いずれ死ぬ。精々今を味わうことだ。だがそれは死からの逃避ではないか? 逃避した先に何があるのか。――やはり死ぬ。

 だが未来を悲観することこそ、今を生きることからの逃避ではないか? では逃避しなければどうなるのか。――結局死ぬ。

 いずれ死ぬ。今は生きている。生きて何をするのか? 快楽を求め、苦痛を避ける。そしてどうなるのか?――いずれ死ぬ。

 いずれ死ぬから虚しいのか? では不死であったら、虚しくないのか?

 「いずれ死んでしまうというのに、私はこれでいいのか?」

 「いずれ死んでしまうのだから、私はこれでいいのだ。」

 いずれ死ぬということからは何も帰結しない。

 死ほど分からないものはない。

  1.  現に私は死のうとしていない。だから死は悪いものに違いない。もし死が良いものだとしたら、何故今すぐ死なないのか?

  2.  今すぐ死なない理由。「まだ生きてすることがあるから」。「死ぬのは痛かったり苦しかったりしそうだから」。「なんとなく怖いから」。……「なんとなく」! これが死を怖れることの最も浅く、かつ最も深い理由ではなかろうか?

  3.  そもそも善とは、少なくとも善の特徴の一部は、何かしらそれが「分かる」ことだ。反対に、悪とは何かしら「分からない」ことだ。分かるものには対処できる。分からないものには対処できない。死は分からない。だから怖ろしい。

 私は死ぬ。これは大変なことだ。どう大変なのか? それは分からないが、とにかく大変なことだ。むしろ「死が分からない」ということが、大変なことなのだ。死とは何か、死んでどうなるかが全く分からない。全く分からないところに、いつか放り出されることになるのだ。

 いずれ死ぬことは分かっている。いつ死ぬのか、どう死ぬのかは、死ぬまで分からない。

 私が本当に死ぬのかどうかすら、実のところ、死ぬまでは分からない。永遠の命ということを私は想像できる。また、自分が死んだことをどうやって私は確かめるのか。確かめられるのなら、死んでいないではないか。

 死への恐怖とは、死ぬまでの苦痛への恐怖か、死後の状態への恐怖かである。死そのものを恐怖することはできない。

 死ぬとどうなるか。天国や地獄へ行くかもしれず、人間へ生まれ変わるかもしれず、動物へ生まれ変わるかもしれず、同じ生をそのまま繰り返すことになるかもしれず、無になるかもしれない。記憶を失うかもしれず、失わないかもしれない。今の私からは到底理解し得ない次元に行くかもしれず、案外この世界に、同じ記憶と知性を持って(魂として)留まることになるかもしれない。これらすべては可能性に過ぎず、どうなるかは分からない。

 分からないというところが、死の恐ろしさの本質である。何か死後の状態を仮定し、それを恐れるというのは派生に過ぎない。

 死が恐ろしいのは、死後に無になるからではない。

 分からないことは何故恐ろしいか。――分かっていれば対処できる。分かっていないと対処できない。

 対処できないと何故恐ろしいか。――酷い目に遭って、為す術がないかもしれない。

 問題になっているのは苦痛である。どのような苦痛があるか分からないのが恐ろしい。

 案外死んでみれば、そこには苦痛ではなく快楽や幸福があるかもしれない。かもしれないが、やはり、分からない。

 分からなかったものが分かるようになるのが、精神的成長というものだ。だから成長は死で止まる。

 分かったということと、分かったことにすることとは異なる。

 無視するか、分かったことにせざるを得ないのが死というものだ。

 この世の苦痛に耐えかねて自殺したら、自殺した先がさらに苦痛に満ちていた、ということは十分にあり得る。

 死に対処するということは分からないものに対処することであり、分からないものを分かったものと見做すことである。

 死を想っても、何を想ったことになるのか分からない。むしろ死を想うことが、その都度想われた通りに死を規定する。

 自殺をするのは、死んだ先に苦痛が無いと思うからである。そのように規定する時、実際にそれは事実となる。

 死について考えている暇などない。今すべきことがあるのだ。ということは、死ぬとそれができなくなるということだ。死は現実に行動することの期限として、既に考えられている。

 死ぬ前に何かを成し遂げ、後に残さねばならないと考える場合、死は世界そのものの消滅を意味せず、単に私の消滅のみを意味する。世界は私を超えて存在するものとして規定される。

 どうせ死ぬからと流れに任せて生きるなら、死を無になることとして規定していることになる。その無はいかなる生をも正当化する。正当化の裏には、「この生はこのままでよいのか?」という不安・疑念がある。

 死は分からないものなので無視すればよいという考えは、分からないものへの恐怖から来る。死を無視することでは、死から逃れられてはいない。

 生と死を切り離せば、どちらも分からなくなる。現に生き方を選ぶことが、死を知ることである。死を知ることが、生き方を選ぶことである。

 死は分からないものだということもまた、分からないものとして死を規定することである。分からないものだから恐れるとすれば、それは死を恐れると共に生をも恐れている。死に対する不可知論は生に対する不可知論であり、生を生き死を死ぬ主体が、自己の生き方を定めていないことに由来する。死が分からないということは決して必然ではない。

 死は破滅にも救いにもなる。

 死は、幸福な人間には破滅として、不幸な人間には救いとして現れ、生の帳尻を合わせてくれる。だが真に幸福な人間なら幸福に死ぬこともできるだろうし、真に不幸な人間は死ぬ時も不幸だろう。

 一般に、不幸な人間ほど死に思いを馳せる。では幸福な人間は死をどう考えるか?

 幸福な人間は、「何だかよく分からないが、とにかく乗り越えることは可能な一つの課題」として死を捉える。

 死だけではない。幸福な人間においては、万事がそうだ。物事をそのように考えられることは、そのまま幸福の定義だとすら言える。

 かつて生きたものは皆死んだ。どのような形であれ、自己の死を立派に死に果せたのだ。であれば私にもできないことがあろうか。

 死を無闇に恐れることは怯懦の証であり、恥ずべきことだろう。

 実際にやってくる死は、思い描いていたものとはきっと異なるものだろう。まだ死の気配が無い時には、考えてみても空想にしかならない。もう死がすぐそこに来ている時には、考えるまでもないものになっている。

 行き止まりは無いし、出口はちゃんと有る。何を恐れることがあるか?

 私が無になることは、世界が無になることでなければならない。世界とは感覚され、考えられたものであり、私が何も見ず、聞かず、考えない時、世界は無いからである。

 死が分からないと、生も分からない。生が分からないと、死も分からない。

 死についてよく考えた人の方が、よく考えない人より死をよく知っているということもない。

 私のいない所では、全てが自然に上手く行く。私だけが不自然で、ぎこちない。私だけが現実に選択し、葛藤しているからだ。

 私は異物だ。全ては許されているのに、私だけは違う。だから私が死ぬことは、世界が真の自然として、悪の無いものとして完成することである。

 他者の死は単に身体の機能停止・崩壊である。その他者の身体が動くところも、その身体が思考し言葉を発するところも知覚できなくなるという点で、他者の死は単にその他者が無に帰することと見てよい。

 私の死は私の身体の機能停止・崩壊を意味するが、そこにはなお精神が残される。知覚も思考も無い状態を私は想像できない。そのように無となった状態を思考することはできるが、思考されたそれは概念に過ぎず、現実の体験とは異なる。

 意識の無は端的に世界の無としてしか体感されない。無は経験できないので、意識が無になることは無い。

 死後の状態は理性的に推論不能である。だから無としか表現しようがないのだ。

 因果関係は物理的に働く。死後の体験は、物質としての身体が失われた後のことであるから、因果律を適用できない。

 生は不自由なものだ。死は生の反対だ。だから死ねば自由になれる……と考えるのは早計だろう。それは論理ではない。

 死んで無になれるなら、これほど良いことも無いだろう。生は所詮、問題解決の連続に過ぎない。問題が無くなるなら、それに越したことはあるまい。

 もし死後が無であるなら、死んで解決されない問題はない。

 全人類が無苦痛に、突如として死ぬなら、そこには何の問題も無い。それは絶対善である。

 死んで困るのは当人ではない。周囲の人間である。

 殺人が悪事だとしても、それは殺された当人にとっての悪ではない。

 何の罪もない子供を、快楽目的で殺して、死刑になった男がいたとします。殺された子供の冥福を祈るのは当然のことですが、殺した男の冥福も、祈ってはいけないでしょうか? 一人が幸福になるより、二人が幸福になる方が良いのではないでしょうか?

 良い人は死んだ人だけだ。

 なることのできる無は、無ではない。だから無になることはできない。

 死は絶対の未来である。必ず来るが、決して来ない。

 死に近づくことには苦痛が伴うため、死は苦痛の極限だと錯覚されやすい。

 死によって世界に溶け込み、世界と一つになると考えることができる。固有の意志としての身体は死によって崩壊し、単なる物質と同化する。また固有の領域としての自我は死によって消滅し、自己の内と外との区別は無くなる。

 多様な存在は有るが、多様な無は有り得ない。死後に無になるとしたら、無なるものは一つしか無いので、死者は全てそこへ行く。そこで私は、全ての死者と一つとなる。

 死後に無にならないとしたら、死者には再会し得る。全て存在するものは、存在することが可能であった。また未来永劫、存在することが可能である。可能性が無くなることは有り得ないから。

 死んで無になるなら、死んで何かが失われるということは無い。何かが失われたという事実自体が無になるだろうから。

 死んで無になるなら、いつ死んでも同じだろう。どう生きても結果は同じだということになる。いずれ死ぬなら、今死んでもよく、今死ななくてもよい。

 いつ死ぬかが問題になるのは、死に生を当てはめて考えるからだ。生においては、何事もタイミング次第で良くも悪くもなることを知っているからだ。いつ死ぬかを気にするのは、死んで無になるとは思っていない証である。

 死を恐れることは、無になることを恐れることではない。むしろ死を恐れているのなら、それは死後が無ではないことを前提している。

 死とは何か、死後はどうであるかについての完全な理論を構築できたとしても、それは信用に値しない。死を語れる理論は無い。理論の構築も理解も応用も、全て生きている間の出来事であって、生きている間に死をいかに分析し理解することができたとしても、実際に死んだ瞬間にそれらが全て誤謬であったことが明らかになることがあり得るからだ。

 死については分かりようがないので、死について考えることが無駄であるかどうかすら、分からない。死が分かるものであるのか、分からないものであるのかということ自体が、分からない。実際に、死について様々に考え、語り、態度を取ることができる。

 死ぬ前にはまだ死は無く、死んだ後にはもう死は無く、死そのものは境界でしかないのだから、死の有る時など存在しない。だから死ぬ前も死ぬ前ではないし、死んだ後も死んだ後ではない。

 来世が有るかどうかは、来世に記憶を持ち越せるかによる。記憶が持ち越せなければ、来世に行ってもそこが来世と分からない。

 前世の記憶が有ったとしても、またその記憶と符合する証拠(記憶通りの場所や人や物)を見つけることができたとしても、なお前世の存在を証明したことにはならない。記憶はどうしても現世で得たものでしかないからだ。

 前世での死の記憶があったとしても、次に来る死がそれと同じとは限らない。

 死後、全く同じ人生がもう一度始まる可能性があることは否定できない。しかし現に生きているこの人生が、同様に回帰してきたものであることは証明できない。回帰を証明するには、私は前の回帰の記憶を、それも完全な形で持たねばならない。断片的な記憶なら、同じことが起きていることの証明にはならないからだ。ということは、私は私の生の未来に起きることをも完全に知っているのでなければならない。しかし未来のことを知っているのなら、その知っていることによって、却ってその未来を変えることが可能となる。かくして回帰は回帰でなくなる。それは可能性に留まる。

 死については仮定するしかない。

 死後が無でなく、何かが残るのだとしても、それでも今のこの私の人格は、死と共に失われるだろうという漠然とした確信がある。

 この確信がなければ、死を想うこともないだろう。事が上手く運ばず、問題が解決不能と思われるにつれて、死への憧れは強まっていく。

 不幸な人間は、万事に乗り越え難いものを見る。八方塞がりの中、まだしも越え易いものとして、死が存在を主張してくる。生と死とが選択肢として、代わる代わる立ち現れる。

 その上不幸な人間は、生における問題を一つ乗り越えられたとしても、その先にはまたその次の問題が待っているだけだ、ということをも知っている。その意味でも万事は乗り越え難いのだ。

 生は自己を追いかけ、追い詰め、選択を迫ってくる。それに比して死のなんと優しいことか! 死は静かに待つだけだ。そしてその先には何も追ってこない。

 全ての苦しみは生の苦しみである。死は人を苦しませない。死を避けることもまた、生がそれを強いるのだ。

 死が良いものだと考えることと、自由意志により今すぐ死ぬことができるということとはまた別の問題である。死が良いものだとしても、だからと言って今すぐ死ねるものではない。生きることを選んでいるというよりは、死ぬことを選べないのだ。

 現に生きているからといって、生きることを選んでいる訳ではない。ただ生きてしまっているだけである。死もまた同じく、たとえ自殺するとしても、死んでしまうのみであり、死を選んだのではない。

 自ら死なない理由をもっともらしく挙げることはできるが、死なないのが本当にその理由によるのかというと怪しいものだ。実際には、単に死にたくないから、死なないだけではないか?

 死ぬ理由にしても同じだ。理由があるから死ぬのではなく、単に死ぬしかないだけなのでは?

 生の中で何かを手にすることができた者は、死と共にそれが失われることを恐れる。その恐れから、死んでも自分が無になる訳ではないとか、世界が無になる訳ではないとかいう希望的観測を欲するようになる。

 死によって全てを失うと覚悟しておいた方が健全だろう。

 これからも生き続けるものに、子孫に、社会に、歴史に何かを託すことで、自己もまたその中に生き永らえるという。都合の良い妄想だ。私は死ぬ。そいつらも死ぬ。何も残りはしない。

 生の中にも多くの死がある。最後に来る死は単なる象徴のようなものだ。

 生きているだけで老いていく。醜くなり、病気になり、身体も知覚も思考も衰える。得意は失意に変わる。終には失意すら無くなる。将来は尽き果てる。

 命より大事なものはない。ただしそれは、その「大事なもの」と、命が別ではないからなのだ。その人が大事にしているものが、その人の命なのだ。

 全てを失って死ぬ場合、それは死ではあるまい。既に死んでいたのだ。

 何も失わずに死ぬ場合、それは恐らく即死であって、死を認識する暇が無い。

 実際に感じられる死は、時間をかけて何かを失う過程である。

 最も恐ろしいことは、取り返しのつかない過去と、どうにもならない未来に挟まれて絶望することだ。全てが無意味にすらならず、悪しき意味に満たされていることだ。地獄とはそういう場所だろう。

 全てが無になるのなら、問題を感じる自己も無いので、何も問題にはならない。

 得たものが無意味だったなら、喜んでそれを捨てられる。

 得たものを失った上にそれへの執着だけ残るとしたら、それこそ恐ろしい。

 転生という発想は、生きて存在するものたちの根底的な同質性を前提する。最も不幸なものも、最も醜いものも、私の仲間だ。私はそれらになるかもしれないからだ。

 「こうはなりたくないな」と思ったものに実際になってしまうかもしれないことが、未来というものの恐ろしいところだ。未来の極限は死で、死後には何にもなり得る。なってしまうなら仕方ない。問題は現在のその嫌悪にある。

 死んで身体が消滅しても、それでその人が無になる訳ではない。

 物が壊れても観念は残る。観念の消失は自覚されない。何が無くなったか分からないので、無くなったことにならない。だから観念は無くならない。

 忘却は消滅ではなく、再会可能性である。観念は待ち続ける。

 死を超えて何かを残すという発想が誤りなのだ。初めから全ては、無か、永遠か、でしかない。どちらにせよ何も得られず、何も失われない。

 有るものが無くなることを死と呼ぶなら、私は瞬間毎に死んでいる。瞬間毎に死に、瞬間毎にまた生まれる。瞬間に死ぬことは瞬間に生きることである。生がそのまま死であり、死がそのまま生である。

 生まれは選べるものではない。選べるなら既に生まれていたことになるからだ。だから今この瞬間に私がどのようにあるか、私は選んでいない。生きるか死ぬかそれ自体、私は選んでいない。生死に選択の余地は無い。

 私はこの世界にこのようなものとして生まれることを選ばなかった。全く同じく、今此処でこのようにしていることをも、選んではいない。

 変化一般がその都度の死であるとすれば、死とは何か、また何故死が有るか、等と問うことに意味はなくなる。静止した世界は無に等しいからである。こう考える場合、死は存在の終極ではなく、存在の条件(根拠)である。

 苦痛が有るから、その先に死があると認識できる。苦痛を伴わない死は認識されない。苦痛なしに死ぬとしたら、死んだことに気付けない。だから今この瞬間に死が有るとしても、それが死だと気付けない。しかし変化一般を死と呼ぶなら、現に現われる世界は時々刻々変化しているのだから、時々刻々に死は有る。やがて来る死も、現に有る死と根本的に異なるものではない。

 死後どうなるかは、予め決まっていない。