夫や戦略は必要となるだろう。死の確実さは、むしろ生を確実なものとしない。
私は本来純粋な認識主観であり、私の人生の内容はスクリーンに映じた幻のようなもので、本来の私(私の本体)には何の影響も齎さない、という見解がある。これは人生の内容とそれが生じる場所を切り離せるという発想の元主張されるのだが、その切り離しは死を根拠としている。死ぬということにおいて人生の内容は失われるが、内容が映じていた場所はそれに影響されないという訳である。もし命が永遠であったら、スクリーンに何も写っていない状態などあり得ないのだから、この発想は生じ得ない。眠っても夢を見る、気絶してもまた目覚める、死んでもまた生まれる……というのでは、本体も何もあったものではないだろう。その都度感じられたことがそのまま本体で、それがそのまま続いていくこととなってしまう。
純粋な認識主観という見解は、人生のさまざまな苦しみに対し「でもそれは私の本体には何の影響もない」と言い聞かせることで対処しようとするものである。だがその本体の観念は死ぬということあってのものであるから、どう見ても後手に回っている。実際に死ぬのが怖いから、「私は死なない」と言い聞かせているのだし、実際に苦しんでおりそれが嫌だから「私は実は苦しんでいない」と言い聞かせている訳である。動機が透けて見える以上、それは真実ではなく恣意であり、認識ではなく願望である。
認識の裏に願望が透けて見えるからといって、その認識が直ちに虚妄だということになるのか?
私は私の意志において私の過去、私の動機、私の存在根拠、因果関係を自ら選択している。と同時に因果関係もまた意志として存在を主張し、私に関わり、私にそれを想定させる。私が意志であると同時に因果もまた意志である。因果関係が私の意志を形成するのではないし、私の意志が因果関係を選択するのでもない。一方向的関係など無い。
意志は原因に対し自由に応答する。それはその原因に対する結果としての応答である。だから原因が結果としてその意志を成す(正にその原因があったからこそ意志はそのように意志したのだから)と言えばそれは正しいし、意志が自ら結果を成す(正に意志がそのように意志したからこそその結果があるのだから)と言ってもそれは正しい。つまり事を意志がなしたのか、因果がなしたのかは区別できず、因果と意志は対立しない。因果が全てを動かしていると言えばそれはそれで正しく、意志が全てを動かしていると言えばそれはそれで正しい。
主観は客観としてのみ有る。全ては客観である。主観は存在しない。故にまた客観も存在しない。
突き詰めれば全ては偶然であるのに、なぜ世界はこんなにも秩序立っているのか。秩序立っていること自体も偶然にそうであるのか。あるいは秩序立っているという認識の方こそ錯誤であるのか。
私は独我論者ではない。独我論は、自己と他者を認識において、主観として対立させる。独我論において他者は仮象に過ぎない。だが私が思うに、他者は何より現実的苦であり、真理である。
世界が向こう側に有り、私がこちら側にいる、のではない。向こう側もこちら側も世界の一部に過ぎないのだから。
世界を認識するための場は世界と別に有りはしない。世界を動かすための場も同様。
知覚はただ有る。「知覚する」という動詞は誤りだ。知覚が有るのだ。知覚するものや、知覚させるものが有るのではない。
起こることは起こる通りに起こり起こらぬ通りに起こらず。これが最も空疎にして最も完全な真理である。
因果応報は実在するが、それは世界がそういう構造になっているからではなく、人々がそうしたがるからだ。
怪物の腹の中にいるように、他者の内にいる。
個は状況に有って個である。故に個の内実は関係であり、多様である。単純な個・純粋な個というのは、雑多な状況にあってその雑多さを捨象して、つまり雑多に対する純粋として、雑多に対する関係として、立てられるに過ぎない。純粋は雑多の否定でしかない。だから純粋は雑多である。
神はあなたのことを見てくださっていますよ。いや、別にあなたの努力を見ているとか、行状を見ているということではなく、単にあなたを見ています。そして全てを、あなたが次に何をするかも含めて、全てが正しく相応しくあるように取り計らってくれています。あなたの行状に相応しくなるように、ではありません。それは道徳の因果です。しかし神は因果を成すものとして因果を超えています。あなたの行状に相応しい運命が与えられるのではなく、むしろあなた自身に相応しい行状が、神により与えられるのです。むしろそれが、あなたがあなたであるということであるのです。