存在するということは、それが何らかの機能をもって直観ないし思考に現れてくることである。一切の機能・作用を持たないものは、認識されず、存在もしない。
世界の全体は作用の全体である。作用の全体は影響関係の全体である。
世界は作用の全体だが、物理作用の全体ではない。
影響関係は物の関係ではなく、概念の関係である。物理的関係は既に概念的関係である。概念によってのみ、物理的関係はそれとして理解可能となる。
概念的関係の背後に、成立根拠として何らかの物理的作用を想定したとしても、その想定自体、概念を経由しなければ理解できないことである。
全ての事物が何かに作用し、繋がっている。世界は一つである。
全宇宙は、隣り合った部分相互の物理的関係の総体として、一つであると考えることができる。しかし実際に全宇宙を隅から隅まで隈なく点検して、全部分の相互の繋がりを確かめるという訳には行かない。
世界は物理現象として一つである前に、概念が並列し、関係することを可能とする場として一つである。
物理的全体、空間的な相互作用、時間的な因果関係は、世界の有り方として一つの解釈に過ぎない。
全てが一つであるその場は、現にここにある。
私は世界内の全体作用の中にいて、一端を担っている。
過去は無数の事物の集積である。その中から特定の事物のみが抽出され、原因とされる。だが原因は無数に連なるため、本来見渡すことができない。
遠くのものは小さく、近くのものは大きく見える。しかしそのもの自体の大きさは恒常的に変わらない。見え方は表象にすぎず、実体は固定されている。この固定されたものが、真理の素朴な原型である。
真理はそれ自体としてあり、誰に対しても等しく現れるか、或いは現れ方が違ったとしても、そこに唯一の本質がなければならない、そういうものである。
善の現れ方は多々あれど、善そのものは一つでなければならない。
世界は様々な存在者に対し様々に現れるが、その本質構造は一つでなければならない。
私たち二人がいて、私からは彼が見えるが、彼からは私が見える。しかし我々は同じ一つの世界にいる。両者の間にものがある。見る角度が違っているから、見え方も異なっている。しかし同じものを見ているはずである。
ある物が実在なのか、それともただの幻なのかは、私一人では判断できない。
誰にとっても同じものが真理である。だから真理が真理であるためには、他者からの承認が必要となる。
私が一人で勝手に主張する言葉、他者からして誤った言葉、説得力のない言葉は真理たりえない。
真理は公共のものである。
真理の条件は説得であり、共有である。
誰からも承認されずとも、実存的に掴み取られる真理がある。それは妄想と区別がつかない。
妄想と真実を区別しようと思えば、その基準は公共性にしかない。
完全な真理とは、全ての存在者が承認する真理である。しかし全ての存在者が本当に全てであるかどうかは不明であるため、完全な真理もまた導かれることはない。
真理は或る集団にとっての真理である。
「真理である」ということは、「説得が成功した」ということに過ぎない。
今だけが存在する。全ては「常にこの瞬間に」存在する。事物は動くが、事物の有る場は動かない――いや、場も確かに動いてはいる。場に映じる内容が動く限り、場もまた動いている。内容から場だけを切り離すことはできないからだ。生起は全一的であり、事物も、事物が生じる場も、その都度の全体として滅しまた生じている。流れるものと、流れの見える場所を分別するから両者がある。流れる事物を窓から眺めている訳ではない。――さりとて只管流されるばかりでもない。流されたところが同じ場所なのだ。彼方へ流されたと思えば、同じ場所にいる。何処まで行っても同じ場所、絶対の此処にいる。時は去りつつ回帰する。これもまた「去る」ことと「回帰する」ことを分別するからそうなるのであって、現に有るのは両者以前の、ただ只管な即今当処である。そのように自覚される度毎に。
今に落ち着き、今に動かねばならない。
現に有る今、現に有る。ここで何をするかだ。何をするでも無い。これをするのだ。これをしている。しているのが私だ。落ち着いているなら、それが私だ、それで良い。動じるなら、それも私だ、落ち着け。
前も後も無い。何が起きたということも無い。起きるだろうということも無い。次にどうするか考えるな。現に有る通りに自ら成れ。有るべきところのものに成れ。集中して対処せよ。放っておくな。しかし測るな、計算するな。いや、計算しようがしまいが、来たところに応じるしか無い。それもやはり今だ。どうなってもそれは同じだ。逃すな。捕まえておけ。
過去を思うことは過去に動くことだ。未来を思うことは未来に動くことだ。動けない。だから過去・未来は散乱、濫費だ。気が散る。力が散る。動けないところに動こうとするには無理がある。無理をやるから力が削がれる。力が削がれて、遂に今にも動けなくなる。時が死ぬ。後は流されて行くだけだ。それは死体だ。私は死体では無い。
別様に有ろうとするな。他を、外を求めるな。理想を抱くな。先を読むな。後のことは、後の私がどうにかするだろう。
今やらねば、後で困るか? そう思うならやればよい。だが今やったから、後で困るかも知れん。どちらにせよ、出たところで勝負するしかない。
動揺や不安は時と場合により生じる。だからそれらを克服するには、時と場合を超えたものに落ち着き、悠然と構えていなければならん。それが今だ。何処まで行っても同じだ。だから何処まで行っても、同じようにやることだ。
ただこの「何処まで行っても」を間延びした形で捉えると、倦怠、懈怠、退屈、空漠が生じてくるのだ。不足が生じる。それを埋める。また不足する。また埋める。この繰り返しだ。何の意味が有るか。しかし不足を満たそうとするその動きにこそ、積極的なものがあると見なければならん。それが働くのは何時なのか。即今だ。何時でも今なのだ。繰り返しなど無いのだ。ただ今どうするかだ。今こうしているところに全てが有る。自余のことはどうでもよいし、実のところ、どう有るのでも無いのだ。
何か一つしくじれば、次もしくじるだろう。そうして何処までもしくじり続けて、終には潰れてしまうだろう。そういう不安がある。だが「終」とは何時か。潰れるのは何時なのか。潰れたらどうなるのか。死ぬのか。死んだらどうなるのか。死んだ先に何が有るか? やはり今なのだ。死ななくても今、死んでも今だ。同じようにやればよいのだ。何も変わらぬ。
「こう動けば、こう返ってくる」というのがあるだろう。私の動きは私だけの動きではない。必ず返ってくるものが有る。動いて、返ってきて、また動く、これが活動だ。これが今だ。何をしようと一つの今だ。何が返って来ようとまた一つの今だ。その働きそのものを見よ。
現に私は世界や他者と関わっている。こちらが動けば向こうも動く。押せば退かれることも有り、退けば押されることも有り、双方押し合うことも有り、退き合うことも有る。それが現にしている活動だ。そこを抑えておかねばならぬ。何をしようがしまいが、その通りのことが返って来る。善悪の話ではない。事実の話だ。何かすれば、何かが起きる。当たり前だが重要だ。やっているのが自己なのだ。
試みに一歩踏み出してみよ。何が起きるか。それは分からぬ。だが起きることはその一歩に応じたものであるはずだ。だからその応じてくるものに、また一歩応じてやればよい。それなのだ。それだけだ。自己が有るということはその交渉のことを言うのだ。
「だから全ては自己に懸かっている」。確かにそうだ。だが自己に懸かっていることは、他者にも懸かっている。自分さえしっかりしていれば、全て上手く行くなどと考えるなよ。それは真理の半面だ。全てを上手く打ち返せるのが達人だ。それは理想だ。打ち返せないものが出てきたらどうする? 打ち返さないことだ。擲つことだ。苦痛を覚悟することだ。祈ることだ。
それだけだが、これもまた真理の半面に過ぎぬことも忘れるな。簡単に諦めてはならぬ。良く発せよ。一つ発することを一つの試行と見よ。応答の連鎖を自ら作り成せ。だが決して何か重大事がそこに懸かっているなどと考えるな。単に一つの試行と思え。上手く行けば上手く行き、上手く行かねば上手く行かぬ。それぞれの結果にまた応じるだけだ。それを淡々と繰り返すこと。
「かもしれない」と言っておけば間違いはない。――誠実だが、退屈だ。
真理を語るなら、嘘つきを名乗らねば。
未だ破られぬ妄想を真理という。
そう思うならそうなんだろう。信じれば真実だ。信じ切れれば。
世界には表面しか無い。発見された深層は新たな表面となるから。
全てが真理であるから、思い煩う必要はない。同時に全ては疑わしいので、思い詰める必要はない。
何かが存在するのは自明だが、何が存在するかは自明でない。とにかく何かが存在してはいるが、それが何かは分からない。これが哲学的困惑である。誠実であろうとするなら、哲学はその初めから終りまで、困惑であるべきだ。言わば哲学は、始まってはならない。
所与の何かを自明と見なすことから哲学は始まる。困惑は徐々に解かれ、気晴らしが始まる。困惑は問いとなり、論理となり、謎の解明となってしまう。後はそれらを巡って「探求」を続ければ、立派に哲学が完成するという訳だ。
現に有るような、こういうもの(意志したり、思考したり、苦悩したりするもの)として私が存在していることは不思議だ。世界がこのような構造・歴史・性情を持っていることもまた。
これ以外の在り方を想像しようとしても、それはただ空虚な概念、言葉、非現実としてしか得られない。これも不思議だ。どうしてこうなのか。
もしこういう存在の仕方しかできないとしたらそれはそれで不思議だし、他の存在の仕方もできたのに何故かこれになったのだとしても、やはり不思議だ。なんなのか。
どうせ分からないものについて問うのは気楽だし、楽しい。
私は現に感じられ考えられた通りの世界を描写したいのであり、謎や問題を解きたいのではない。
私が別の何かに変わる時、記憶を保持したまま変わるなら、それは根本的には変化ではない。記憶を失って変わるなら、変化したことに気付けない。よって私が別の何かに変わることは無い。
私の経験における瞬間と瞬間の間に、全くの別人の一生が挟まっていたとしても、私がそれを記憶していない限り、それは無かったことになる。別人は別人の記憶を持つ。そして別人になった私は、自分が変わったとは認識しない。別人になった私は私ではないのだ。だから、私は私である。私が別人になることは、絶対的に不可能だ。
「五角の四角形」が直観的に現れることは無い。それは言葉としてのみ有る。ただ、言葉が単に記号だとすれば、「五角の四角形」という言葉は、どのような形ででも直観に現れ得る。
言語表現に矛盾は無く、言語で表されたどのような事態も現実となり得る。
また、言語で表せない事態も無い。それはどのような言葉にもなり得る。
言葉は知覚される。知覚は他の知覚と結びつき、状況の中で機能を持ち、思考や行為を指示する。この点で言葉は他の知覚的存在者と何ら異なるところが無い。
言葉が無くとも物は有る。物がなければ言葉は無い。物は言葉に先行する。
言語は文節構造を持つが、それは世界の文節をなぞるだけだ。言語が世界を分節するのではない。言語自身もまた、世界から分節されてきたものに過ぎないのだ。
言葉は物を表せる。言葉自身が一つの物である。言葉は物が自身を現す手段である。
知覚は器官に依存しない。
まず目が有り、それが物を見るのではない。「見える」ということが有り、その原因として器官が特定される。
目の存在は視覚を前提するが、視覚の存在は目を前提しない。
目を失えば、視覚を失うことになる。だがこの場合でも、「目を失ったから視覚を失ったのだ」という認識が成立するのは、現に視覚を失った後のことである。目を失っても視覚が失われなかった場合、「目を失ったから視覚を失ったのだ」という認識は成立しない。よって体験の順序として、視覚の喪失は目の喪失に先行している。
或いは、今生じていない種類の知覚が突如生じたとする。その知覚が依拠する器官は、その知覚が生じたことで初めて、その知覚を生じさせる器官として存在するようになる。
思考された内容は、像として見えたり、言葉として聞こえたりする。思考そのものは無意識下に行われ、その結果として、様々な像や音声が脳裏に現れ、認識されるのだと考えられる。
しかし、作用などどこにあるのか? 無意識下にあるとして、無意識とはどこにあるのか? 脳内に流れる物理的作用がそれなのか? しかし物理的作用はそれ自体、認識され、思考された対象に過ぎない。
ただ思考された内容が、すなわち折々の像や音声だけがあるのであり、像や音声を発生させる作用というものはない。作用もまた像や音声としてしかない。結果としての像や音声だけがあるのだ。原因としての思考作用は存在しない。
思考されたことは対象としてある。思考する作用は、それ自体思考されたことでしかない。思考されたこととしてのみ、思考することがある。だから、思考されたことだけがあるのであって、思考する作用はない。
思考する作用がないのだから、思考された内容もまた、実のところ、思考された内容ではない。それは単に、それ自体で現われる知覚の一部なのである。
よって、世界には知覚しかない。知覚の塊が世界である。現にある最も表面的なもの、この知覚こそが世界の全てである。知覚以外には何もない。
まず認知があり、思考があり、それから行為があるとされる。そうではない。端的な行為がある。行為の根拠としての認知や思考は、行為そのものに遅れて来る。やってしまってから、何を見たのか、どう思ったのか、どうすべきだったのか、が整序される。
行為の生起とは、行為の知覚である。知覚は第一のものである。だから知覚に原因が無いのと同じく、行為にも原因は無い。
知覚はそれ自体では単一なものであって、単なる素材である。そこに思考の作用が加わり、現にある知覚が何の知覚であるかが判断されることにより、知覚の中に個が識別される。そうして知覚が意味を持ち、整序されると考えられる。純粋な知覚は無分別である。思考がそこに分別を加える。
しかし純粋な知覚などどこにあるのか? 思考の加わらない知覚など存在し得るのか? 存在するとして、そのような知覚が「現にある」とは認識できないのではないか? それが「純粋な知覚」であると認識することにすら、思考の作用が必要となるから。
だから純粋な知覚は、「あった」とは言えるが、「ある」とは言えないのだ。純粋な知覚は、思考された概念であり、現前しない。現前しないのだから、存在もしない。
純粋な知覚はないので、「そこに思考が加わる」とか、「思考により知覚が整序される」とかの表現もまた無意味となる。知覚と、そこに加わっている思考を分けて考えることは無意味である。純粋な知覚がまずあり、それが思考によって判断されるのではない。知覚は初めから判断され切っているのである。知覚が何の知覚であるかを判断する作用の概念こそ、すでに判断済みの知覚に対し改めて外的に付与されたもの、捏造された原因に過ぎない。知覚が判断されているとしても、それは思考によらない。
個を成り立たせるための作用の存在は「現にあるものは、何故そのように、それとしてあるのか?」という、根拠への問いによって付加された余計なものに過ぎない。そしてその問いと答えもまた、思考作用によってあるものではなく、それ自体で端的に与えられた一つの知覚なのである。
個は端的にその個であり、その個をその個たらしめるような作用は存在しない。直接に出会われるのは、常に特定の個である。成立過程は妄想なのだ。
私は人間であり、他人も私と同じような身体構造をしている。似たような原因からは似たような結果が生じるはずである。だから私の身体が私の知覚を生むように、他人の身体もまたそれと似たようなものを持つに違いない。
原因に遡り、概念的一般化のもとで結果を導き出すことで、私と他人にそれぞれ同質の意識があると考えられるようになる。
しかし私の知覚は、他人の知覚とは在り方が異なる。私の知覚は直接感じられる。他人の知覚は概念として考えられる。私は本当に何かを感じている。他人は本当には何かを感じていない。
私の知覚は根源的な場であり、全てに先行する前提であり、いかなる原因によるものでもない。まず知覚が生じ、それから身体を原因として見出したのだ。身体を知覚の起源とすることは順序を転倒している。
だから類推は失敗する。他人の身体が有るからといって、そこに知覚が有るとは限らない。
しかし現に有る知覚は、何故「私の」知覚なのか? これを「私の」知覚であると言えるのは、既に私と、私に対する他者の概念が与えられているからではないか? 両概念が有るからこそ、「現に知覚しているのは私であり、他者ではない」と考えることができるのだ。概念が無ければ、現に有る現れは「私の」知覚ではない。それは単なる現れであって、誰のものでもない。
他者が「本当に」何かを感じているかどうか、は問題ではない。現に現れているものが「私の」知覚であるということ自体、解釈されたことである。つまり私もまた「本当に何かを感じている」訳ではないのだ。「私が感じている」ということが概念的に構成されるのと同じく、「他者が感じている」ということもまた概念的に構成される。この点で、私と他者とは同格である。
ここでは確かに、本当に何かが感じられている。だが感じるのは私ではない。私は感じられる対象であり、感じる主体ではない。
社会的関係の中で、そこに有るべき(普通の、公的な)自己を見出す時にのみ、心は意味を持つ。剥き出しの心は心ではない。
倫理的含意(害意)の無い独我論は無意味である。
もし他者に心が無いのであれば、その身体を破壊しても本当に苦しむものはそこにおらず、殺しても殺したことにならない。
他者の心は倫理の根拠である。
私は他者に心が有るかのように振舞う。これはそのまま、他者に心が有ることを示す。
心が現実に存在するかしないかが問題なのではなく、現に私がどのように振る舞うかが問題なのだ。
「有るのか無いのか分からない」と考える時も、また「無い」と断じる時でさえ、既に他者の心は有る。無いものについては、無いとも言えないからである。
有ると言うも無いと言うも、同じものに対する態度であり、配慮である。
他者の心は懐疑以前に既に有る。
懐疑は一つの可能な態度に過ぎない。
独我論が正しい場合、私は「他者の心」について、有るとも無いとも、その中間とも考えられない。「他者の心」は単に意味不明の空語となる。
他者の心は実存しないが、実存しているかのような振りをするしかない。同じく、他者の心が実存しないとしても、それはただ実存しないという振りに過ぎない。
既に理解してしまっていることからしか始まらない。私はその理解に従って行為するしかない。
独我論の正しさは主張されるのではなく、遂行されねばならない。
心の概念は社会的である。それは他者と関わる時のみ意味を持つ。
心は、物的外面から区別された内面を意味する。
自分の内面と外面を分けることは、他者に対する時のみ有意味となる。
物的な振る舞いに反し、内心で別に振る舞い、別の思考を持っている時、心が意味を持つ。即ち心は、偽装する時に意味を持つ。
他者の心の概念が私の心から消え失せることはあり得る。その時全ての他者は、単に外面的に動くだけの客体となる。
単なる客体に対し、私は自己を偽装できない。よって私の心の概念もまた意味を持たず、成り立たない。
その時、私の心に映じた事物もまた、心に映じたものとしては解釈されず、単なる直接の現れとなるだろう。
そこで私は独我論に基づき行為するのではない。私は存在しない。ただ内も外も無いそこで、自然なことが行われる。
私の身体がどれほど痛んでも、彼は痛くない。彼がどれほど痛がっても、私は痛くない。
このことは存在者の孤独さの一例だ。孤独さとは言い換えれば、私と彼との非同一性だ。私は私と同一だ。私と彼とは同一ではない。
しかし同一性とは何か? 同一性とは、あるものと、別のあるものとの同一性だ。「一方に或るものAが有る。もう一方に或るものBが有る。そして両者は同一である。A=B」。これが同一性の表現だ。しかし、二つ有る時点で、同一ではないのではないか?
だとすれば、私自身の同一性もまた疑われるべきではないか? 実際、かつて痛がっていた私が、今はもう痛がっていないということは普通に起こるではないか。にも拘らず、その二つの私は同一と見做されるのだ。
であれば、むしろ私と彼が同一であることもまた、起き得るはずではないか? そのためには、彼が痛む通りに私も痛み、私が痛む通りに彼も痛むと、ただ端的に思い込むだけでいいはずなのだ。「しかし本当は……」などと続ける必要はない。同一性の根拠は、同一だと思うことだけなのだから。