「私」という言葉を、あまり哲学に持ち込みたくはない。哲学は私無き真理を求めるべきだ。私はむしろ真理を攪乱し、濁らせ、覆い隠している。
だがこの認識自体、私を捨て去りたいという、私の願望ではないか?
人間などどうでもよい。人間の真理は取決めに過ぎない。真理は人間がいなくとも真理でなければならない。生も死も問題ではない。宇宙もその法則も問題ではない。それは人間にとっての宇宙だからだ。全ては宇宙の内に有る。では宇宙は何処に有るのか?
「何であるか」は不味い問いだ。何でもないのは自明だからだ。
「何故であるか」も同様に不味い。理由が無いのは自明だからだ。
物事はどう動くか予想がつかず、何処から危険が迫ってくるかも分からない。そこで可能性の認識が生じる。数多ある可能性の中から現実になるのは一つである。その一つが知りたいから、法則の概念が生じる。法則によって予測して、危険を避ける。しかし法則があるなら、避けられなかった危険もまた、法則によって起きたことになる。避けられ得ない危険が存在する。だから今度は法則が恐ろしくなる。そこで自由の概念が要請される。自由は法則からの自由である。自由は意志の力である。意志は望んだことを引き起こす力である。ところで法則もまた、数ある可能性の中から一つを現実とする力なのである。だから自由とは法則からの逸脱であると共に、法則に対し新たな法則を持ち込むことでもある。意志は法則である。そして法則は意志なのだ。だから自由と必然の相克、意志と法則との相克とは、意志と意志との相克なのだ。かくして全ては自由となる。自由な物事はどう動くか予想がつかず、何処から危険が迫ってくるかも分からない・・・
全ては無常であり、無常には実体が無い。
有るものは絶えず生滅している。堅固に思えるものも瞬間毎に生じ滅している。瞬間と瞬間とは断絶する。持続ということが無いので、ものは力を発揮しない。ものが力を発し、その力が持続し、次の事態を引き起こす、ということは無い。動きは有るが、動かすものは無い。主宰者がいない。全てはただ、生じる通りに生じ、滅する通りに滅するだけだ。これが無常にして無我ということで、だから無常は思い通りにならない。
無常における生起は、何によっても引き起こされず、規制されない。だから無常における生起は偶然である。もっともこの偶然は必然と表裏一体であり、なおかつ世界が必然であるか偶然であるかということもまた真理として実体的にはあり得ず、無常なのではあるが。生起はただ不可避であるという点で必然であり、如何様にもなり得るという点で偶然である。
思い通りにならないこと、自由と対立する事物の必然性については、因果律の存在から理解され得る。思い通りにならないのは、私の意志を規制しその振舞いを決定するような、諸々の原因のせいだと考えられる。しかし因果律を持ち出すまでもなく、単にこの現実がこの今しかないという、この直接的な事実から、既に生起の不自由は成り立っている。現に有るのはただこの一瞬間だけだ。瞬間に前後は無く、原因も無い。全てはただ端的に、突如として、全体として与えられる。そこに自由の余地は無い。
まず状況が有る。
状況の中に、私と他者が見出される。
全ては状況の中に配置されている。
状況を抽象することにより、状況を構成している個々の事物が得られる。
要素が集まって状況を成すのではない。状況以前に要素は無い。
「状況は私により知覚され、思考される」ということもまた、状況の内に有る要素に過ぎない。
私は状況に先行しない。状況は常に私を超え、私を含んで有る。
状況が私を与える。私が状況を表象するのではない。
世界は私の世界ではない。状況は私にとっての状況ではない。
主観と客観との関係は、単に数多ある関係の中の一つに過ぎず、現象の根底に関わる第一の関係では決してない。
現実は概念操作により成り立つ訳ではない。操作が行われる場が現実であるから。
抽象は現実を単純にも複雑にもする。
抽象という迂回をしつつ現実に関わるのは一種の怯懦なのか。
だが「抽象無しの現実」など、甚だ抽象的ではないか? それはどういう現実なのか? 「こういう現実だ」と語ることができるのなら、それもまた抽象を免れまい。
抽象を極め、全てを緻密に語れば、それは具体になる。具体は高度な抽象である。
また具体は具体として(つまり語るまでもなく現にこのように知覚されたこととして)扱われる時、却って抽象的である。
抽象的に緻密に語られれば具体、明白に具体的に眼前に有るものは、却って抽象である。
具体的現実を知りたければ、抽象せねばならない。抽象は迂回ではない。
明白さは囚われである。
「哲学で世の中のことが分かるか?」
「世の中などどうでもよかろう。」
「では哲学することで、世の中から逃げているのか?」
「哲学に逃げることもできるし、哲学から逃げることもできる。」
非難したいものなら何でも、逃げと呼ぶことができる。何からでも逃げることができる。生きることからも死ぬことからも。よって誰もが逃げているし、誰も逃げていない。逃げることから逃げることすら可能だ。
楽園のような世界、快楽に満ちて一滴の苦痛も無いような世界でも、そこに生まれるには値しない。生まれる前にその快楽を欲しているものは無いから。
この世に生もうとする意志は有る。生まれようとする意志は無い。
生まれる前と死んだ後が同じであるかは定かではない。
無を本来あるべき常態・基体とみなし、生がその無の中に生じた一時的攪乱のようなものと考えるなら、生まれる前と死んだ後とは等しい。だが時間はそのような構造になっているか。
「生まれてこない方が良かった」と考える者が自殺しないことは、不合理なことではない。生まれる前が無であっても、死んだ後が無とは限らないから。
生まれたがっている子供はいない。
「生まれてこない方が良かった」と言っても、それを認識している私は既に生まれているので、遅すぎる。
また生まれる前にその真理を知ったとしても、それで自身の出生を防げたかどうかは謎である。
現に有るこれが、このように有るということ自体、不条理なのだ。
私の出生に関する限り、反出生主義はこの不条理を表現する一手段である。
記憶が無いことをもって、生まれる前が無であったと判断することはできない。
私自身が望んでこの世に生まれた来たのだが、それを忘れてしまっただけだという可能性は捨て切れない。
しかし選んだそいつと今の私は別人ではないか?
生まれる前が無であったかどうかは不明である。
全ての子供は生まれる前には地獄におり、この世に生まれることによってのみ束の間休息を得るのだ、と仮定することもできる。
生まれる前が無でないと主張する者は、無でないなら何が有るのか、具体的かつ科学的に証明し得るのでなければならない。
生まれる前について考えることができるのは既に生きている者のみであり、生きている者は死ぬことはできるが、生まれる前に戻ることはできない。生まれる前の存在にそれを尋ねることができたとしたら、その存在はもう生まれている。故に生まれる前が実際にどのような状態であったかについては証明のしようがない。
生まれる前の状態については水掛け論にしかならないので、反出生主義への有効な反論にはならない。反出生主義は、生まれる前は無であったか、現世よりは良い状態であったことを仮定して論理を立てる。反対者のすべきことは仮定に反対することではなく、別の仮定(生まれる前は無ではない、あるいは現世より悪い状態である)に基づく別の論理を立てることである。
現に私が有る限り、私は無を思い描けない。何かを思い描けばそれは無ではないし、私がいない世界を思い浮かべたとしても、それを思い浮かべている私がいる。
AがBを引き起こす時、AはBの根拠である。では何故AはBを引き起こすことができるか。AとBを媒介するCが根拠に有るからである。ならさらに、AとC、CとBの間の根拠が求められねばなるまい。これは無限に続くため、AがBを引き起こすことは遂には無根拠であると考えざるを得ない。
石を手に持ち、放すと、落ちる。これは必然ではない。石は浮かび上がってもよかったのだ。浮かび上がった場合、原因が追求される。原因は見つかる。しかしその原因が石を浮かび上がらせたのだということが事実となるのは、既に石が浮かび上がった後なのだ。浮かび上がる前には、原因は無かった。原因は事後に構成されたのである。
物が動く時、その動きを無限の段階に識別することができ、更にその無限の段階の一々を現実に体験できるとしたら、過程が無限である以上、その動きは完結しないことになる。これはどれほど小さな動きにおいても成り立つため、一般に運動が不可能となる。
無限の分割・識別が可能だとしたら、動かない。完全な連続は運動を不可能とする。だから、運動には必ず断絶が含まれる。一つの運動を構成する瞬間は、有限個である。時間には分割不能な限界がある。瞬間は飛躍している。だから動くのだ。
ある状態から、次の状態に行くことが、動くということだ。つまり動きは断絶した動きだ。動きとは普通、滑らかな、無限にきめの細かい連続と思われているが、そうではない。
連続していたら、むしろ動けない。無限に連続するものには、「次」が無い。完全な連続とは無限に細かい動きであるから、「次」に行こうとするその一歩は、無限小でなければならない。だがどんなに小さな動きも、無限に小さくはない。だから動けない。無限に小さく動けたとしても、それは無限の過程となるから、いつまでも「次」に辿り着けない。
連続体とは一つの塊なのだ。もし連続体が有るとしたら、それは一瞬間の内に直観される。連続は時間ではなく、空間に有る。動は連続体ではない。
断絶の無い連続とは、瞬間の不在、無限の過程、段階の一切無い変化、を意味する。だが無限の過程は完結せず、段階を踏まない変化は変化ではない。連続のみでは動きは無い。動きは断絶に、瞬間に、瞬間の狭間の無によって有る。
世界は動いている。これは確かなことだ。瞬間はそれ以上分割できない。これも概念上確かなことだ。だから瞬間の内部は静止している。そして現にある動きは常に有限個の瞬間よりなる。
以上のことは仮説として正しい。ただし、ここから「現にある動きは無限に分割できない」ことは導けない。考えられた動きと、現実の動きとは異なるからだ。
考えられた動きは、「何処かから何処かへの」動きだ。これを無限に分割できるかどうか、答えるのは容易い。無限に分割できるとしたら、運動は不可能だからだ。もし動きを無限に分割できるとしたら、如何なる小さな動きの中にも、無限の過程があることになる。無限の過程は完結しない。だから運動は不可能となる。しかし、それは動きの表象、軌跡・図形化された動きについて考えた結果、導かれたことなのだ。
これに対し現実の動きは、「何処から来るのでもなく、何処へ行くのでもない」動きだ。これについて、そもそも分割という概念が成り立つのかも怪しい。現実の動きを無限に分割したと仮定しても、その動きの一々を現実に体験することは可能である。確かに、現実の動きは分割されている。「さっき」と「今」の区別はつく。動きは永遠に未完了でありつつ、常に完了している。だがその動きが無限に分割されたものなのか、有限に分割されたものなのかについては、全く不明である。その判断は動きを外から見た時に初めて可能となるが、世界は現にこの動きの全体としてあるのであり、動きに外はないからである。
例えば、ボールを蹴ってから地に着くまでの間を無限分割できるかというと、できない。できるとしたら、ボールはいつまでも着地しない。これが考えられた動きというものだ。
現実の動きはもっと大きく、最も大きい。現実の動きはボールを蹴る前から動いていたし、着地後も動いている。また、仮にボールがいつまでも着地しないとしても、それはそれとして、そのいつまでも続く動きは、現実に動いていることになる。こういう動きをさらに分割するの、しないのと言ってみても無意味だろう、ということだ。だから現実の動きは、有限に分割されていると見ても、無限に分割されていると見ても、結局同じということになる。
考えられた動きを無限に分割すれば、運動は不可能となる。現実の動きを無限に分割しても、運動は不可能とならない。無限なら無限のまま動く。現実とはそういうものだ。
さらに簡潔に言えば、始点も終点も無い現実の動きにおいては、有限も無限も無い。動いているものは動いているのだから、その分割の粒度は全く問題にならない。
故に「瞬間は具体的に何秒か」などと考えることにも意味はない。瞬間は数値ではない。
動きの最小、識別の限界の概念として瞬間を仮定することは正しい。
考えられた動きと現実の動きの違いは、考えられた動きは一個の連続体であり、概念としてなら、無限個の瞬間をその中に詰め込めるのに対し、現実の動きは現実の進展であって、分割できない瞬間の連なりから成る、というところにある。
両者においては瞬間の意味が異なるのだ。考えられた動きには、「最小の動き」などというものは無い。概念としての時間は、数値として無限に分割できる。ただそれを現実の動きに適用することはできない。考えられた動きにおける瞬間は、動きの全体を前提としてそれを分けたものである。現実の動きは未完結であり、全体を前提しない。瞬間は動きを分けたものというより、動きを現に成すものである。
考えられた動きにおいては「動きから瞬間へ」という方向しかないが、現実の動きにおいては「瞬間から動きへ」という方向がある。というより瞬間の有がそのまま動きの有、瞬間即動、動即瞬間である。
私の生涯の全ての瞬間をばらばらに切り離し、順番を滅茶苦茶にして繋げ直し、できた過程を改めて生き直すとしても、その中を生きる私は何の違和感も持たず、自然な経過を体験するだろう。
瞬間はそれぞれに完結しており、正しい順番を持たない。
「動かす」「動かされる」は相対的だ。
私が右手を挙げる時、私が私の意志により、私の右手を挙げるのだと普通は言う。
しかし逆かもしれない。むしろ右手が挙がりたがっていて、自分が挙がるためにこそ、私を利用したのかもしれない。
ここで脳を持ち出しても話は変わらない。脳は周囲を知覚し思考するが、右手はそれ自身で知覚も思考もしない、だから脳が右手を上げることがあっても、右手が脳を動かすことはない、と普通は考えられる。しかし知覚や思考が無いからといって、意志も無いというのは自明だろうか? むしろ右手を挙げるための知覚や思考が、脳や神経の働きが、右手によって要請されたとは考えられないか?
因果関係は因果の両者により成り立つ。
未だ如何なる結果も生まない原因は原因ではない。
結果が生じる時、既に過去は無く、原因も無い。よって結果も結果ではない。
結果が有る時原因は既に無く、原因が有る時結果は未だ無い。因果は関係しない。
瞬間は断絶し、因果は必然でない。故に生起は予知できない。予知不可能なものが突如として生じるのだから、生じたものの理解は、現に生起した後に得るしかない。生起と同時にその生起の理解があるとしたら、それは何が起きるか予め知っていた場合のみである。だがそれは不可能だ。法則から未来を予知する時ですら、予知が的中するか否かは、現に生起してからでなければ分からない。
自由の概念は苦との関係においてのみ意味を持つ。苦しみが無ければ、自由も不自由も問題にならない。苦が有るのが不自由であり、無いのが自由である。これ以上の定義は無い。
選択自由意志の概念にしても、まず苦痛が有るからこそ選択肢が生じるのだ。選択とは常に「どちらがより苦ではないか」の選択なのだから。
また選択は可能性の概念と共に有るが、可能性の概念が要請されるのは、現に有る苦が無ければ良いのにと(または現に無い快楽が有れば良いのにと)思う時だけである。
「決定論か非決定論か」などということが問題となるのも、前者は慰めになるし、後者は励ましになるからという、ただそれだけの理由による。決定論は苦が不可避であったことを語り、非決定論は後の苦が回避可能であることを語る。
「苦痛は有るが、それを無くしたいとは思っていない状態」は、有り得ない。無くしたいと思っていないのなら、それは苦痛では無い。「苦痛の存在を肯定する」ということは、有り得ない。肯定できるものは苦痛ではない。「苦痛を必然として受け容れる」ということも有り得ない。苦痛は無ければ良いものなのだから、不可避の必然ではなく、無くても良かったはずの偶然でなければならない。「苦痛と戯れる」ことはできない。苦痛はそのように生易しいものではない。これらの戯言は苦痛を苦痛として直視しない。苦痛の有り方として有り得ないものを苦痛に押し付け、苦痛の定義を捻じ曲げることで苦痛が解消するかのように見せかけているだけである。
自分の身体がある。これは自由に動かせる。自分の心があり、これも自由に動かせる。ではそれらを動かしているものは何なのか。それは自分そのものか。そのようなものが何処にあるか。――動かしているのではないのだ。自分が自分の身体を心を動かすのではなく、身体として心として動くものが自分である。また身体が心を動かすのでもなく、心が身体を動かすのでもない。身体の内には脳があり、脳の仕組みで心が動く。また心が動けば脳も動き、身体が動く。どちらがどちらをというのでもない、動こうと思って動く、否、現に動くということがそのまま動くということで、この動きが自己である。現実の動きから身体が、心が、そして自分が分かれてくるのであって、本来一つの動きしかない。
成し遂げたことが何もなく、みんなに軽蔑されていて、ただ苦しんで生きて死ぬだけだとして、そういう人間が堂々と威厳を保った態度を取ったら、周囲はさらに軽蔑を深めるだろうが、それはそれとしてその人間は立派ではないだろうか。偉くて堂々とするのは当然であり、偉くない。偉くないのに堂々として、初めて偉い。
瞬間は一つ一つ独立であり、繋がらない。繋がらないから無根拠であり、偶然だ。偶然だがこれしかない。現に有る通りに有るのが現実だ。だから現実は必然だ。瞬間は偶然であり必然だ。こうでなくともよいが、こうでなければならない。つまり、自由だ。瞬間は自由意志なのだ。
死ぬために生まれてきた。言い換えれば、宇宙は私を殺そうとしている。
神に生まれたかった。さもなくば虫に生まれたかった。
いずれ死ぬなら、既に死んでいるも同じだ。生者は死者である。死者が死者を生む。いずれ死ぬものを何故生むのか。
生が終わるまでの現象は、死に至るまでの現象であり、生に押されることは死に引かれることである。だから生は死であり死は生なのだ。生の領域から死の領域へと向かうのではない。一つの絶対的生死が有る。外は無い。