日々悩みは尽きず、一つ山を越えれば次の山が現れ、生きることそれ自体に嫌気がさしてきているのは、何も最近に限ったことではない。問題の解決は新たな問題を生むだけだ。しかし解決しない訳にも行かない。
いずれ死ぬ。精々今を味わうことだ。それは死からの逃避ではないか? 逃避した先に何があるのか。――やはり死ぬ。だが未来を悲観することこそ、今を生きることからの逃避ではないか? では逃避しなければどうなるのか。――やはり死ぬ。
いずれ死ぬ。今は生きている。生きて何をするのか? 快楽を求め、苦痛を避ける。そしてどうなるのか。――いずれ死ぬ。
死ぬから虚しいのか。では死ななければ虚しくないのか?
世界の真理が明らかになったとして、それでどうするのか?
結局のところ、現に有る通りに有るしかないのではないか?
なるようにしかならないし、なってしまえば大したことはない。
どうにでもなるし、どうにもならない。
「知っている」と思うな、「信じている」と思え。
知ることはできずとも信じることはでき、信じられずとも考えることはでき、考えられずとも存在することはできる。
哲学で何が分かるということも無いが、哲学以外で何が分かるということも無い。
問いに答えるのは良い。問わずに答えるのはなお良い。
何物も自分の物と思うな。それらにはそれらの都合がある。
言葉に深いも浅いもあるか。ただそう思ったのだ。
生きているだけで、何かが減っていく。減るのは勝手に減る。増やすのには苦労する。壊すのは容易いが、直すのは難しい。肉体は確実に死へと崩壊し、食い止める術は無い。死んでいくこと、減っていくことにより苦痛が生じる。苦痛を解消するために、欲求が生じる。苦痛は止まらない。欲求は止まらない。だから苦労も止まらない。欲求を処理して満足しても、それは減ったものを元に戻しただけ。元を越えて増やしたとしても、いずれは全て無くなる定め。総じて無意味、空虚なだけ。でもその空虚な過程をやらざるを得ない現実。積み上げたものは崩れ落ち、妄想しては幻滅し、目覚めたとしてもそれは夢、終着点は決まっている。
世界とは、存在とは、生とは、私とは、何か? もしここが全く無苦痛の世界だったら、そんな問いは不要だったし、思いつきもしなかっただろう。そもそも生きることは、苦痛に対処することである。
完全に無苦痛の世界を仮定する。それは果たして世界たりうるだろうか? 苦痛が発生しないのなら、私はどこに注意を向ければいいのだろう。ものを識別する必要もない。思考も行為も必要ない。つまり世界が必要ない。然るに世界は存在している。だから、世界は苦痛を原初に持つ、と言うことができる。世界の前提は苦痛である。
苦痛と共にある世界、苦痛によって形成された世界においてこそ問いが生じる。これは一体何なのか? 何故こんなことになったのか? 「何」とは本質の問いである。「何故」とは根拠の問いである。どちらにも所詮、答えられない。
本質は、本質規定者との関わりによってのみ本質なのだ。世界とは何であるか?――現に私がそうであると思ったようなものである。単に私がそう思っただけだ。世界が本質的に何であるかなど、誰に答えられるのか?
また私はいつでも同じ私である訳ではない。時と場合により認識は変わる。世界に不変の本質があるなら、それは時間を超えて、現実の出来事の外から、与えられたものでなければならない。しかし私は世界内にいるのだ。
認識する者の数だけ本質もある。認識者が一人だとしても、なお時間的に分裂する。「ただ一つの本質」は存在しない。世界は多義的であり、本質は時間的にも、空間的にも離散的である。
時間的・空間的に複数の存在者が同じ本質を見ることはあり得ない。見る者が違えば、見られたものも違うのだ。
本質は根拠の一種である。事物が正にそのものとして、そのように働くために必要な何かである。事物は関わりによって生じる。その関わりの各項が、その事物の根拠である。そして関わりが成り立つ正にその時、その現在において働き、関わりの在り方を規定するある種の力が本質である、と考えられる。本質は内的根拠である。
根拠の存在は後付けの説明にしかならない。
まず特定の状況がある。それからその状況を生み出すに至るまでの過程、状況を成立させるのに必要な要素を想起、或いは考案する。事物には直接出会われる。しかし事物の根拠は、事物に関する思考を通して間接的にしか与えられない。
生起の根拠は生起に遅れてくる。それが成立した後でのみ、それが生じた原因・根拠・理由が分かる。
いつでも「ここにいること」「このようにいること」から話が始まり、その後、絶対的な遅れと共に「何故ここにいるのか」「何故このようにいるのか」が問われるのだから、「ここにいること」「このようにいること」の原因は、真実には説明できない。生起の理由を、生起する前に問うことはできない。だから理由は無い。とにかくこうなっている。以上、問いは先に進まない。
理由を答えられたとしても、その理由の理由を答えねばならない。これは無限に続くので、遂に理由は答えられない。
何かを知るということは、それをそういうものとして受け容れるということである。知られたもの、理解されたものはその性質を固定され、世界に正しく位置付けられる。
苦痛を知ることは、苦痛の正当化に繋がる。本質への問い、根拠への問いを通して、苦痛が生じざるを得ない必然性を探っている。苦痛をあるがままの真の現実として肯定するため、そうすることで却って苦痛を逃れるためである。
苦痛を克服しようとする具体的努力は常に実践されている。それが即ち生である。そしてその努力そのものが、また一個の苦痛なのである。生じてくる苦に対処する戦い自体が。ここに、偶発的に生じてくる個々の苦痛とは異なった、より根底的な苦痛の存在が示されている。個々の苦痛への対処のみでは不足する。個別でない苦痛とは、普遍的苦痛である。普遍的苦痛は世界の根拠である。と同時に、世界があってこそ苦痛も生じてくる。だから世界を知らねばならないのである。普遍の観点に立って自己を救うためである。
その都度の瞬間は、その都度の本質を語る。唯一の本質が有るのではない。瞬間は連なってこそ瞬間であるから。その都度の本質があり、その都度の探求があり、理由がある。その関係性の全体については、もはや理由が無い。或る理由の羅列、因果の系列が存在するということそれ自体については、もはや理由が無い。根拠の無い本質、原因の無い原因を現に生きている。ただこうしているだけなのだ。
苦痛から問いが生じ哲学が始まるというのは誤解であり得る。哲学の根拠に苦痛はないかもしれない。それは哲学が現に始まった後に、その哲学自身によって呼び出された根拠に過ぎない。とにかく哲学は始まってしまっていたのだ。
苦痛を引き起こす根底は無い。苦痛には何の根拠も無い。意味も無い。それを問いただし、解明しようとすることの方こそ倒錯であり、更なる苦痛の元となる。無いものを追い求めているのであるから。ただ実践が残る。苦痛は根底的に解決されるべきものではなく、日常的な範疇でその都度対処し、向き合っていくべきものとなる。
哲学とは何か。迂路を見渡すことである。結局始点に戻りつつ、しかし以前より「深く」物事を見ること。深く見つつ、浅く振舞うしかないと知ること。この一連の運動そのもの。
「哲学は何のためにあるか」などと問うのは、「時間や空間は何のためにあるか」などと問うようなものだ。
快楽は苦痛の裏返しに過ぎない。快楽は、「そこから離れると苦痛だ」ということ、「そこに向かわねば苦痛だ」ということを示す。快楽を求めねばならないのは苦痛であり、快楽から離れねばならないのも苦痛である。
現れたものに対処するのが意志である。対処の最も原初的形式は、「そうしないと苦痛だから、そうする」ということである。意志は苦痛に対する反応に過ぎない。
何かが与えられる。適切に対処しないと苦が生じるから、対処する。この繰り返し。
散らかったものを片付けているだけだ。しかも散らかしたのは私ではない。
不足が生じたので、それを埋め合わせる。また不足が生じたので、それを埋め合わせる。
現れたものに対して反応するのだから、その現れたものによって、意志は制約されている。完全に自由な意志は無い。
苦しむ所に意志がある。意志は二次的であり、対処的であり、自発ではなく、引きずり回される。
世界の全てが思い通りに動き、望んだことが全てそのまま実現する場合、世界の動きと私の動きは一致し、私は私がここにいることに気付けない。
私がここにいるということは、既に世界と私がずれていること、思い通りにならないものがあること、苦を感じていることを示している。
完全に自由な意志は、何かに反応するのではなく、全く自ら全てを創造する。全てを自ら創造するところには、自己に対する抵抗が無い。抵抗が無ければ自己は無く、自己が無ければ意志も無い。よって完全に自由な意志は無い。
自分の願望と、現に有る物事とのずれが苦を生じさせる。否、苦とは正にこのずれそのものである。だから起こることを全てそのままに受け入れ、臆することなく事物の内に分け入り関わることができれば、苦は生じない。苦は現象の根底に有るものではなく、主体の或る兆候を指示するに過ぎない。――しかしこの解釈こそ、「そのように振る舞わねば苦が生じる」からこそ成り立つものである。苦を前提とした上で、そこから逃れるのだ。苦は何時でも、主体が落ちてくるのを待っている。
私の存在は苦により自覚される。他者は苦をもたらすものとして有る。意志に抵抗をもたらすものは、意志である。私が進もうとすることを阻むのは、私と同じく進もうとする意志である。私は自己の苦痛を通して、他者の意志を知る。
「結局、これは何なのか?」
世界の本質はその都度の規定を超えていなければならない。むしろその都度の規定の意味をこそ規定するものでなければならない。
評価・恣意・相対性から独立してそれ自体で輝く、絶対的な意味こそ世界の本質である。
私の目的は、世界全体の目的に接続されねばならない。
世界の意義は私の苦痛の意義であり、行為の意義、生死の意義でもある。
世界に意義が無ければ、私の存在にも意義は無く、私がすべきことも無い。
生起はただ偶然に生起する。
瞬間は断絶し、現象はただ端的にこのように現れるのみであって、常に推移して本質を持たない。
世界の本質は不変の真理として、生起の推移・瞬間の外になければならない。
しかし世界は常に全体として生じ滅するのであって、その外は存在しない。外の表象もまた世界の内でしか生起しない。
世界内の事物の意味は、世界内に有る関係による。世界そのものは、何とも関係しない。関係は世界内にしかない。
世界内のどのような些事もその根柢を私は知らない。
物理的な意味は無い。意味は心情による。では心情には何の意味があるか。
意味が実感できたとしても、それはただの感覚である。感じられたから何だというのか。
意味を持たせることはできる。だが持たせた意味は意味なのか。
意味を語る者がいたとしても信用に値しない。それは言葉に過ぎない。
幸福は世界の意味たり得ない。その幸福の意味こそ更に求められねばならないから。
仮に真理に指標があり得るとしたら、それは幸福以外にあり得ない。
幸福はその外を排斥する。幸福は自己完結する。幸福は完成である。
世界の意義は、求められるから問題となる。求められない限り問題とならず、存在もしない。幸福な者は世界の意義を求めぬ故に真理に達する。
不幸な者だけが世界に意義を求める。
幸福は真理がそこに有るという気分である。気分は世界を満たす。幸福な世界は真理そのものである。
幸福感が伴わなければ、何かを真理とすることはできない。また真理に到達したとしても、それに気付けないだろう。真理は幸福に依存する。
真理に達したが故に幸福になり、真理を逸したから不幸になるのではない。幸不幸が真理を決める。
真理が幸福をもたらすのではない。幸福であればそれが真理となる。不幸がそれを虚偽とする。虚偽にあってこそ真理は求められる。だが求められているのは幸福なのだ。
或る真理と共に幸福であった者が、後にそれが非真理であったと気付かされ、不幸になる。だが、非真理が不幸をもたらしたのではない。不幸な気分の訪れが、それが非真理であることに気付かせたのだ。
何も問題にしなければ、何も問題にならない。
なるほど、意味はある。では意味があることには、何の意味があるか。
よろしい、無意味である。では無意味であることには、何の意味があるか。
無意味を意味にすり替えてはいかんのだ。例えば、無意味だからこそ「自由」なのだとか、「気楽」なのだとか、これは一つの「遊戯」なのだとか、無意味であることは「自明」だとか、そんなことを問うのは「無駄」だとか。無意味さは、意味を問い続けることによってのみ示される。
生きるために考えるのではない。考えるために生きるのだ。
考えても仕方ないことは、考えないのが良い。しかし考えても仕方ないかどうかは、考えないと分からない。そして考えているうちに、考えずにはいられなくなってくる。
「考えても仕方ないことについて考えても、仕方ないでしょう。」
「考えても仕方ないことについても考えてしまうのだから、仕方ないでしょう。」
一体、仕方なくないことなどあるのか?
全時間を通じた真理を把握するには、現実に全時間を通じて私が存在するしかない。全時間を通じて存在するには、過去と現在と未来に同時に存在するしかない。過去も未来も現実に存在しないため、それは不可能である。
過去と未来は現在に有ると考えれば、全時間に存在することは可能となる。永遠の真理は現在に有る。だが現在は即座に過去であるから、永遠の真理は常に新たに想起され直されねばならない。常に新たに想起を要するものは、想起の可能性として永遠に有る。ただし、常に新たに生起するものとして、永遠では無い。
世界の創造主は世界創造と共に自己をも創ったか、世界を創る以前から存在したか、どちらかである。
前者の場合、創ったとは言えない。創造主が世界を創ったという事実自体がここで創られたものであるから。
後者の場合、創造主はそのまま自己のみで存在することが不服だったから、世界を創った。つまり世界創造以前に、創造主の苦痛が、即ち創造主にとっての世界が、存在していたことになる。(だから、その創造主の世界をも創った者が、真の創造主ということになる。この過程は無限に続くため、真の創造主には辿り着けない。)
創造主が理由無く(「楽しみのため」とか「退屈凌ぎのため」とかの理由すら無く)世界を創った場合、創造主は自分が何をしているのかすら分からず動いていたはずだ。行為は理由によって意味を持つのだから。創造主は訳も分からないまま世界を創ったことになる。よって自分が何を創ったのかも分からなかったことになる。よって世界を創ったのではないことになる。
世界が理由無く存在しているとしたら、私は何をしているのか。訳も分からず、生きているから生きているだけだ。よって私は何をしていることにもならない。
世界の存在理由が、私の存在理由でもなければならない。
何の実在を疑ったとしても、その疑いを持つ私の存在だけは疑えない。自身への懐疑が遂行される時すら既にそこにいる、懐疑に先行するものが私だからである。
しかしこの理屈が底の底から本当に正しいかどうかは怪しいものだ。何しろ「我あり」といって証明されたその我は、とにかく疑っている我だからだ。疑っている我の存在が証明されたところで、それは証明になっていないのではないか。我は依然その証明を疑っているはずだから。
疑っている私が実在することの証明に成功した、という事実を疑っている私が実在することの証明に成功した、という事実を疑っている私が……と無限に続かねばおかしい。結局我は我に届かず終いなのだ。我ありという真理は証明ではなく、むしろ証明の放棄によって証明されたことになる。だからこそ、私の実在ということは幾度となく言い直されねばならず、その度ごとに改めて自覚され直す事柄なのである。
私は考える。――考えているのは私なのか?(私ではない何ものかの考えたことが、私に送られてきているだけかもしれないではないか?)
私は考える。――考えるという行為があるからといって、それを可能にするような何か(主体)が必ず存在するとは言えないのではないか?(考えている内容はあっても、考えている主体などどこにどうあるのか? 主体もまた考えられている内容に過ぎないではないか?)
単にある考えが浮かぶだけでは、その考えの主体が私であることは導びかれない。また、「考えの浮かぶ場を私と呼ぶのだ」と言ってみても、考えの発生するための場が、考えの内容から独立に存在するということは疑わしいし、そういう場があったとしてもそれは「私」ではあるまい。ただ単にそういう場があるというだけのことである。
ここにこれがあるという、これだけが確実なのだ。疑いあり、ゆえに疑いあり、とだけ言えばそれが最も確実である。疑いに徹する時確実なのは疑いの存在であり、私の存在ではない。
懐疑は本当に懐疑なのか、と懐疑することはできない。それを懐疑と呼ぶのなら、それは懐疑でしかあり得ない。それは活動であり、在り方である。在るものが本当に在るかどうか疑うことはできるが、在り方まで疑うことはできない。私があって疑いを抱くのではなく、疑いがそのまま私である。さもなくば私は無い。
「考える」は、他の行為に比して重要なものとされやすい。思考はあらゆる存在をそれとして規定するための要であるからだ。思考は他より一段高い行為である。「夢を見ている」という判断も思考、「騙されている」という判断も思考、「歩く」も「食べる」も思考である。思考によって規定されねばあらゆる行為は無効であるからこそ、思考は行為の根源である。
では「思考する」という行為をそれとして規定するものは何なのか。それも思考だということになるのだろうか。思考は自己原因だろうか? しかしそうであるなら、思考というのは終には無根拠だということになる。当然「私」が思考の根拠であるのでもない。「私」がここに存在するということすら思考によって可能となるのであるから。
思考が規定することで、あらゆるものは存在できる。存在は思考により基礎づけられる。しかし思考自身は基礎づけられていない。それは突如として有る。だとすると、思考により規定されるものもまた、突如としてそのように有る、としか言えない。そして突如としてそのように有るものは、そもそも思考されて有るものではないだろう。それは「思考によって成立したもの」として、思考以前にそれ自体で有るのだ。
だとすると、「思考があらゆる存在を規定する」という命題は誤りだということになる。有るものは思考によらず、単にそれである。我もそれとして我であり、汝もそれとして汝である。
それはそれとしてそれである、故にそれあり。
「私は考える、故に私は有る」。
「私は考える」は有る、故に私は考える。「私は有る」は有る、故に私は有る。
「私は考える、故に私は有る」は有る、故に私は考える、故に私は有る。
行為が成立するためには、行為の認識が必要である。全ての行為は自覚された行為である。即ち、知的な、思考された行為である。他の現象から切り離されることでそれとして規定され、自覚と共に行われるのでなければ行為とは呼べない。
私の身体を私が動かしているとしたら、それは私の意志である。
私の身体の動きが感覚の集合であるとしたら、それは諸感覚の意志である。
世界が私の夢だとしても、現に私はその夢の中で、私の現実に対処している。ただ世界が私の夢だとしたら、私以外の全てのものをも、私の無意識が作り出していることになる。私の恐怖も不安も憎悪も、全て私の無意識の願望ということになる。一人芝居なのか。自業自得なのか。何故私はわざわざこんなものを?
存在するということは、それが何らかの機能をもって直観ないし思考に現れてくることである。一切の機能・作用を持たないものは、認識されず、存在もしない。
世界の全体は作用の全体である。作用の全体は影響関係の全体である。
世界は作用の全体だが、物理作用の全体ではない。
影響関係は物の関係ではなく、概念の関係である。物理的関係は既に概念的関係である。概念によってのみ、物理的関係はそれとして理解可能となる。
概念的関係の背後に、成立根拠として何らかの物理的作用を想定したとしても、その想定自体、概念を経由しなければ理解できないことである。
全ての事物が何かに作用し、繋がっている。世界は一つである。
世界は物理現象として一つである前に、概念が並列し、関係することを可能とする場として一つである。
全宇宙は、隣り合った部分相互の物理的関係の総体として、一つであると考えることができる。しかし実際に全宇宙を隅々まで隈なく点検して、全部分の相互の繋がりを確かめるという訳には行かない。
全てが一つであるその場は、現にここにある。
「宇宙の全ては互いに繋がっており、全てのものは一つに結ばれている」。不味い言い方だ。こんなことを言うなら、全宇宙の隅から隅まで、万物が互いに繋がっていることを、くまなく点検しなければならなくなるではないか。
私は世界内の全体作用の中にいて、一端を担っている。
過去は無数の事物の集積である。その中から特定の事物のみが抽出され、原因とされる。だが原因は無数に連なるため、本来見渡すことができない。
遠くのものは小さく、近くのものは大きく見える。しかしそのもの自体の大きさは恒常的に変わらない。見え方は表象にすぎず、実体は固定されている。この固定されたものが、真理の素朴な原型である。
真理はそれ自体としてあり、誰に対しても等しく現れるか、或いは現れ方が違ったとしても、そこに唯一の本質がなければならない、そういうものである。
善の現れ方は多々あれど、善そのものは一つでなければならない。
世界は様々な存在者に対し様々に現れるが、その本質構造は一つでなければならない。
私たち二人がいて、私からは彼が見えるが、彼からは私が見える。しかし我々は同じ一つの世界にいる。両者の間にものがある。見る角度が違っているから、見え方も異なっている。しかし同じものを見ているはずである。
ある物が実在なのか、それともただの幻なのかは、私一人では判断できない。
誰にとっても同じものが真理である。だから真理が真理であるためには、他者からの承認が必要となる。
私が一人で勝手に主張する言葉、他者からして誤った言葉、説得力のない言葉は真理たりえない。
真理は公共のものである。
真理の条件は説得であり、共有である。
誰からも承認されずとも、実存的に掴み取られる真理がある。それは妄想と区別がつかない。
妄想と真実を区別しようと思えば、その基準は公共性にしかない。
完全な真理とは、全ての存在者が承認する真理である。しかし全ての存在者が本当に全てであるかどうかは不明であるため、完全な真理もまた導かれることはない。
真理は或る集団にとっての真理である。
「真理である」ということは、「説得が成功した」ということに過ぎない。
今だけが存在する。全ては「常にこの瞬間に」存在する。事物は動くが、事物の有る場は動かない――いや、場も確かに動いてはいる。場に映じる内容が動く限り、場もまた動いている。内容から場だけを切り離すことはできないからだ。生起は全一的であり、事物も、事物が生じる場も、その都度の全体として滅しまた生じている。流れるものと、流れの見える場所を分別するから両者がある。流れる事物を窓から眺めている訳ではない。――さりとて只管流されるばかりでもない。流されたところが同じ場所なのだ。彼方へ流されたと思えば、同じ場所にいる。何処まで行っても同じ場所、絶対の此処にいる。時は去りつつ回帰する。これもまた「去る」ことと「回帰する」ことを分別するからそうなるのであって、現に有るのは両者以前の、ただ只管な即今当処である。そのように自覚される度毎に。
今に落ち着き、今に動かねばならない。
現に有る今、現に有る。ここで何をするかだ。何をするでも無い。これをするのだ。これをしている。しているのが私だ。落ち着いているなら、それが私だ、それで良い。動じるなら、それも私だ、落ち着け。
前も後も無い。何が起きたということも無い。起きるだろうということも無い。次にどうするか考えるな。現に有る通りに自ら成れ。有るべきところのものに成れ。集中して対処せよ。放っておくな。しかし測るな、計算するな。いや、計算しようがしまいが、来たところに応じるしか無い。それもやはり今だ。どうなってもそれは同じだ。逃すな。捕まえておけ。
過去を思うことは過去に動くことだ。未来を思うことは未来に動くことだ。動けない。だから過去・未来は散乱、濫費だ。気が散る。力が散る。動けないところに動こうとするには無理がある。無理をやるから力が削がれる。力が削がれて、遂に今にも動けなくなる。時が死ぬ。後は流されて行くだけだ。それは死体だ。私は死体では無い。
別様に有ろうとするな。他を、外を求めるな。理想を抱くな。先を読むな。後のことは、後の私がどうにかするだろう。
今やらねば、後で困るか? そう思うならやればよい。だが今やったから、後で困るかも知れん。どちらにせよ、出たところで勝負するしかない。
動揺や不安は時と場合により生じる。だからそれらを克服するには、時と場合を超えたものに落ち着き、どっしりと構えていなければならん。それが今だ。何処まで行っても同じだ。だから何処まで行っても、同じようにやることだ。
ただこの「何処まで行っても」を間延びした形で捉えると、倦怠、懈怠、退屈、空漠が生じてくるのだ。不足が生じる。それを埋める。また不足する。また埋める。この繰り返しだ。何の意味が有るか。しかし不足を満たそうとするその動きにこそ、積極的なものがあると見なければならん。それが働くのは何時なのか。即今である。何時でも今なのだ。繰り返しなど無いのだ。ただ今どうするかだ。今こうしているところに全てが有る。自余のことはどうでもよいし、実のところ、どう有るのでも無いのだ。
何か一つしくじれば、次もしくじるだろう。そうして何処までもしくじり続けて、終には潰れてしまうだろう。そういう不安がある。だが「終」とは何時か。潰れるのは何時なのか。潰れたらどうなるのか。死ぬのか。死んだらどうなるのか。死んだ処に何が有るか? やはり今なのだ。死ななくても今、死んでも今だ。同じようにやればよいのだ。何も変わらん。
「こう動けば、こう返ってくる」というのがあるだろう。私の動きは私だけの動きではない。必ず返ってくるものが有る。動いて、返ってきて、また動く、これが活動だ。これが今だ。何をしようと一つの今だ。何が返って来ようとまた一つの今だ。その働きそのものを見よ。
現に私は世界や他者と関わっている。こちらが動けば向こうも動く。押せば退かれることも有り、退けば押されることも有り、双方押し合うことも有り、退き合うことも有る。それが現にしている活動だ。そこを抑えておかねばならん。何をしようがしまいが、その通りのことが返って来る。善悪の話ではない。事実の話だ。何かすれば、何かが起きる。当たり前だが重要だ。やっているのが自己なのだ。
試みに一歩踏み出してみよ。何が起きるか。それは分からん。だが起きることはその一歩に応じたものであるはずだ。だからその応じてくるものに、また一歩応じてやればよい。それなのだ。それだけだ。自己が有るということはその交渉のことを言うのだ。
「だから全ては自己に懸かっている」。確かにそうだ。だが自己に懸かっていることは、他者にも懸かっている。自分さえしっかりしていれば、全て上手く行くなどと考えるなよ。それは真理の半面だ。全てを上手く打ち返せるのが達人だ。それは理想だ。打ち返せないものが出てきたらどうする? 打ち返さないことだ。擲つことだ。苦痛を覚悟することだ。祈ることだ。
それだけだが、これもまた真理の半面に過ぎぬことも忘れるな。簡単に諦めてはならん。良く発せよ。一つ発することを一つの試行と見よ。応答の連鎖を自ら作り成せ。だが決して何か重大事がそこに懸かっているなどと考えるな。単に一つの試行と思え。上手く行けば上手く行き、上手く行かねば上手く行かん。それぞれの結果にまた応じるだけだ。それを淡々と繰り返すこと。
「かもしれない」と言っておけば間違いはない。――誠実だが、退屈だ。
真理を語るなら、嘘つきを名乗らねば。
未だ破られぬ妄想を真理という。
そう思うならそうなんだろう。信じれば真実だ。信じ切れれば。
世界には表面しか無い。発見された深層は新たな表面となるから。
全てが真理であるから、思い煩う必要はない。同時に全ては疑わしいので、思い詰める必要はない。
何かが存在するのは自明だが、何が存在するかは自明でない。とにかく何かが存在してはいるが、それが何かは分からない。これが哲学的困惑である。誠実であろうとするなら、哲学はその初めから終りまで、困惑であるべきだ。言わば哲学は、始まってはならない。
所与の何かを自明と見なすことから哲学は始まる。困惑は徐々に解かれ、気晴らしが始まる。困惑は問いとなり、論理となり、謎の解明となってしまう。後はそれらを巡って「探求」を続ければ、立派に哲学が完成するという訳だ。
現に有るような、こういうもの(意志したり、思考したり、苦悩したりするもの)として私が存在していることは不思議だ。世界がこのような構造・歴史・性情を持っていることもまた。
これ以外の在り方を想像しようとしても、それはただ空虚な概念、言葉、非現実としてしか得られない。これも不思議だ。どうしてこうなのか。
もしこういう存在の仕方しかできないとしたらそれはそれで不思議だし、他の存在の仕方もできたのに何故かこれになったのだとしても、やはり不思議だ。なんなのか。
どうせ分からないものについて問うのは気楽だし、楽しい。
私は現に感じられ考えられた通りの世界を描写したいのであり、謎や問題を解きたいのではない。
「いずれ死んでしまうというのに、私はこれでいいのか?」
「いずれ死んでしまうのだから、私はこれでいいのだ。」
いずれ死ぬということからは何も帰結しない。
死ほど分からないものはない。
現に私は死のうとしていない。だから死は悪いものに違いない。もし死が良いものだとしたら、何故今すぐ死なないのか?
今すぐ死なない理由。「まだ生きてすることがあるから」。「死ぬのは痛かったり苦しかったりしそうだから」。「なんとなく怖いから」。……「なんとなく」! これが死を怖れることの最も浅く、かつ最も深い理由ではなかろうか?
そもそも善とは、少なくとも善の特徴の一部は、何かしらそれが「分かる」ことだ。反対に、悪とは何かしら「分からない」ことだ。分かるものには対処できる。分からないものには対処できない。死は分からない。だから怖ろしい。
私は死ぬ。これは大変なことだ。どう大変なのか? それは分からないが、とにかく大変なことだ。むしろ「死が分からない」ということが、大変なことなのだ。死とは何か、死んでどうなるかが全く分からない。全く分からないところに、いつか放り出されることになるのだ。
いずれ死ぬことは分かっている。何時死ぬのか、どう死ぬのかは、死ぬまで分からない。
私が本当に死ぬのかどうかすら、実のところ、死ぬまでは分からない。永遠の命ということを私は想像できる。また、自分が死んだことをどうやって私は確かめるのか。確かめられるのなら、死んでいないではないか。
死ぬとどうなるか。天国や地獄へ行くかもしれず、人間へ生まれ変わるかもしれず、動物へ生まれ変わるかもしれず、同じ生をそのまま繰り返すことになるかもしれず、無になるかもしれない。記憶を失うかもしれず、失わないかもしれない。今の私からは到底理解し得ない次元に行くかもしれず、案外この世界に、同じ記憶と知性を持って(魂として)留まることになるかもしれない。これらすべては可能性に過ぎず、どうなるかは分からない。
分からないというところが、死の恐ろしさの本質である。何か死後の状態を仮定し、それを恐れるというのは派生に過ぎない。
死が恐ろしいのは、死後に無になるからではない。
分からないことは何故恐ろしいか。――分かっていれば対処できる。分かっていないと対処できない。
対処できないと何故恐ろしいか。――酷い目に遭って、為す術がないかもしれない。
問題になっているのは苦痛である。どのような苦痛があるか分からないのが恐ろしい。
案外死んでみれば、そこには苦痛ではなく快楽や幸福があるかもしれない。かもしれないが、やはり、分からない。
分からなかったものが分かるようになるのが、精神的成長というものだ。だから成長は死で止まる。
分かったということと、分かったことにすることとは異なる。
無視するか、分かったことにせざるを得ないのが死というものだ。
この世の苦痛に耐えかねて自殺したら、自殺した先がさらに苦痛に満ちていた、ということは十分にあり得る。
死に対処するということは分からないものに対処することであり、分からないものを分かったものと見做すことである。
死を想っても、何を想ったことになるのか分からない。むしろ死を想うことが、その都度想われた通りに死を規定する。
自殺をするのは、死んだ先に苦痛が無いと思うからである。そのように規定する時、実際にそれは事実となる。
死について考えている暇などない。今すべきことがあるのだ。ということは、死ぬとそれができなくなるということだ。死は現実に行動することの期限として、既に考えられている。
死ぬ前に何かを成し遂げ、後に残さねばならないと考える場合、死は世界そのものの消滅を意味せず、単に私の消滅のみを意味する。世界は私を超えて存在するものとして規定される。
どうせ死ぬからと流れに任せて生きるなら、死を無になることとして規定していることになる。その無はいかなる生をも正当化する。正当化の裏には、「この生はこのままでよいのか?」という不安・疑念がある。
死は分からないものなので無視すればよいという考えは、分からないものへの恐怖から来る。死を無視することでは、死から逃れられてはいない。
生と死を切り離せば、どちらも分からなくなる。現に生き方を選ぶことが、死を知ることである。死を知ることが、生き方を選ぶことである。
死は分からないものだということもまた、分からないものとして死を規定することである。分からないものだから恐れるとすれば、それは死を恐れると共に生をも恐れている。死に対する不可知論は生に対する不可知論であり、生を生き死を死ぬ主体が、自己の生き方を定めていないことに由来する。死が分からないということは決して必然ではない。
死は破滅にも救いにもなる。
死は、幸福な人間には破滅として、不幸な人間には救いとして現れ、生の帳尻を合わせてくれる。だが真に幸福な人間なら幸福に死ぬこともできるだろうし、真に不幸な人間は死ぬ時も不幸だろう。
一般に、不幸な人間ほど死に思いを馳せる。では幸福な人間は死をどう考えるか?
幸福な人間は、「何だかよく分からないが、とにかく乗り越えることは可能な一つの課題」として死を捉える。
死だけではない。幸福な人間においては、万事がそうだ。物事をそのように考えられることは、そのまま幸福の定義だとすら言える。
かつて生きたものは皆死んだ。どのような形であれ、自己の死を立派に死に果せたのだ。であれば私にもできないことがあろうか。
死を無闇に恐れることは怯懦の証であり、恥ずべきことだろう。
実際にやってくる死は、思い描いていたものとはきっと異なるものだろう。まだ死の気配が無い時には、考えてみても空想にしかならない。もう死がすぐそこに来ている時には、考えるまでもないものになっている。
行き止まりは無いし、出口はちゃんと有る。何を恐れることがあるか?
私が無になることは、世界が無になることでなければならない。世界とは感覚され、考えられたものであり、私が何も見ず、聞かず、考えない時、世界は無いからである。
死が分からないと、生も分からない。生が分からないと、死も分からない。
死についてよく考えた人の方が、よく考えない人より死をよく知っているということもない。
私のいない所では、全てが自然に上手く行く。私だけが不自然で、ぎこちない。私だけが現実に選択し、葛藤しているからだ。
私は異物だ。全ては許されているのに、私だけは違う。だから私が死ぬことは、世界が真の自然として、悪の無いものとして完成することである。
他者の死は単に身体の機能停止・崩壊である。その他者の身体が動くところも、その身体が思考し言葉を発するところも知覚できなくなるという点で、他者の死は単にその他者が無に帰することと見てよい。
私の死は私の身体の機能停止・崩壊を意味するが、そこにはなお精神が残される。知覚も思考も無い状態を私は想像できない。そのように無となった状態を思考することはできるが、思考されたそれは概念に過ぎず、現実の体験とは異なる。
意識の無は端的に世界の無としてしか体感されない。無は経験できないので、意識が無になることは無い。
死後の状態は理性的に推論不能である。だから無としか表現しようがないのだ。
因果関係は物理的に働く。死後の体験は、物質としての身体が失われた後のことであるから、因果律を適用できない。
生は不自由なものだ。死は生の反対だ。だから死ねば自由になれる……と考えるのは早計だろう。それは論理ではない。
死んで無になれるなら、これほど良いことも無いだろう。生は所詮、問題解決の連続に過ぎない。問題が無くなるなら、それに越したことはあるまい。
もし死後が無であるなら、死んで解決されない問題はない。
全人類が無苦痛に、突如として死ぬなら、そこには何の問題も無い。それは絶対善である。
死んで困るのは当人ではない。周囲の人間である。
殺人が悪事だとしても、それは殺された当人にとっての悪ではない。
何の罪もない子供を、快楽目的で殺して、死刑になった男がいたとします。殺された子供の冥福を祈るのは当然のことですが、殺した男の冥福も、祈ってはいけないでしょうか? 一人が幸福になるより、二人が幸福になる方が良いのではないでしょうか?
良い人は死んだ人だけだ。
なることのできる無は、無ではない。だから無になることはできない。
死は絶対の未来である。必ず来るが、決して来ない。
死に近づくことには苦痛が伴うため、死は苦痛の極限だと錯覚されやすい。
死によって世界に溶け込み、世界と一つになると考えることができる。固有の意志としての身体は死によって崩壊し、単なる物質と同化する。また固有の領域としての自我は死によって消滅し、自己の内と外との区別は無くなる。
多様な存在は有るが、多様な無は有り得ない。死後に無になるとしたら、無なるものは一つしか無いので、死者は全てそこへ行く。そこで私は、全ての死者と一つとなる。
死後に無にならないとしたら、死者には再会し得る。全て存在するものは、存在することが可能であった。また未来永劫、存在することが可能である。可能性が無くなることは有り得ないから。
死んで無になるなら、死んで何かが失われるということは無い。何かが失われたという事実自体が無になるだろうから。
死んで無になるなら、いつ死んでも同じだろう。どう生きても結果は同じだということになる。いずれ死ぬなら、今死んでもよく、今死ななくてもよい。
いつ死ぬかが問題になるのは、死に生を当てはめて考えるからだ。生においては、何事もタイミング次第で良くも悪くもなることを知っているからだ。いつ死ぬかを気にするのは、死んで無になるとは思っていない証である。
死を恐れることは、無になることを恐れることではない。むしろ死を恐れているのなら、それは死後が無ではないことを前提している。
死とは何か、死後はどうであるかについての完全な理論を構築できたとしても、それは信用に値しない。死を語れる理論は無い。理論の構築も理解も応用も、全て生きている間の出来事であって、生きている間に死をいかに分析し理解することができたとしても、実際に死んだ瞬間にそれらが全て誤謬であったことが明らかになることがあり得るからだ。
死については分かりようがないので、死について考えることが無駄であるかどうかすら、分からない。死が分かるものであるのか、分からないものであるのかということ自体が、分からない。実際に、死について様々に考え、語り、態度を取ることができる。
死ぬ前にはまだ死は無く、死んだ後にはもう死は無く、死そのものは境界でしかないのだから、死の有る時など存在しない。だから死ぬ前も死ぬ前ではないし、死んだ後も死んだ後ではない。
来世が有るかどうかは、来世に記憶を持ち越せるかによる。記憶が持ち越せなければ、来世に行ってもそこが来世と分からない。
前世の記憶が有ったとしても、またその記憶と符合する証拠(記憶通りの場所や人や物)を見つけることができたとしても、なお前世の存在を証明したことにはならない。記憶はどうしても現世で得たものでしかないからだ。
前世での死の記憶があったとしても、次に来る死がそれと同じとは限らない。
死後、全く同じ人生がもう一度始まる可能性があることは否定できない。しかし現に生きているこの人生が、同様に回帰してきたものであることは証明できない。回帰を証明するには、私は前の回帰の記憶を、それも完全な形で持たねばならない。断片的な記憶なら、同じことが起きていることの証明にはならないからだ。ということは、私は私の生の未来に起きることをも完全に知っているのでなければならない。しかし未来のことを知っているのなら、その知っていることによって、却ってその未来を変えることが可能となる。かくして回帰は回帰でなくなる。それは可能性に留まる。
死については仮定するしかない。
死後が無でなく、何かが残るのだとしても、それでも今のこの私の人格は、死と共に失われるだろうという漠然とした確信がある。
この確信がなければ、死を想うこともないだろう。事が上手く運ばず、問題が解決不能と思われるにつれて、死への憧れは強まっていく。
不幸な人間は、万事に乗り越え難いものを見る。八方塞がりの中、まだしも越え易いものとして、死が存在を主張してくる。生と死とが選択肢として、代わる代わる立ち現れる。
その上不幸な人間は、生における問題を一つ乗り越えられたとしても、その先にはまたその次の問題が待っているだけだ、ということをも知っている。その意味でも万事は乗り越え難いのだ。
生は自己を追いかけ、追い詰め、選択を迫ってくる。それに比して死のなんと優しいことか! 死は静かに待つだけだ。そしてその先には何も追ってこない。
全ての苦しみは生の苦しみである。死は人を苦しませない。死を避けることもまた、生がそれを強いるのだ。
死が良いものだと考えることと、自由意志により今すぐ死ぬことができるということとはまた別の問題である。死が良いものだとしても、だからと言って今すぐ死ねるものではない。生きることを選んでいるというよりは、死ぬことを選べないのだ。
現に生きているからといって、生きることを選んでいる訳ではない。ただ生きてしまっているだけである。死もまた同じく、たとえ自殺するとしても、死んでしまうのみであり、死を選んだのではない。
自ら死なない理由をもっともらしく挙げることはできるが、死なないのが本当にその理由によるのかというと怪しいものだ。実際には、単に死にたくないから、死なないだけではないか?
死ぬ理由にしても同じだ。理由があるから死ぬのではなく、単に死ぬしかないだけなのでは?
生の中で何かを手にすることができた者は、死と共にそれが失われることを恐れる。その恐れから、死んでも自分が無になる訳ではないとか、世界が無になる訳ではないとかいう希望的観測を欲するようになる。
死によって全てを失うと覚悟しておいた方が健全だろう。
これからも生き続けるものに、子孫に、社会に、歴史に何かを託すことで、自己もまたその中に生き永らえるという。都合の良い妄想だ。私は死ぬ。そいつらも死ぬ。何も残りはしない。
生の中にも多くの死がある。最後に来る死は単なる象徴のようなものだ。
生きているだけで老いていく。醜くなり、病気になり、身体も知覚も思考も衰える。得意は失意に変わる。終には失意すら無くなる。将来は尽き果てる。
命より大事なものはない。ただしそれは、その「大事なもの」と、命が別ではないからなのだ。その人が大事にしているものが、その人の命なのだ。
全てを失って死ぬ場合、それは死ではあるまい。既に死んでいたのだ。
何も失わずに死ぬ場合、それは恐らく即死であって、死を認識する暇が無い。
実際に感じられる死は、時間をかけて何かを失う過程である。
最も恐ろしいことは、取り返しのつかない過去と、どうにもならない未来に挟まれて絶望することだ。全てが無意味にすらならず、悪しき意味に満たされていることだ。地獄とはそういう場所だろう。
全てが無になるのなら、問題を感じる自己も無いので、何も問題にはならない。
得たものが無意味だったなら、喜んでそれを捨てられる。
得たものを失った上にそれへの執着だけ残るとしたら、それこそ恐ろしい。
満たされない欲求だけが残った存在として、幽霊が表象される。内の恐れは外に投影される。
転生という発想は、生きて存在するものたちの根底的な同質性を前提する。最も不幸なものも、最も醜いものも、私の仲間だ。私はそれらになるかもしれないからだ。
「こうはなりたくないな」と思ったものに実際になってしまうかもしれないことが、未来というものの恐ろしいところだ。未来の極限は死で、死後には何にもなり得る。なってしまうなら仕方ない。問題は現在のその嫌悪にある。
死んで身体が消滅しても、それでその人が無になる訳ではない。
物が壊れても観念は残る。観念の消失は自覚されない。何が無くなったか分からないので、無くなったことにならない。だから観念は無くならない。
忘却は消滅ではなく、再会可能性である。観念は待ち続ける。
死を超えて何かを残すという発想が誤りなのだ。初めから全ては、無か、永遠か、でしかない。どちらにせよ何も得られず、何も失われない。
有るものが無くなることを死と呼ぶなら、私は瞬間毎に死んでいる。瞬間毎に死に、瞬間毎にまた生まれる。瞬間に死ぬことは瞬間に生きることである。生がそのまま死であり、死がそのまま生である。
生まれは選べるものではない。選べるなら既に生まれていたことになるからだ。だから今この瞬間に私がどのようにあるか、私は選んでいない。生きるか死ぬかそれ自体、私は選んでいない。生死に選択の余地は無い。
私はこの世界にこのようなものとして生まれることを選ばなかった。全く同じく、今此処でこのようにしていることをも、選んではいない。
変化一般がその都度の死であるとすれば、死とは何か、また何故死が有るか、等と問うことに意味はなくなる。静止した世界は無に等しいからである。こう考える場合、死は存在の終極ではなく、存在の条件(根拠)である。
苦痛が有るから、その先に死があると認識できる。苦痛を伴わない死は認識されない。苦痛なしに死ぬとしたら、死んだことに気付けない。だから今この瞬間に死が有るとしても、それが死だと気付けない。しかし変化一般を死と呼ぶなら、現に現われる世界は時々刻々変化しているのだから、時々刻々に死は有る。やがて来る死も、現に有る死と根本的に異なるものではない。
死後どうなるかは、予め決まっていない。
私が別の何かに変わる時、記憶を保持したまま変わるなら、それは根本的には変化ではない。記憶を失って変わるなら、変化したことに気付けない。よって私が別の何かに変わることは無い。
私の経験における瞬間と瞬間の間に、全くの別人の一生が挟まっていたとしても、私がそれを記憶していない限り、それは無かったことになる。別人は別人の記憶を持つ。そして別人になった私は、自分が変わったとは認識しない。別人になった私は私ではないのだ。だから、私は私である。私が別人になることは、絶対的に不可能だ。
「五角の四角形」が直観的に現れることは無い。それは言葉としてのみ有る。ただ、言葉が単に記号だとすれば、「五角の四角形」という言葉は、どのような形ででも直観に現れ得る。
言語表現に矛盾は無く、言語で表されたどのような事態も現実となり得る。
また、言語で表せない事態も無い。それはどのような言葉にもなり得る。
言葉は知覚される。知覚は他の知覚と結びつき、状況の中で機能を持ち、思考や行為を指示する。この点で言葉は他の知覚的存在者と何ら異なるところが無い。
言葉が無くとも物は有る。物がなければ言葉は無い。物は言葉に先行する。
言語は文節構造を持つが、それは世界の文節をなぞるだけだ。言語が世界を分節するのではない。言語自身もまた、世界から分節されてきたものに過ぎないのだ。
言葉は物を表せる。言葉自身が一つの物である。言葉は物が自身を現す手段である。
知覚は器官に依存しない。
まず目が有り、それが物を見るのではない。「見える」ということが有り、その原因として器官が特定される。
目の存在は視覚を前提するが、視覚の存在は目を前提しない。
目を失えば、視覚を失うことになる。だがこの場合でも、「目を失ったから視覚を失ったのだ」という認識が成立するのは、現に視覚を失った後のことである。目を失っても視覚が失われなかった場合、「目を失ったから視覚を失ったのだ」という認識は成立しない。よって体験の順序として、視覚の喪失は目の喪失に先行している。
或いは、今生じていない種類の知覚が突如生じたとする。その知覚が依拠する器官は、その知覚が生じたことで初めて、その知覚を生じさせる器官として存在するようになる。
思考された内容は、像として見えたり、言葉として聞こえたりする。思考そのものは無意識下に行われ、その結果として、様々な像や音声が脳裏に現れ、認識されるのだと考えられる。
しかし、作用などどこにあるのか? 無意識下にあるとして、無意識とはどこにあるのか? 脳内に流れる物理的作用がそれなのか? しかし物理的作用はそれ自体、認識され、思考された対象に過ぎない。
ただ思考された内容が、すなわち折々の像や音声だけがあるのであり、像や音声を発生させる作用というものはない。作用もまた像や音声としてしかない。結果としての像や音声だけがあるのだ。原因としての思考作用は存在しない。
思考されたことは対象としてある。思考する作用は、それ自体思考されたことでしかない。思考されたこととしてのみ、思考することがある。だから、思考されたことだけがあるのであって、思考する作用はない。
思考する作用がないのだから、思考された内容もまた、実のところ、思考された内容ではない。それは単に、それ自体で現われる知覚の一部なのである。
よって、世界には知覚しかない。知覚の塊が世界である。現にある最も表面的なもの、この知覚こそが世界の全てである。知覚以外には何もない。
まず認知があり、思考があり、それから行為があるとされる。そうではない。端的な行為がある。行為の根拠としての認知や思考は、行為そのものに遅れて来る。やってしまってから、何を見たのか、どう思ったのか、どうすべきだったのか、が整序される。
行為の生起とは、行為の知覚である。知覚は第一のものである。だから知覚に原因が無いのと同じく、行為にも原因は無い。
知覚はそれ自体では単一なものであって、単なる素材である。そこに思考の作用が加わり、現にある知覚が何の知覚であるかが判断されることにより、知覚の中に個が識別される。そうして知覚が意味を持ち、整序されると考えられる。純粋な知覚は無分別である。思考がそこに分別を加える。
しかし純粋な知覚などどこにあるのか? 思考の加わらない知覚など存在し得るのか? 存在するとして、そのような知覚が「現にある」とは認識できないのではないか? それが「純粋な知覚」であると認識することにすら、思考の作用が必要となるから。
だから純粋な知覚は、「あった」とは言えるが、「ある」とは言えないのだ。純粋な知覚は、思考された概念であり、現前しない。現前しないのだから、存在もしない。
純粋な知覚はないので、「そこに思考が加わる」とか、「思考により知覚が整序される」とかの表現もまた無意味となる。知覚と、そこに加わっている思考を分けて考えることは無意味である。純粋な知覚がまずあり、それが思考によって判断されるのではない。知覚は初めから判断され切っているのである。知覚が何の知覚であるかを判断する作用の概念こそ、すでに判断済みの知覚に対し改めて外的に付与されたもの、捏造された原因に過ぎない。知覚が判断されているとしても、それは思考によらない。
個を成り立たせるための作用の存在は「現にあるものは、何故そのように、それとしてあるのか?」という、根拠への問いによって付加された余計なものに過ぎない。そしてその問いと答えもまた、思考作用によってあるものではなく、それ自体で端的に与えられた一つの知覚なのである。
個は端的にその個であり、その個をその個たらしめるような作用は存在しない。直接に出会われるのは、常に特定の個である。成立過程は妄想なのだ。
私は人間であり、他人も私と同じような身体構造をしている。似たような原因からは似たような結果が生じるはずである。だから私の身体が私の知覚を生むように、他人の身体もまたそれと似たようなものを持つに違いない。
原因に遡り、概念的一般化のもとで結果を導き出すことで、私と他人にそれぞれ同質の意識があると考えられるようになる。
しかし私の知覚は、他人の知覚とは在り方が異なる。私の知覚は直接感じられる。他人の知覚は概念として考えられる。私は本当に何かを感じている。他人は本当には何かを感じていない。
私の知覚は根源的な場であり、全てに先行する前提であり、いかなる原因によるものでもない。まず知覚が生じ、それから身体を原因として見出したのだ。身体を知覚の起源とすることは順序を転倒している。
だから類推は失敗する。他人の身体が有るからといって、そこに知覚が有るとは限らない。
しかし現に有る知覚は、何故「私の」知覚なのか? これを「私の」知覚であると言えるのは、既に私と、私に対する他者の概念が与えられているからではないか? 両概念が有るからこそ、「現に知覚しているのは私であり、他者ではない」と考えることができるのだ。概念が無ければ、現に有る現れは「私の」知覚ではない。それは単なる現れであって、誰のものでもない。
他者が「本当に」何かを感じているかどうか、は問題ではない。現に現れているものが「私の」知覚であるということ自体、解釈されたことである。つまり私もまた「本当に何かを感じている」訳ではないのだ。「私が感じている」ということが概念的に構成されるのと同じく、「他者が感じている」ということもまた概念的に構成される。この点で、私と他者とは同格である。
ここでは確かに、本当に何かが感じられている。だが感じるのは私ではない。私は感じられる対象であり、感じる主体ではない。
社会的関係の中で、そこに有るべき(普通の、公的な)自己を見出す時にのみ、心は意味を持つ。剥き出しの心は心ではない。
倫理的含意(害意)の無い独我論は無意味である。
もし他者に心が無いのであれば、その身体を破壊しても本当に苦しむものはそこにおらず、殺しても殺したことにならない。
他者の心は倫理の根拠である。
私は他者に心が有るかのように振舞う。これはそのまま、他者に心が有ることを示す。
心が現実に存在するかしないかが問題なのではなく、現に私がどのように振る舞うかが問題なのだ。
「有るのか無いのか分からない」と考える時も、また「無い」と断じる時でさえ、既に他者の心は有る。無いものについては、無いとも言えないからである。
有ると言うも無いと言うも、同じものに対する態度であり、配慮である。
他者の心は懐疑以前に既に有る。
懐疑は一つの可能な態度に過ぎない。
独我論が正しい場合、私は「他者の心」について、有るとも無いとも、その中間とも考えられない。「他者の心」は単に意味不明の空語となる。
他者の心は実存しないが、実存しているかのような振りをするしかない。同じく、他者の心が実存しないとしても、それはただ実存しないという振りに過ぎない。
既に理解してしまっていることからしか始まらない。私はその理解に従って行為するしかない。
独我論の正しさは主張されるのではなく、遂行されねばならない。
心の概念は社会的である。それは他者と関わる時のみ意味を持つ。
心は、物的外面から区別された内面を意味する。
自分の内面と外面を分けることは、他者に対する時のみ有意味となる。
物的な振る舞いに反し、内心で別に振る舞い、別の思考を持っている時、心が意味を持つ。即ち心は、偽装する時に意味を持つ。
他者の心の概念が私の心から消え失せることはあり得る。その時全ての他者は、単に外面的に動くだけの客体となる。
単なる客体に対し、私は自己を偽装できない。よって私の心の概念もまた意味を持たず、成り立たない。
その時、私の心に映じた事物もまた、心に映じたものとしては解釈されず、単なる直接の現れとなるだろう。
そこで私は独我論に基づき行為するのではない。私は存在しない。ただ内も外も無いそこで、自然なことが行われる。
私の身体がどれほど痛んでも、彼は痛くない。彼がどれほど痛がっても、私は痛くない。
このことは存在者の孤独さの一例だ。孤独さとは言い換えれば、私と彼との非同一性だ。私は私と同一だ。私と彼とは同一ではない。
しかし同一性とは何か? 同一性とは、あるものと、別のあるものとの同一性だ。「一方に或るものAが有る。もう一方に或るものBが有る。そして両者は同一である。A=B」。これが同一性の表現だ。しかし、二つ有る時点で、同一ではないのではないか?
だとすれば、私自身の同一性もまた疑われるべきではないか? 実際、かつて痛がっていた私が、今はもう痛がっていないということは普通に起こるではないか。にも拘らず、その二つの私は同一と見做されるのだ。
であれば、むしろ私と彼が同一であることもまた、起き得るはずではないか? そのためには、彼が痛む通りに私も痛み、私が痛む通りに彼も痛むと、ただ端的に思い込むだけでいいはずなのだ。「しかし本当は……」などと続ける必要はない。同一性の根拠は、同一だと思うことだけなのだから。
哲学に私を持ち込みたくはない。哲学は、私無しの真理を求めるべきだ。むしろ私は真理を攪乱し、濁らせ、覆い隠している。――だがこの認識自体、私を捨て去りたいという、私の願望ではないか?
人間などどうでもよい。人間の真理は取決めに過ぎない。真理は人間がいなくとも真理でなければならない。生も死も問題ではない。宇宙もその法則も問題ではない。それは人間にとっての宇宙だからだ。全ては宇宙の内に有る。では宇宙は何処に有るのか?
「何であるか」は不味い問いだ。何でもないのは自明だからだ。
「何故であるか」も同様に不味い。理由が無いのは自明だからだ。
物事はどう動くか予想がつかず、何処から危険が迫ってくるかも分からない。そこで可能性の認識が生じる。数多ある可能性の中から現実になるのは一つである。その一つが知りたいから、法則の概念が生じる。法則によって予測して、危険を避ける。しかし法則があるなら、避けられなかった危険もまた、法則によって起きたことになる。避けられ得ない危険が存在する。だから今度は法則が恐ろしくなる。そこで自由の概念が要請される。自由は法則からの自由である。自由は意志の力である。意志は望んだことを引き起こす力である。ところで法則もまた、数ある可能性の中から一つを現実とする力なのである。だから自由とは法則からの逸脱であると共に、法則に対し新たな法則を持ち込むことでもある。意志は法則である。そして法則は意志なのだ。だから自由と必然の相克、意志と法則との相克とは、意志と意志との相克なのだ。かくして全ては自由となる。自由な物事はどう動くか予想がつかず、何処から危険が迫ってくるかも分からない・・・
全ては無常であり、無常には実体が無い。
有るものは絶えず生滅している。堅固に思えるものも瞬間毎に生じ滅している。瞬間と瞬間とは断絶する。持続ということが無いので、ものは力を発揮しない。ものが力を発し、その力が持続し、次の事態を引き起こす、ということは無い。動きは有るが、動かすものは無い。主宰者がいない。全てはただ、生じる通りに生じ、滅する通りに滅するだけだ。これが無常にして無我ということで、だから無常は思い通りにならない。
無常における生起は、何によっても引き起こされず、規制されない。だから無常における生起は偶然である。もっともこの偶然は必然と表裏一体であり、なおかつ世界が必然であるか偶然であるかということもまた真理として実体的にはあり得ず、無常なのではあるが。生起はただ不可避であるという点で必然であり、如何様にもなり得るという点で偶然である。
思い通りにならないこと、自由と対立する事物の必然性については、因果律の存在から理解され得る。思い通りにならないのは、私の意志を規制しその振舞いを決定するような、諸々の原因のせいだと考えられる。しかし因果律を持ち出すまでもなく、単にこの現実がこの今しかないという、この直接的な事実から、既に生起の不自由は成り立っている。現に有るのはただこの一瞬間だけだ。瞬間に前後は無く、原因も無い。全てはただ端的に、突如として、全体として与えられる。そこに自由の余地は無い。
まず状況が有る。
状況の中に、私と他者が見出される。
全ては状況の中に配置されている。
状況を抽象することにより、状況を構成している個々の事物が得られる。
要素が集まって状況を成すのではない。状況以前に要素は無い。
「状況は私により知覚され、思考される」ということもまた、状況の内に有る要素に過ぎない。
私は状況に先行しない。状況は常に私を超え、私を含んで有る。
状況が私を与える。私が状況を表象するのではない。
世界は私の世界ではない。状況は私にとっての状況ではない。
主観と客観との関係は、単に数多ある関係の中の一つに過ぎず、現象の根底に関わる第一の関係では決してない。
現実は概念操作により成り立つ訳ではない。操作が行われる場が現実であるから。
抽象は現実を単純にも複雑にもする。
抽象という迂回をしつつ現実に関わるのは一種の怯懦なのか。
だが「抽象無しの現実」など、甚だ抽象的ではないか? それはどういう現実なのか? 「こういう現実だ」と語ることができるのなら、それもまた抽象を免れまい。
抽象を極め、全てを緻密に語れば、それは具体になる。具体は高度な抽象である。
また具体は具体として(つまり語るまでもなく現にこのように知覚されたこととして)扱われる時、却って抽象的である。
抽象的に緻密に語られれば具体、明白に具体的に眼前に有るものは、却って抽象である。
具体的現実を知りたければ、抽象せねばならない。抽象は迂回ではない。
明白さは囚われである。
「哲学で世の中のことが分かるか?」
「世の中などどうでもよかろう。」
「では哲学することで、世の中から逃げているのか?」
「哲学に逃げることもできるし、哲学から逃げることもできる。」
――批難したいものなら何でも、逃避と呼ぶことができる訳だ。何からでも逃げることができる。生きることからも死ぬことからも。逃げることから逃げることすら可能だ。
楽園のような世界、快楽に満ちて一滴の苦痛も無いような世界でも、そこに生まれるには値しない。生まれる前にその快楽を欲しているものは無いから。
この世に生もうとする意志は有る。生まれようとする意志は無い。
生まれる前と死んだ後が同じであるかは定かではない。
無を本来あるべき常態・基体とみなし、生がその無の中に生じた一時的攪乱のようなものと考えるなら、生まれる前と死んだ後とは等しい。だが時間はそのような構造になっているか。
「生まれてこない方が良かった」と考える者が自殺しないことは、不合理なことではない。生まれる前が無であっても、死んだ後が無とは限らないから。
生まれたがっている子供はいない。
「生まれてこない方が良かった」と言っても、それを認識している私は既に生まれているので、遅すぎる。
また生まれる前にその真理を知ったとしても、それで自身の出生を防げたかどうかは謎である。
現に有るこれが、このように有るということ自体、不条理なのだ。
私の出生に関する限り、反出生主義はこの不条理を表現する一手段である。
記憶が無いことをもって、生まれる前が無であったと判断することはできない。
私自身が望んでこの世に生まれた来たのだが、それを忘れてしまっただけだという可能性は捨て切れない。
しかし選んだそいつと今の私は別人ではないか?
生まれる前が無であったかどうかは不明である。
全ての子供は生まれる前には地獄におり、この世に生まれることによってのみ束の間休息を得るのだ、と仮定することもできる。
生まれる前が無でないと主張する者は、無でないなら何が有るのか、具体的かつ科学的に証明し得るのでなければならない。
生まれる前について考えることができるのは既に生きている者のみであり、生きている者は死ぬことはできるが、生まれる前に戻ることはできない。生まれる前の存在にそれを尋ねることができたとしたら、その存在はもう生まれている。故に生まれる前が実際にどのような状態であったかについては証明のしようがない。
生まれる前の状態については水掛け論にしかならないので、反出生主義への有効な反論にはならない。反出生主義は、生まれる前は無であったか、現世よりは良い状態であったことを仮定して論理を立てる。反対者のすべきことは仮定に反対することではなく、別の仮定(生まれる前は無ではない、あるいは現世より悪い状態である)に基づく別の論理を立てることである。
現に私が有る限り、私は無を思い描けない。何かを思い描けばそれは無ではないし、私がいない世界を思い浮かべたとしても、それを思い浮かべている私がいる。
AがBを引き起こす時、AはBの根拠である。では何故AはBを引き起こすことができるか。AとBを媒介するCが根拠に有るからである。ならさらに、AとC、CとBの間の根拠が求められねばなるまい。これは無限に続くため、AがBを引き起こすことは遂には無根拠であると考えざるを得ない。
石を手に持ち、放すと、落ちる。これは必然ではない。石は浮かび上がってもよかったのだ。浮かび上がった場合、原因が追求される。原因は見つかる。しかしその原因が石を浮かび上がらせたのだということが事実となるのは、既に石が浮かび上がった後なのだ。浮かび上がる前には、原因は無かった。原因は事後に構成されたのである。
物が動く時、その動きを無限の段階に識別することができ、更にその無限の段階の一々を現実に体験できるとしたら、過程が無限である以上、その動きは完結しないことになる。これはどれほど小さな動きにおいても成り立つため、一般に運動が不可能となる。
無限の分割・識別が可能だとしたら、動かない。完全な連続は運動を不可能とする。だから、運動には必ず断絶が含まれる。一つの運動を構成する瞬間は、有限個である。時間には分割不能な限界がある。瞬間は飛躍している。だから動くのだ。
ある状態から、次の状態に行くことが、動くということだ。つまり動きは断絶した動きだ。動きとは普通、滑らかな、無限にきめの細かい連続と思われているが、そうではない。
連続していたら、むしろ動けない。無限に連続するものには、「次」が無い。完全な連続とは無限に細かい動きであるから、「次」に行こうとするその一歩は、無限小でなければならない。だがどんなに小さな動きも、無限に小さくはない。だから動けない。無限に小さく動けたとしても、それは無限の過程となるから、いつまでも「次」に辿り着けない。
連続体とは一つの塊なのだ。もし連続体が有るとしたら、それは一瞬間の内に直観される。連続は時間ではなく、空間に有る。動は連続体ではない。
断絶の無い連続とは、瞬間の不在、無限の過程、段階の一切無い変化、を意味する。だが無限の過程は完結せず、段階を踏まない変化は変化ではない。連続のみでは動きは無い。動きは断絶に、瞬間に、瞬間の狭間の無によって有る。
世界は動いている。これは確かなことだ。瞬間はそれ以上分割できない。これも概念上確かなことだ。だから瞬間の内部は静止している。そして現にある動きは常に有限個の瞬間よりなる。
以上のことは仮説として正しい。ただし、ここから「現にある動きは無限に分割できない」ことは導けない。考えられた動きと、現実の動きとは異なるからだ。
考えられた動きは、「何処かから何処かへの」動きだ。これを無限に分割できるかどうか、答えるのは容易い。無限に分割できるとしたら、運動は不可能だからだ。もし動きを無限に分割できるとしたら、如何なる小さな動きの中にも、無限の過程があることになる。無限の過程は完結しない。だから運動は不可能となる。しかし、それは動きの表象、軌跡・図形化された動きについて考えた結果、導かれたことなのだ。
これに対し現実の動きは、「何処から来るのでもなく、何処へ行くのでもない」動きだ。これについて、そもそも分割という概念が成り立つのかも怪しい。現実の動きを無限に分割したと仮定しても、その動きの一々を現実に体験することは可能である。確かに、現実の動きは分割されている。「さっき」と「今」の区別はつく。動きは永遠に未完了でありつつ、常に完了している。だがその動きが無限に分割されたものなのか、有限に分割されたものなのかについては、全く不明である。その判断は動きを外から見た時に初めて可能となるが、世界は現にこの動きの全体としてあるのであり、動きに外はないからである。
例えば、ボールを蹴ってから地に着くまでの間を無限分割できるかというと、できない。できるとしたら、ボールはいつまでも着地しない。これが考えられた動きというものだ。
現実の動きはもっと大きく、最も大きい。現実の動きはボールを蹴る前から動いていたし、着地後も動いている。また、仮にボールがいつまでも着地しないとしても、それはそれとして、そのいつまでも続く動きは、現実に動いていることになる。こういう動きをさらに分割するの、しないのと言ってみても無意味だろう、ということだ。だから現実の動きは、有限に分割されていると見ても、無限に分割されていると見ても、結局同じということになる。
考えられた動きを無限に分割すれば、運動は不可能となる。現実の動きを無限に分割しても、運動は不可能とならない。無限なら無限のまま動く。現実とはそういうものだ。
さらに簡潔に言えば、始点も終点も無い現実の動きにおいては、有限も無限も無い。動いているものは動いているのだから、その分割の粒度は全く問題にならない。
故に「瞬間は具体的に何秒か」などと考えることにも意味はない。瞬間は数値ではない。
動きの最小、識別の限界の概念として瞬間を仮定することは正しい。
考えられた動きと現実の動きの違いは、考えられた動きは一個の連続体であり、概念としてなら、無限個の瞬間をその中に詰め込めるのに対し、現実の動きは現実の進展であって、分割できない瞬間の連なりから成る、というところにある。
両者においては瞬間の意味が異なるのだ。考えられた動きには、「最小の動き」などというものは無い。概念としての時間は、数値として無限に分割できる。ただそれを現実の動きに適用することはできない。考えられた動きにおける瞬間は、動きの全体を前提としてそれを分けたものである。現実の動きは未完結であり、全体を前提しない。瞬間は動きを分けたものというより、動きを現に成すものである。
考えられた動きにおいては「動きから瞬間へ」という方向しかないが、現実の動きにおいては「瞬間から動きへ」という方向がある。というより瞬間の有がそのまま動きの有、瞬間即動、動即瞬間である。
私の生涯の全ての瞬間をばらばらに切り離し、順番を滅茶苦茶にして繋げ直し、できた過程を改めて生き直すとしても、その中を生きる私は何の違和感も持たず、自然な経過を体験するだろう。
瞬間はそれぞれに完結しており、正しい順番を持たない。
「動かす」「動かされる」は相対的だ。
私が右手を挙げる時、私が私の意志により、私の右手を挙げるのだと普通は言う。
しかし逆かもしれない。むしろ右手が挙がりたがっていて、自分が挙がるためにこそ、私を利用したのかもしれない。
ここで脳を持ち出しても話は変わらない。脳は周囲を知覚し思考するが、右手はそれ自身で知覚も思考もしない、だから脳が右手を上げることがあっても、右手が脳を動かすことはない、と普通は考えられる。しかし知覚や思考が無いからといって、意志も無いというのは自明だろうか? むしろ右手を挙げるための知覚や思考が、脳や神経の働きが、右手によって要請されたとは考えられないか?