日々悩みは尽きず、一つ山を越えればまた次の山が現れ、生きることそのものに嫌気が差してきているのは、何も最近に限ったことではない。問題の解決は新たな問題を生むだけだ。しかし解決しない訳にも行かない。
世界の真理が明らかになったとして、それでどうするのか?
結局のところ、現に有る通りに有るしかないのではないか?
なるようにしかならないし、なってしまえば大したことはない。
どうにでもなるし、どうにもならない。
「知っている」と思うな、「信じている」と思え。
知ることはできずとも信じることはでき、信じられずとも考えることはでき、考えられずとも存在することはできる。
哲学で何が分かるということも無いが、哲学以外で何が分かるということも無い。
問いに答えるのは良い。問わずに答えるのはなお良い。
何物も自分の物と思うな。それらにはそれらの都合がある。
言葉に深いも浅いもあるか。ただそう思ったのだ。
生きているだけで、何かが減っていく。減るのは勝手に減る。増やすのには苦労する。壊すのは容易いが、直すのは難しい。肉体は確実に死へと崩壊し、食い止める術は無い。死んでいくこと、減っていくことにより苦痛が生じる。苦痛を解消するために、欲求が生じる。苦痛は止まらない。欲求は止まらない。だから苦労も止まらない。欲求を処理して満足しても、それは減ったものを元に戻しただけ。元を越えて増やしたとしても、いずれは全て無くなる定め。総じて無意味、空虚なだけ。でもその空虚な過程をやらざるを得ない現実。積み上げたものは崩れ落ち、妄想しては幻滅し、目覚めたとしてもそれは夢、終着点は決まっている。
世界とは、存在とは、生とは、私とは、何か? もしここが全く無苦痛の世界だったら、そんな問いは不要だったし、思いつきもしなかっただろう。そもそも生きることは、苦痛に対処することである。
完全に無苦痛の世界を仮定する。それは果たして世界たりうるだろうか? 苦痛が発生しないのなら、私はどこに注意を向ければいいのだろう。ものを識別する必要もない。思考も行為も必要ない。つまり世界が必要ない。然るに世界は存在している。だから、世界は苦痛を原初に持つ、と言うことができる。世界の前提は苦痛である。
苦痛と共にある世界、苦痛によって形成された世界においてこそ問いが生じる。これは一体何なのか? 何故こんなことになったのか? 「何」とは本質の問いである。「何故」とは根拠の問いである。どちらにも所詮、答えられない。
本質は、本質規定者との関わりによってのみ本質なのだ。世界とは何であるか?――現に私がそうであると思ったようなものである。単に私がそう思っただけだ。世界が本質的に何であるかなど、誰に答えられるのか?
また私はいつでも同じ私である訳ではない。時と場合により認識は変わる。世界に不変の本質があるなら、それは時間を超えて、現実の出来事の外から、与えられたものでなければならない。しかし私は世界内にいるのだ。
認識する者の数だけ本質もある。認識者が一人だとしても、なお時間的に分裂する。「ただ一つの本質」は存在しない。世界は多義的であり、本質は時間的にも、空間的にも離散的である。
時間的・空間的に複数の存在者が同じ本質を見ることはあり得ない。見る者が違えば、見られたものも違うのだ。
本質は根拠の一種である。事物が正にそのものとして、そのように働くために必要な何かである。事物は関わりによって生じる。その関わりの各項が、その事物の根拠である。そして関わりが成り立つ正にその時、その現在において働き、関わりの在り方を規定するある種の力が本質である、と考えられる。本質は内的根拠である。
根拠の存在は後付けの説明にしかならない。
まず特定の状況がある。それからその状況を生み出すに至るまでの過程、状況を成立させるのに必要な要素を想起、或いは考案する。事物には直接出会われる。しかし事物の根拠は、事物に関する思考を通して間接的にしか与えられない。
生起の根拠は生起に遅れてくる。それが成立した後でのみ、それが生じた原因・根拠・理由が分かる。
いつでも「ここにいること」「このようにいること」から話が始まり、その後、絶対的な遅れと共に「何故ここにいるのか」「何故このようにいるのか」が問われるのだから、「ここにいること」「このようにいること」の原因は、真実には説明できない。生起の理由を、生起する前に問うことはできない。だから理由は無い。とにかくこうなっている。以上、問いは先に進まない。
理由を答えられたとしても、その理由の理由を答えねばならない。これは無限に続くので、遂に理由は答えられない。
何かを知るということは、それをそういうものとして受け容れるということである。知られたもの、理解されたものはその性質を固定され、世界に正しく位置付けられる。
苦痛を知ることは、苦痛の正当化に繋がる。本質への問い、根拠への問いを通して、苦痛が生じざるを得ない必然性を探っている。苦痛をあるがままの真の現実として肯定するため、そうすることで却って苦痛を逃れるためである。
苦痛を克服しようとする具体的努力は常に実践されている。それが即ち生である。そしてその努力そのものが、また一個の苦痛なのである。生じてくる苦に対処する戦い自体が。ここに、偶発的に生じてくる個々の苦痛とは異なった、より根底的な苦痛の存在が示されている。個々の苦痛への対処のみでは不足する。個別でない苦痛とは、普遍的苦痛である。普遍的苦痛は世界の根拠である。と同時に、世界があってこそ苦痛も生じてくる。だから世界を知らねばならないのである。普遍の観点に立って自己を救うためである。
その都度の瞬間は、その都度の本質を語る。唯一の本質が有るのではない。瞬間は連なってこそ瞬間であるから。その都度の本質があり、その都度の探求があり、理由がある。その関係性の全体については、もはや理由が無い。或る理由の羅列、因果の系列が存在するということそれ自体については、もはや理由が無い。根拠の無い本質、原因の無い原因を現に生きている。ただこうしているだけなのだ。
苦痛から問いが生じ哲学が始まるというのは誤解であり得る。哲学の根拠に苦痛はないかもしれない。それは哲学が現に始まった後に、その哲学自身によって呼び出された根拠に過ぎない。とにかく哲学は始まってしまっていたのだ。
苦痛を引き起こす根底は無い。苦痛には何の根拠も無い。意味も無い。それを問いただし、解明しようとすることの方こそ倒錯であり、更なる苦痛の元となる。無いものを追い求めているのであるから。ただ実践が残る。苦痛は根底的に解決されるべきものではなく、日常的な範疇でその都度対処し、向き合っていくべきものとなる。
哲学とは何か。迂路を見渡すことである。結局始点に戻りつつ、しかし以前より「深く」物事を見ること。深く見つつ、浅く振舞うしかないと知ること。この一連の運動そのもの。
「哲学は何のためにあるか」などと問うのは、「時間や空間は何のためにあるか」などと問うようなものだ。
快楽は苦痛の裏返しに過ぎない。快楽は、「そこから離れると苦痛だ」ということ、「そこに向かわねば苦痛だ」ということを示す。快楽を求めねばならないのは苦痛であり、快楽から離れねばならないのも苦痛である。
現れたものに対処するのが意志である。対処の最も原初的形式は、「そうしないと苦痛だから、そうする」ということである。意志は苦痛に対する反応に過ぎない。
何かが与えられる。適切に対処しないと苦が生じるから、対処する。この繰り返し。
散らかったものを片付けているだけだ。しかも散らかしたのは私ではない。
不足が生じたので、それを埋め合わせる。また不足が生じたので、それを埋め合わせる。
現れたものに対して反応するのだから、その現れたものによって、意志は制約されている。完全に自由な意志は無い。
苦しむ所に意志がある。意志は二次的であり、対処的であり、自発ではなく、引きずり回される。
世界の全てが思い通りに動き、望んだことが全てそのまま実現する場合、世界の動きと私の動きは一致し、私は私がここにいることに気付けない。
私がここにいるということは、既に世界と私がずれていること、思い通りにならないものがあること、苦を感じていることを示している。
完全に自由な意志は、何かに反応するのではなく、全く自ら全てを創造する。全てを自ら創造するところには、自己に対する抵抗が無い。抵抗が無ければ自己は無く、自己が無ければ意志も無い。よって完全に自由な意志は無い。
自分の願望と、現に有る物事とのずれが苦を生じさせる。否、苦とは正にこのずれそのものである。だから起こることを全てそのままに受け入れ、臆することなく事物の内に分け入り関わることができれば、苦は生じない。苦は現象の根底に有るものではなく、主体の或る兆候を指示するに過ぎない。――しかしこの解釈こそ、「そのように振る舞わねば苦が生じる」からこそ成り立つものである。苦を前提とした上で、そこから逃れるのだ。苦は何時でも、主体が落ちてくるのを待っている。
私の存在は苦により自覚される。他者は苦をもたらすものとして有る。意志に抵抗をもたらすものは、意志である。私が進もうとすることを阻むのは、私と同じく進もうとする意志である。私は自己の苦痛を通して、他者の意志を知る。
「結局、これは何なのか?」
世界の本質はその都度の規定を超えていなければならない。むしろその都度の規定の意味をこそ規定するものでなければならない。
評価・恣意・相対性から独立してそれ自体で輝く、絶対的な意味こそ世界の本質である。
私の目的は、世界全体の目的に接続されねばならない。
世界の意義は私の苦痛の意義であり、行為の意義、生死の意義でもある。
世界に意義が無ければ、私の存在にも意義は無く、私がすべきことも無い。
生起はただ偶然に生起する。
瞬間は断絶し、現象はただ端的にこのように現れるのみであって、常に推移して本質を持たない。
世界の本質は不変の真理として、生起の推移・瞬間の外になければならない。
しかし世界は常に全体として生じ滅するのであって、その外は存在しない。外の表象もまた世界の内でしか生起しない。
世界内の事物の意味は、世界内に有る関係による。世界そのものは、何とも関係しない。関係は世界内にしかない。
世界内のどのような些事もその根柢を私は知らない。
物理的な意味は無い。意味は心情による。では心情には何の意味があるか。
意味が実感できたとしても、それはただの感覚である。感じられたから何だというのか。
意味を持たせることはできる。だが持たせた意味は意味なのか。
意味を語る者がいたとしても信用に値しない。それは言葉に過ぎない。
幸福は世界の意味たり得ない。その幸福の意味こそ更に求められねばならないから。
仮に真理に指標があり得るとしたら、それは幸福以外にあり得ない。
幸福はその外を排斥する。幸福は自己完結する。幸福は完成である。
世界の意義は、求められるから問題となる。求められない限り問題とならず、存在もしない。幸福な者は世界の意義を求めぬ故に真理に達する。
不幸な者だけが世界に意義を求める。
幸福は真理がそこに有るという気分である。気分は世界を満たす。幸福な世界は真理そのものである。
幸福感が伴わなければ、何かを真理とすることはできない。また真理に到達したとしても、それに気付けないだろう。真理は幸福に依存する。
真理に達したが故に幸福になり、真理を逸したから不幸になるのではない。幸不幸が真理を決める。
真理が幸福をもたらすのではない。幸福であればそれが真理となる。不幸がそれを虚偽とする。虚偽にあってこそ真理は求められる。だが求められているのは幸福なのだ。
或る真理と共に幸福であった者が、後にそれが非真理であったと気付かされ、不幸になる。だが、非真理が不幸をもたらしたのではない。不幸な気分の訪れが、それが非真理であることに気付かせたのだ。
何も問題にしなければ、何も問題にならない。
なるほど、意味はある。では意味があることには、何の意味があるか。
よろしい、無意味である。では無意味であることには、何の意味があるか。
無意味であることが真理であるなら、その無意味さを誠実に認め、無意味を無意味としてそのままに味わわねばならない。
無意味を意味にすり替えてはいかんのだ。例えば、無意味だからこそ「自由」なのだとか、「気楽」なのだとか、これは一つの「遊戯」なのだとか、無意味であることは「自明」だから別のことを考えろとか、そんなことを問うのは「無駄」だとか。無意味さは、意味を問い続けることによってのみ示される。
生きるために考えるのではない。考えるために生きるのだ。
考えても仕方ないことは、考えないのが良い。しかし考えても仕方ないかどうかは、考えないと分からない。そして考えているうちに、考えずにはいられなくなってくる。
「考えても仕方ないことについて考えても、仕方ないでしょう。」
「考えても仕方ないことについても考えてしまうのだから、仕方ないでしょう。」
一体、仕方なくないことなどあるのか?
全時間を通じた真理を把握するには、現実に全時間を通じて私が存在するしかない。全時間を通じて存在するには、過去と現在と未来に同時に存在するしかない。過去も未来も現実に存在しないため、それは不可能である。
過去と未来は現在に有ると考えれば、全時間に存在することは可能となる。永遠の真理は現在に有る。だが現在は即座に過去であるから、永遠の真理は常に新たに想起され直されねばならない。常に新たに想起を要するものは、想起の可能性として永遠に有る。ただし、常に新たに生起するものとして、永遠では無い。
世界の創造主は世界創造と共に自己をも創ったか、世界を創る以前から存在したか、どちらかである。
前者の場合、創ったとは言えない。創造主が世界を創ったという事実自体がここで創られたものであるから。
後者の場合、創造主はそのまま自己のみで存在することが不服だったから、世界を創った。つまり世界創造以前に、創造主の苦痛が、即ち創造主にとっての世界が、存在していたことになる。(だから、その創造主の世界をも創った者が、真の創造主ということになる。この過程は無限に続くため、真の創造主には辿り着けない。)
創造主が理由無く(「楽しみのため」とか「退屈凌ぎのため」とかの理由すら無く)世界を創った場合、創造主は自分が何をしているのかすら分からず動いていたはずだ。行為は理由によって意味を持つのだから。創造主は訳も分からないまま世界を創ったことになる。よって自分が何を創ったのかも分からなかったことになる。よって世界を創ったのではないことになる。
世界を無から創造するものは、それ自身無から出てくるのでなければならない。故に創造主は存在しない。
世界が理由無く存在しているとしたら、私は何をしているのか。訳も分からず、生きているから生きているだけだ。よって私は何をしていることにもならない。
世界の存在理由が、私の存在理由でもなければならない。
何の実在を疑ったとしても、その疑いを持つ私の存在だけは疑えない。自身への懐疑が遂行される時すら既にそこにいる、懐疑に先行するものが私だからである。
しかしこの理屈が底の底から本当に正しいかどうかは怪しいものだ。何しろ「我あり」といって証明されたその我は、とにかく疑っている我だからだ。疑っている我の存在が証明されたところで、それは証明になっていないのではないか。我は依然その証明を疑っているはずだから。
疑っている私が実在することの証明に成功した、という事実を疑っている私が実在することの証明に成功した、という事実を疑っている私が……と無限に続かねばおかしい。結局我は我に届かず終いなのだ。我ありという真理は証明ではなく、むしろ証明の放棄によって証明されたことになる。だからこそ、私の実在ということは幾度となく言い直されねばならず、その度ごとに改めて自覚され直す事柄なのである。
私は考える。――考えているのは私なのか?(私ではない何ものかの考えたことが、私に送られてきているだけかもしれないではないか?)
私は考える。――考えるという行為があるからといって、それを可能にするような何か(主体)が必ず存在するとは言えないのではないか?(考えている内容はあっても、考えている主体などどこにどうあるのか? 主体もまた考えられている内容に過ぎないではないか?)
単にある考えが浮かぶだけでは、その考えの主体が私であることは導びかれない。また、「考えの浮かぶ場を私と呼ぶのだ」と言ってみても、考えの発生するための場が、考えの内容から独立に存在するということは疑わしいし、そういう場があったとしてもそれは「私」ではあるまい。ただ単にそういう場があるというだけのことである。
ここにこれがあるという、これだけが確実なのだ。疑いあり、ゆえに疑いあり、とだけ言えばそれが最も確実である。疑いに徹する時確実なのは疑いの存在であり、私の存在ではない。
懐疑は本当に懐疑なのか、と懐疑することはできない。それを懐疑と呼ぶのなら、それは懐疑でしかあり得ない。それは活動であり、在り方である。在るものが本当に在るかどうか疑うことはできるが、在り方まで疑うことはできない。私があって疑いを抱くのではなく、疑いがそのまま私である。さもなくば私は無い。
「考える」は、他の行為に比して重要なものとされやすい。思考はあらゆる存在をそれとして規定するための要であるからだ。思考は他より一段高い行為である。「夢を見ている」という判断も思考、「騙されている」という判断も思考、「歩く」も「食べる」も思考である。思考によって規定されねばあらゆる行為は無効であるからこそ、思考は行為の根源である。
では「思考する」という行為をそれとして規定するものは何なのか。それも思考だということになるのだろうか。思考は自己原因だろうか? しかしそうであるなら、思考というのは終には無根拠だということになる。当然「私」が思考の根拠であるのでもない。「私」がここに存在するということすら思考によって可能となるのであるから。
思考が規定することで、あらゆるものは存在できる。存在は思考により基礎づけられる。しかし思考自身は基礎づけられていない。それは突如として有る。だとすると、思考により規定されるものもまた、突如としてそのように有る、としか言えない。そして突如としてそのように有るものは、そもそも思考されて有るものではないだろう。それは「思考によって成立したもの」として、思考以前にそれ自体で有るのだ。
だとすると、「思考があらゆる存在を規定する」という命題は誤りだということになる。有るものは思考によらず、単にそれである。我もそれとして我であり、汝もそれとして汝である。
それはそれとしてそれである、故にそれあり。
「私は考える、故に私は有る」。
「私は考える」は有る、故に私は考える。「私は有る」は有る、故に私は有る。
「私は考える、故に私は有る」は有る、故に私は考える、故に私は有る。
行為が成立するためには、行為の認識が必要である。全ての行為は自覚された行為である。即ち、知的な、思考された行為である。他の現象から切り離されることでそれとして規定され、自覚と共に行われるのでなければ行為とは呼べない。
私の身体を私が動かしているとしたら、それは私の意志である。
私の身体の動きが感覚の集合であるとしたら、それは諸感覚の意志である。
世界が私の夢だとしても、現に私はその夢の中で、私の現実に対処している。ただ世界が私の夢だとしたら、私以外の全てのものをも、私の無意識が作り出していることになる。私の恐怖も不安も憎悪も、全て私の無意識の願望ということになる。一人芝居なのか。自業自得なのか。何故私はわざわざこんなものを?