自分のことは放っておくに限る。
私は私の主人ではないので、私に命令もしない。気遣いはするが。基本的には好きにやっていてくれればいい。苦境には同情するが、何もできはしない。本人の意志次第だ。
この世界は私の世界であり、この世界の存在と私の存在とは不可分である。
――であるならば、この世界の存在と、路傍の石の存在もまた不可分である。
――そんなことはない、この世界が有る限り私も常に存在するが、路傍の石は時に有ったり無かったりする。その石が存在しなくてもこの世界はこの世界のままだが、私が存在しなければ、この世界はこの世界ではない。
――しかし、現にその石が有るなら、その石が無い世界は本当に「この」世界であるのか? 世界とはそのように抽象的なものであるのか? 何かが有ったり無かったりしても「同じ」世界であるような、幅のある概念が世界なのか? その認識が成り立つのは、初めから世界の存在根拠として私を定義し、それ以外を世界という言葉の定義から捨象したからという、ただそれだけのことによるのではないか?
自分が自分ではない不安から他者の問題が生じ、自己は実体に、他者は仮象に振り分けられる。自己は世界の存在根拠・認識の唯一の原点として祭り上げられる。他者と不可分の混濁した自己の有り様は、むしろ自己ならざるものとして他者化され、やはり仮象とされる。
私の生は私と全ての他者との共同作業である。
心の問題は心には解決できない。
思い通りにならないものが苦である。ただし、「まず自分の思いというものがあり、その思い通りにならないものがあって、両者の結合によって苦という事態が生じる」ということではない。結合ではない。まず苦が有るのだ。苦があって、それから自他が分かれる。自他が苦の根拠であるのではなく、苦が自他の根拠である。苦以前に自他は無いのだから。
世界は知覚の塊であり、その中には自由に動かせる部分とそうでない部分がある。自由に動かせる部分が私の身心である。
身体は私の思い通りに動き、行為を行う。他の物に干渉して間接的に動かすことも出来る。
身体を動かすものが神経であるとすれば、私が直接動かしているのは神経であり、身体もまた間接的に動かされているだけだと言えるだろう。無論私は神経細胞において起こる物理作用を完全に理解し操作している訳ではない。ただ身体がそのように動くことを欲し、身体はその欲した動作をある程度の精度で実現してくれるというだけである。
私は身体のみならず、思考・想像の内において、心としても行為を行う。思い浮かべた像は自由に動かすことができる。考えたことを言葉として内心で唱えることができる。あれが欲しい、これは欲しくない、と判断することができる。苦痛を避け、快楽を求める。
私が身体を持たない知覚だけの存在だったとしても、快いものに近づき不快なものから遠ざかろうとすることに違いはないだろう。身体が無くとも、私は身体的である。
有るものが何であるかは、それが何として規定されるかによる。規程は既に「それが何であるか?」という問いを前提する。問いはそれに答えねばならないという衝迫を前提する。衝迫とは苦痛である。ものの規程は苦に根拠を持つ。
人生航路って言っても、持って生まれたものと、外から与えられるものの組み合わせで今の自分があって、その今の自分の力と他者の力が更に組み合わさることで、成り行きでそうなるってだけですからね。流れです。勝手に動きます。自分がしっかりしてれば大丈夫だとか、もっとしっかりしてれば良かったとか、考えちゃうのはまあ分かるんですけども、実際それは真理ではないです。
世界は組み合わせでできています。組み合わせってことは、つまりその、自分がいて他者がいて、その総体が現実の自分(=自分の現実)で、だから自分っていっても他者がそこに混じっているのであって、他者には他者の都合があるんだから、「これが自分だ」って言っても、その「自分」が正に思い通りにならないものなのだ、ってことを言ってるのです。「作り成されたもの」は不自由です。「作り成されたもの」ではないものであれば、それは「それ自体で存在しているもの」ですから、それ自体で自由ですし、自分が何であるかを自分で規定して自分だけで進んでいくこともできるでしょうが、人間はそういうものではないです。
しかし、組み合わせはどうして成り立つのか? 「作り成されたもの」はそれ自体で存在しているわけじゃないけど、組み合わせられるもの(作り成すもの)についてはそれ自体で存在するのか? つまり、自分の行く末が、自分の力と他者の力との組み合わせで決まるものだとするなら、自分の自由ってのも半分くらいは真実であるのか? とか考えると、そうではない。要素がまずあって、それが組み合わされるわけではないです。要素ではなく、まず全体があります。どーんと大きな全体があって、それが動いています。要素はその動きの中から切り出されてきます。自分もその中にいます。大きな動きの中に自分がいて、それを「自分が(自分から、自発的に)動いている」とか言ってるわけですけど、違います、動いてるのは自分ではありません、自分を含んだ全体です。自分っていうのはただその中に置かれてるだけです。全体に置かれた後に、「あ、ここに自分がいますね」というのを、切り分けて、判断して、認識しているだけなのです。でもその切り分けること以前に自分ってものがそれ自体で存在することはないのです。
楽になりたければ要求を下げましょう。ただそれは、諦めるのとは違います。諦めるということは、未練があるということです。そうではなく、初めからそれに拘る必要がなかったのだと認識すること。
人生は一つのゲームだが、どういうルールでプレイしているかは人による。重要なのは、自分に合ったプレイスタイルを見つけることだ。
様々なゲームがある。相手方より多く点を取って勝利することを目指す対戦型ゲームもあり、何らかの成果物を作成していくこと自体を目的とする創造的ゲームもあり、対象の鑑賞や研究が目的である場合もあり、他者に貢献することを目指す場合もあり、いかに長くゲームを続けるか、あるいは、いかに短く済ませるか、といったゲーム性もある。
総体としてのゲーム目的は、自分の性質に合ったゲームをプレイし、苦痛と快楽のバランスを調整し、ルールを整え、なるべく満足いく経過を送ることにある。スタイルを構築することが重要であり、そのスタイルから何を為すかはさして重要ではない。
私が、私の、身体を動かす、と考える時、動かす私と動かされる身体とは分離している。このことから、私の身体と同様に、何ものかにより動かされている身体が存在するという考えが生じる。私の身体に私(の心)が宿っているのだとすれば、私の身体以外の物にも、私と同じようなものが宿っていることが考えられる。その宿っているものこそ私の同類であり、物を動かす真の主体であるということになる。
しかしそのように何かが何かに「宿っている」という考えをとる必要があるのか。私の身体に私が宿っている訳ではないのではないか。私とは現に動いているこの身体のことであり、それ以外の何でもないのではないか。動かすものと動かされるものとは一つであって、この身体の、動かすのでもなく動かされるのでもない動きそのものが、そのまま私そのものなのではないか。
この身体の動きそのものが私であるなら、他者にもまた、私に類する何かが宿っているとかいないとかいうことも無いということになる。この身体の動きが私であり、それ以外の動きが他者である。
世界の全体の動きから、私の身体の動きは如何にして切り出されてくるのか。私の身体はどのように、私の身体として認識されるのか。そのことの根拠として想定されるのが、「動かしている私」の観念である。「動かしている私」が動かしている範囲が、私の身体ということになる。しかしこれは話が逆である。「動かしている私」が動かしているのが私の身体なのではなく、私の身体が端的に識別されるということが最初にあって、その根拠として後から登場するのが、「動かしている私」の観念なのである。私の身体の識別自体は無根拠である。
だから、他者の身体の識別もまた無根拠であると言ってよい。それぞれの物は、そこに何かが宿っているとかいないとかと関わりなく、端的にそれぞれの物として動いている。全ては自然に識別されたままで、私の同類である。主体の動かすものと、主体性のない単なる客体を分けることはできない。そこに私の有り方(私が私の身体に宿って動かしているという仮定)との類比は不要である。
それにしても、私の身体は他の物とは明らかに特異であるように思われる。確かにこの身体を「動かしている」という感覚・感情がある。またこの身体は知覚の中心であって、実際に見たり聞いたり、快や不快を感じたり、痛んだりする。他の物については、その物の感覚や感情は感じられない。このことからもまた、この身体には他の物とは違った特別な要素が宿っているという発想が出てくる。私の身体の感覚だけが実際に感じられるのは、その要素のお陰であるというわけだ。
しかし、感覚とは本当に何か特別な存在者であるのか。私の感覚とは、つまり他者ではないか。身体の外に感じられる感覚・物と、内に感じられる感覚・情とは、結局は同じく客体ではないか。つまり「私が、私の、感覚を感じる」というこの事態もまた、結局は、「私が、私の、身体を動かす」ということと同じことではないか。私があり、他者があって、それぞれに独自の感覚が宿っていて、その中で実際に感覚できるのはこの身体についてだけ、ということではなく、そもそもそのように各自に宿っている感覚など無く、単にこの感覚が、それぞれの感覚として識別されて、このように現われているというただそれだけのことなのだ。他者のそれとは異なる私の感覚を可能にする要素としての私とは、単に存在するそのような感覚を根拠付けるものとして後から想定されるのみである。よって、「感じていること」をもって私の同類とその他を分けることもできない。私は感じるものではないからだ。
世界は目的に向かう過程ではなく、目的そのものとしての過程である。
無駄や徒労は存在しない。それらは目的を前提するが、目的は存在しないから。
快楽や幸福は目的ではない。それらは有り得る一つの状態に過ぎないから。
目的が無いから、何も無駄にはならない。虚しくはない。未来における報いも無い。現に有る状況が、過去の報いであることも無い。
何処へ流れ着くことも無いし、流れ着いたところは終極ではない。
永劫の苦痛が与えられることは有るかもしれない。しかしその永劫もまた一つの過程として、一々の瞬間として、与えられる。
予め決定された過程は無い。如何なる状況が生起することもあり得る。そして起きることは起きるべくして起きる。
現に有ることを現に有ることとして受け容れること、受け容れて余計な注釈を付けないこと、存在を二重にしないこと、その中で自然に展開される状況に任せること、これが苦痛を逃れる道である。
存在が単に存在することに安らう時、何処にも問題は無い。
すべきでなかったことの認識が後悔である。すべきでなかったことは、しないこともできた筈のことである。すべきであったことと、現実にしたこととの齟齬により後悔が有る。
行為選択の自由は後悔により理解される。後悔が無ければ、選択も自由も認識されない。
過去の自己と現在の自己との同一により、過去の自己の自由は現在の自己の自由である。現在の自己の自由は、過去の自己への後悔により理解される。後悔への対処として現在の自由が有る。
後悔の観念が無ければ、現在は単なる確定的現実であり、為すべきことと現に為すことが分かれない。
後悔の観念が有る限り、現在の自己は、後悔しないように行為すべきであると感じる。
未来において生じ得る苦への予期が不安である。
単なる不安においては苦への予期が有るのみであり、自己の自由の理解は無い。自由は後悔を根拠とする。
未来においては現にしたことは無く、すべきことだけが有る。
未来においてすべきことは、後悔に根拠を持ち、現在予期されて有る。
未来においてすべきことは、後悔しないためにすべきことである。
過去への後悔により、未来の自己の行為への不安が、即ち未来の自己の自由が生じる。
選択の自由は過去から生じる。また現在をも未来をも過去として、後悔し得るものとして捉えることにより、自己は自由である。
自己は発する。他者もまた発する。そして全ての個、力が激突し、識別されつつ統合されてある場が現在の状況であり、世界である。
世界は常に動いているが、それは過去から現在へ、現在から未来への動きではない。そのような連続は無い。瞬間は断絶している。まず過去の経験があり、そこへの思案があり、次いで行為がある、というようにはなっていない。自己は突如としてこうするのだ。根拠は無い。根底的には、訳も分からずこうするのだ。
自己が、そして全ての他者が、無根拠に当てずっぽうに、同時にカードを出す。それで状況が決まり、勝敗が決まる。それが世界の全てだ。それだけだ。
これは一体何であるのか、なぜ世界はこのようになっているのか。究極を言えば、偶然だ。何かを何かたらしめる力、因果関係、意志、法則があったとする。ではそれらの要素はなぜ存在するのか。問いが尽きることは無く、答えは得られない。それらは、ただ存在するから存在する。これが一体何であるのか。現に有る通りのものである。一体なぜこのようなものが存在するのか。存在するから、存在する。そんなことは自明であって、究極を求めると哲学はすぐに終わってしまう。だから、哲学を続けたければ、究極でないところを求めていかねばならない。
具体的に存在するものと、観念としてのみ存在するものがあると思われる。
具体的に存在するものは、身の回りにある形の有るもので、知覚されるもので、時間と空間の中にあり、場合によっては作られたり、壊されたりするものである。
観念としてのみ存在するものは、直接知覚はできないが、具体的なものを通して認識することができ、それ自体は時間や空間の中にはなく、しかし現にあったり無かったりするもので、作られることはあるが、本当に消滅することはない。具体的にある限り、同じものは一つとしてないが、観念はそれとして想起される限り、常に同じものである。
両者は明確に分けられるか。現に身の回りにあるものが単なる観念でないことは、実際にそれを見聞きし、触れて見て、リアルに体感することで分かる。その知覚的リアリティを抜き去り、ただ記憶や想像において思い浮かぶだけのものとなった時、それは具体的なものではなく、観念となると考えられる。だが具体的に知覚できていたそれと、思い浮かべられるだけになったそれがもし同一のものであるのなら、具体的なものと観念との違いもまた存在しないということになるのか。
「あの時のあれはああだった」と語る時には、具体的なものについて語られているが、その具体的なものは観念としても扱われている。つまり、観念が具体的に扱われている。いや、そもそも、観念であろうとなかろうと、それを語る者の方が具体的である限り、語られたものについても具体的でしかありえないのではないか。例えば「愛」一般の本質について語る場合や、物事の「空しさ」や「無」について語る時でさえ、それらの観念は正にその時、その語っている今において具体的であり、知覚的であり、文脈的なのではないか。具体以外には存在せず、具体を超えたところには何もないのではないか。
私が、物に、触れる。動く私が動かない物に触れる時、私は能動、物は受動である。私が触れるのであり、物が触れられるのである。しかし私が触れると同時に、私は物に触れられるのでもある。接触そのものは能動でも受動でもないからだ。であるならば、私が物に触れると同時に、物が私に触れているのでもある。むしろ物の方が私に触れに来ているとすら言える。私が物に接近することと、物が私に接近することとは同時にあるのだから。よって、私にではなく、物に能動性を見出すこともここでは可能となる。物が私に触れる。私は物に触れられる。だから私に意志があるとするなら、物にも意志はある。物が私に触れようと、私の身体を引き付けたのだ。
歴史的に、人間生きてりゃ色々あった訳だ。例えば狩りが成功するとか、しないとか。病気に罹るとか治るとか。長生きする人もいれば早死にする人もいた。で、「何故これはこうであり、あれはああであったのか」っていう問いが出てくる。物事の分析が始まり、因果関係が得られる。因果の認識は人間の知恵の根本だ。それで少しずつ「こういう場合はこうなる」って認識ができてくる。情報は言語化され、伝播して、蓄積され、継承される。ということで集団的にある程度まとまった世界観が形成される。原因と結果が理解できたら、次は原因としての事象を自ら引き起こすことで、特定の結果を得ようとする。そうして生活のための技術が出来上がる。現象の分析と介入は生活の基礎で、ここに素朴な科学性と技術の基礎がある。
そうなんだけれど、人間は何でも分かる訳ではなく、何でも制御できる訳でもない。より良い弓を発明し、より良い狩りの方法を編み出しても、必ず上手く行くとは限らない。では結局、何故上手く行ったり行かなかったりするのかというと、分からない。色々と、そのつど原因を分析することはできる(天気・風向き・射手の体調・獲物の気質等々)が、では何故そのような要因が正にこの時このように組み合わされ、今回の結果を生み出したのか、ということについては、どうにも分からない。それは「我々の理解の外にある何らかの力で」としか言いようがない。ということで、不可思議な力・霊的なものが想定される。人間と同じように現象に介入して、望みの結果を得ようとする何らかの意志があると考えられる。ここに素朴な宗教の基礎がある。
理解された力と一緒に、理解されない力が認識される。そして全体的な世界観は因果の概念によって統一されている。これが現代まで通じる人間の普通のあり方だ。宗教的な力というと現代では排斥されたようにも見えるが、まだ「自然の力」とか「運」とかの概念が残っているし、「祈る」というのも普通に行われていることだ。どんなベテランでも、最終的に上手く行くかどうかについては、祈るしかない。
現象を理解するということは、現象を、それを引き起こすための要因、構成要素に分解し、条件を知ることである。何により引き起こされ、結果として何を引き起こすのかが知られている時、現象は理解されている。現象の理解は、必然性に貫かれている。確実性の伴わない認識は、認識として頼りにならないからだ。AはBを必然的に引き起こさねばならない。AがBを引き起こすこともあり、引き起こさない場合もあるというのであれば、その違いを生み出す要因Cが求められねばならない。しかしこのようにあらゆる関係性を必然性として整理したとしても、その関係性そのものが何故このように存在しているのかについては、決して答えが得られない。AがBを必然的に引き起こすとしても、何故AがBを必然的に引き起こすのかについては、「そういう性質だから」としか言えない。新たに要因Cを規定しても、AとBとCの関係の全体が何故そうであるのかという問いが生じ、新たにDが要請され、Eが要請され、完結しない。かくして探求は無限に続き、結論は得られない。このことは自明であるから、世界内には必然的に、理解された領域とされない領域が有る。理解された領域もまた根本的には理解されていないのであるから、両者は二つの対立する領域ではない。理解された領域は、理解されない領域に包含される形となる。
全てが他人事という感じだ。自分の意志で参加した活動というよりは、運悪く巻き込まれてしまった災害だ。
いや、これは単に比喩ではない。別にこの時代のこの場所のこの状況を選んで生まれた訳じゃないんだから。生まれが選べないってことは、生まれた後も選べないってことだ。「選択」ってのはただの言葉だ。最初に偶然与えられたものがその後の全てに影響する。
こういう理屈は因果の必然性を用いた決定論なのだが、別に因果を持ち出さなくても同じことが言える。というのも、今この瞬間、そして全ての瞬間が、生じては滅し生じては滅しというのを繰り返している訳だが、諸瞬間の間には何の関係性も成り立たないからだ。瞬間は断絶している。連続は、一つの瞬間の内部にしかない。一つの瞬間の内的分節が時間なのだ。時間の中に瞬間があるのではない。よって瞬間は常に断絶している。
もちろん、本当に断絶しているのなら「常に」とは言えないはずだから、完全な断絶ではなく、連続もしている。ただその連続もまた、唯一絶対の現実であるこの一瞬間においてしか存在し得ないということだ。瞬間は唯一絶対で、断絶しており、かつ他の瞬間を前提し、複数である。過去も未来も一瞬間に収まるが、その一瞬間もまた即座に滅し、新たな瞬間に存在を譲る。
早い話が、物事は流動している。ただ流動の中の瞬間相互に何らかの必然的関係を規定するのは不可能だ、ということだ。相互に断絶した瞬間の絶えざる生起がこの流動なのだから、流動の方向は予め決定されていないし、何かによって選択もされない。
つまり、「生まれを選ぶことができない」ということは、そのままこの瞬間の生起についての話にシフトできるのだ。私は今この瞬間に何をするかを選んでいない。だから一切の過去においても、未来においても、選んでいない。瞬間は常に一つの出たとこ勝負だ。私の意志を認める場合、まず或る瞬間があり、そこに私の意志があり、その意志が力を持って、次の瞬間における或る結果を引き起こす、というこのような過程が必要となる。無論そのような過程は無い。私が何かを思った瞬間と、その思いが動きを引き起こしたとされる瞬間とは別である以上、断絶しているからだ。別の側面から言えば、「私の意志によって引き起こされた」という認識自体が、無根拠に生じる瞬間の内部においてしか与えられ得ないからだ。
唯一絶対のこの今には、文字通りの存在する全てが含まれている。今が生起した理由は、今に含まれている。だから今には根拠が無いのだ。原因は無い。意志も無い。引き起こすものも引き起こされるものも無い。
ただ物事には、私の意志によって生じたと見做した方が良いことと、そう見做さない方が良いことがある。そこで一つ疑念が湧く。「原因は無い」「意志は無い」と説くこと自体の背後に、そのように認識することによって何らかの利を得ようとしている意志が存在するのではないか?と。
ということでここにまた別種の意志の概念が、即ち或る瞬間において次の瞬間を生起させる意志ではなく、瞬間において瞬間自身を解釈する意志の概念が出てくることになる。しかし瞬間における意志とは無根拠な意志であるから、たとえそのような意志の存在を認めたところで、最早その意志は「自由な」意志ではない。なのでやはりそこに選択の自由は存在しないのだという点に変わりは無い。かくして一言で言えば、「意志は意志であり、意志ではない」ということに尽きる。
無根拠に生起する意志というのは超越的にはこの上なく自由な(無限の可能性の中から何故か一つだけ実現される)意志なのではあるが、内在的には単なる強制に過ぎない。で、私は内在する存在者なので、当然この強制に服している。だから私は自由ではないのだ。