「こうすると幸福になれます」みたいな話はよくある。曰く「今ここに集中すると幸福になれる」「何事にも感謝をすると幸福になれる」「貢献すると幸福になれる」「目標を持つと幸福になれる」「考え方を変えると幸福になれる」「体を鍛えると幸福になれる」云々。
これらは幸福な人の幸福を分析した結果に過ぎないのであって、「これをやったら幸福になれる」という方法論として提示するのはおかしいのではないか? 今ここに集中して幸福になれるのは、今ここが元々幸福だった場合だけなのではなかろうか。今ここが虚しかったらどうするのか。或いは死ぬほど腹が痛い時に今ここに集中したら、幸福になれるのか?
他人に感謝したり貢献したり、目標を追いかけたり体を鍛えたりして幸福になれる人というのは、元々幸福な人なのではなかろうか。そもそも感謝できること、貢献できる能力があること、体を鍛える気力があること等々は、それ自体が幸福の証なのであって、幸福に先立つものではないのではないか? ということは、不幸な人間が幸福になる方法というのは無く、ただ偶然にそうなるしかないのではないか?
「自由意志(自由選択意志)は本当は存在しない」という話のバリエーション。
まず最もポピュラーなものとして、因果関係とか物理法則とかに基づいた自由意志批判がありますね。意思決定は脳味噌、脳味噌は物体、物体は物理法則に従う!原因があって結果がある、全部初めから決まってる!ってやつですね。しかしこれはあんまり筋が良くないです。何かって言ったら因果っていうのは因と果が揃って初めて因果な訳です。まだ結果を生じさせていない原因っていうのは、実のところ原因でも何でもない訳ですよ。つまり因果関係ってのはすでに完結したことについて言える関係であり、過去について言うことはできても未来においては成立しないんですね。今この状況がどういう原因から生じたものか、っていうのは色々挙げられるでしょうけど、この状況が原因になって今後何が起きるか、なんてのは予め言えるもんじゃないのです。というかそれこそ「意志次第」ということになってしまうでしょう。もちろん過去の経緯、知識、記憶に基づいて未来を予測することっていうのはできるんですが、それでも実際どうなるかは、やってみないとわかりません。というわけで、起こる出来事は因果関係によってあらかじめ決まってるから意志は存在しないのだ、って説明は成り立たないのです。因果関係はただの事後処理です。
じゃあ因果なしでどうやって自由意志を否定するのかって言ったら、(まあ因果関係が否定されただけで突然自由意志が出てくるはずもないのですが、)「必然性」って概念が鍵になります。因果関係は必然性を担保しません。しかし世界は必然です。何故かって言ったらそもそも世界は一個しかないからです。全てが存在する場所を世界と言うのだから、一個しかありようがないのです。もし複数の世界が存在するとしたら、その複数の世界を一個、二個、って数えてるその場の方が一個の現実世界なのです。そして世界が一個しかないってことは、当然起こることも一個しかありえないわけでして、だから世界内で起きることは全部必然(それ以外があり得ないってこと)になる訳です。世界の進行というのは、「因果関係があるから一個しかあり得ない」のではなく、「一個しかあり得ないから因果関係を見出すことができる」のです。
そうじゃない、世界には複数の可能性があって、その中から選択されたり、あるいは意志によって選択したりするのだ、とも考えられます。しかし現実は常に一つなので、可能性は妄想だと言うことが可能です。そもそも、因果関係が事後的であるのと同じくらい、自由意志だって事後的です。何かっていったら、まず行為があります。行為があってから、その善悪(都合の良し悪し)が判断されます。「あっ、やっちまった!」って思います。そう思ってから、別の行為を選択する「べき」だったという考えがでてきます。飽くまで「べき」です。しかしその「べき」が現実的に可能だったかというと、不可能だったのです。だって現に起きたのは、現に起きたことだけだったんだから。(「べき」と思うからには、可能だったはずだ。不可能なことをする「べき」だなどと考えられる「はず」がないから、という考えがあります。しかし「はず」もやっぱり所詮は「はず」です。)「自由だから後悔がある」、じゃなくて、「後悔するから自由がある」なんですね。一切後悔をしない人というのを思い浮かべてみましょう。多分彼は自由なんて概念は思いつかないし、理解できないし、興味もないでしょう。羨ましいことです。そもそも自由は不安と強く結びついています。これもやはり自由だから不安を感じるのではなく、不安だから、自由なる概念を捏造するのです。自由意志があれば向かう先を自分で決められますからね。しかしそれはただの願望であって、現実ではないです。
というか自由意志って因果関係の一種(意志が原因になって身体運動を結果として引き起こすわけですからね)なので、因果関係が否定された時点で自由意志も否定されないとおかしいのではありますね。つまり因果関係が過去志向なのと全く同じく、自由意志だって過去志向なのです。
しかしとにかく、そういう「やっちまった」後悔の記憶を持って今度は未来の選択に向かう訳ですね? しかし「右にも左にも行ける」って言ってるときには、まだどっちにも行ってないのでどっちに行く意志も現実ではありません。(意志があって選択するのではなく、選択がそのまま意志なのです。実現してない意志は意志ではなく、ただの願望です。)そして実際に右や左に行った時には、既に行ってしまったので、どちらも選べるわけではなくなっています。まだ行為してないときには意志がなくて、もう行為したときには選択肢がないのです。しかし自由意志は両者を必要とします。だから自由意志は無いんですね。選択の余地がないのです。
もちろん「すべてが初めから決まっている」なんてことがある訳ありません。決まってるってんなら具体的にどうなるか言ってみましょう。具体的に言えないならそんな宣言に意味はないです。それもやっぱりただの願望です。ところが全てが初めから決まっている訳ではないにしても、それで自由意志が出てくる訳ではないのです。何が起こるかわからないにも拘わらず、必然なのです。だって一個しかないんだもの。
さらに仮に「行為を選択する」ってことがあり得るとしても、その動機が問題になってきます。根拠があってそうしたなら、その逆は不可能だったので自由じゃないです。根拠がなくてそうしたなら、その自由は偶然と区別がつかないです。というか事象は単にそのように起こるだけであって、それが自由のたまものだの、いや必然だの、偶然だのというのは全部後から概念的に構成されます。事象そのものはそのうちのいずれでもないのです。
主体とその行為とは、両者揃って現れることもあれば、片方のみ現れることもある。
行為が実際に為され、その行為の主体の観念が反省により伴っている時には、両者が存在する。
行為が為されてはいるが、主体に関する反省を欠いている場合、行為のみが存在し、主体は存在しない。
実際に行為が為されてはいないが、それを為し得る主体だけは認識されている場合、行為は存在せず、主体は存在している。
行為の基体としての身体は常に存在しているはずであると考えることはできる。しかし身体は主体ではない。身体を動かすものが主体である。また身体も主体と同じく、それとして認識される限りで存在する。
理由が有って行為する時、私は自由である。その理由に納得するにせよ抵抗を抱いているにせよ、とにかくその理由を理由として認め、従う意志を見せているのは他ならぬ自分であるという意識が、その行為には伴うからである。理由を持つ時、私は内的に自己を制御している。私は理由に従っているのだが、従わないこともできる。理由に従うことを通して、自己に命じ、自己を従えている。そこに私の自由がある。
理由が無くて行為する時、私は自由である。その行為は私の内奥から、自体から発したものであるから。その行為は理由に束縛されず偶然に起こるが、同時に私自身の自然な本性の発露である限り必然でもある。自然な本性とは固定的実体的自己ではない。そのような実体に従う自己なら、必然でしかない。だが自然は自ら変化する故に自然である。本性は束縛とならない。理由を経由せず、意志が直接に現れる時、意志は自由であると同時に必然でもある。
理由への服従が自己への命令となり自己の自由となるのと同じく、自然への服従が自己の発露となり自己の自由となる。
理由が自由となるためには、理由が内的によくこなされて(消化され、同化されて)いなければならない。理由はよく受け容れられねば自由とならない。理性的にそれが善であると判断されているのでなければならない。必然的にそうすべきであるから、そうするのでなければならない。内的にこなされない理由は、単に外的理由であり、強制となる。
偶然に事が起こるという場合、それは何者の意図にもよらなかったということを意味するのだから、外的強制であり、自由はそこで否定されていると解釈し得る。ただ、内的偶然ということもある。自己が概念的にはっきりと意図した訳でなくとも、それが自己の意志であることがあり得る。「これが自分の意図だ」と強いて規定することが、却って自己を束縛することもあり得るからだ。確固たる理由無くとも何となくそうするのが良いと思われる場合、その偶然性はむしろ自己の自然な在り方なのだ。その意味では偶然は自由である。
死んだらどうなるかなんて何も分からないのに、分かったふうなことを言って納得して、分かったふりをして対策したりしなかったりするのはなんだか馬鹿らしい。死については全てが演技でしかない。死は根本的に虚構だと言ってもいい。
病気で死んだり老衰で死んだり、事故で死んだり殺されたり自殺したり、様々だ。となると死んだ後だって、天国に行ったり地獄に行ったり、転生したり無になったり、同じ人生を繰り返したり、想像もつかないようなよく分からない状態になったり、人それぞれだというのもありそうなことだ。
殺しに至るだけの正当な理由があったということと、殺しは人間が人間に行い得る行為として普遍的に悪であるということは両立する。よって普遍的な罪に対して償いつつ、個別なものとしての殺人行為が誤りだったとは認めないという立場はあり得る。
先のことを考えて、将来実現されるべき自己の状況を理性的に選択して行為する時、主体は自由である。
先のことを考えず、今現在の自然な情に本能的に没頭して行為する時、主体は自由である。
私は瞬間の存在であり、それぞれの瞬間がそれぞれに自分の経緯を、因果を内包している。それぞれの瞬間は独立しつつ連なっている。だから、純粋に客観的に見た場合に(そのような視座は不可能なのだが)、もし瞬間の連なりとしての私の各瞬間が、全く滅茶苦茶な、支離滅裂な、一つの経験として統一されていないカオスであったとしても、そこに内在する私としては、一つの繋がり、過去から現在に繋がり未来へと至る自然な流れとしてしか体験できないだろう。私が本当は無数の経緯、無数の世界、無数の存在者として各瞬間を存在しているのだとしても、私はそれをそのままに感じられない。だから私は私でしかない。私以外のものになった私は私でしかない。また瞬間はそれぞれに独立であるのに、体験は一つの連続としてしか感じない。一つ一つの瞬間が絶対なら、本来瞬間に前後関係など無いとすら言える。しかし瞬間は前後を持ち、一つの動きの一部として有る。
平常の落ち着いた心身としての自己においては、出来事は現前してくるものであり、目の前に、または意識の前に距離を持ってあるものであり、処理する対象である。そうではない混乱した状態、処理しきれていない状態、非常時においては、対象は自己と混ざる。自己の前に置いて処理するというより、自己を取り囲み消化するようなもの、環境そのものとしてそれはある。状況がいつの間にか終わり、元の平常が戻ってきても、混乱した状態はまだそれとして残る。大変な状態だった、とにかく必死に格闘していた、あるいはもう、とにかく飲み込まれてしまっていた、というように後から語られる。語られる時には、体験は記憶として現前し、処理する対象となりつつある。しかし一方その裏に、「あれは私の体験か?」との問いが残り続ける。混乱した自己は自己か? 混乱した状況は自己の状況か? 何だか分からないが、とにかく通り抜けた。そんな感覚が残る。それは過去でしかあり得ない。過去として初めて、それは対象である。現在する時には対象ではない。同じことをもう一度体験することはできない。本来全ての出来事がそうなのだが、とりわけ混乱は、反復できない。それは絶対的過去である。それについて考える時、それは必ず過去である。平常の出来事は、現在それを体験しながら、現在それを対象として捉え考え観察することができる。非常の出来事はそうは扱えない。このことが、事物の起源には混沌があったに違いないという考えの起源であると思われる。非常事態、危機を通じて、人は世界の起源を知る。
経験は自分を規定することもあり、揺るがすこともある。「あの経験あればこそ今の自分がある」とも思われ、かつ「どうして自分にあんなことができたか」という形でも想起される。自分の経験したことながら、どこか他人事のような気がする。上手くやった場合であれ、何かしくじった場合であれそうだ。自分があれを、あのようにやり果せたのは、何故のことだったか。それについては結局、自分が他ならぬあの自分であったから、としか言いようがない。それは同時に、自分は自分ではないから、ということを意味するはずだ。あの自分はこの自分ではないのだから。自分はその都度の自分でしかない。
経験は血肉となる。然るべき場面が来れば、また感覚を思い出す。再現を繰り返せば、いつしか刺激は薄れ、それが平常となりもする。そうしてようやく経験が自分のものとなる。現在が過去を取り込み、統合したかのように思える。だがそこで理解された過去は、もうあの過去ではない。過去そのものは捉えられないまま、謎であるまま浮遊している。過去は理解し得るものではない。想起されるものでもない。無論それ自体で実在するものでもなく、体験し直すことができるものでもない。それは現在の否定としての謎である。
落ち着いた状態が真理に、混迷した状態が非真理に対応するという見方は余りに浅薄ではないか。
動いてしまってから、何が動かしたのか理解される。その意味で主体は存在しない。
だが動かしたものの存在が理解される限り、その動きは紛れもなく、動かしたものの動きである。その意味で主体は存在するが、主体がなぜそのように存在したかは、分からない。
人生が上手く行かない時に、「どうすれば上手く行くか?」と考えてそこを脱け出す者もいれば、「人生とは何なのか?」というところに立ち止まってしまう者もいる。後者は根本的な解決あるいは理解を志向しており、ただ単に「上手く行く」状態になるよりも大きな魅力をそこに感じる。
自由意志については、有るとも無いとも、分かりません。ただプラグマティックに処方されるだけです。「お前には自由意志が有るんだ、もっとしっかりしろ!」と言う方が効く場合もありますし、「いやいや、自由意志なんか無いんですから、もっと気楽に行きましょう」と言う方が適切な場合もあります。
死んでもまた会えると信じているところがあります。
仮にですよ、死後に無になるとしたら、みんな同じ無へ辿り着くはずです。「複数の無」とか「多様な無」とかが有る訳ないですからね。みんな同じ所に行くのです。だから必ずまた会えます。まあ「同じ場所で会う」というよりか、「同じになる」んですけども。
そしてまた仮にですよ、死後に無にならないんだとしたら、時間は無限です。無限の時間の中で同じことが再び起こらないなんてことがありましょうか? 私は現にここに存在しています。私が一度でも存在しています。ということは、この世界は初めから、必然的に、「私というこの存在が可能であるようにできていた」はずです。それは未来永劫変わりません。世界そのものは時間を超えているからです。いつでも私が可能です。彼らも可能です。だから必ずまた会えます。
……いや、まあね、無限の時間があったって、同じことが必ずまた起こるとは限らないのですけど。でも無限ですからね。必ず「次」があります。そして可能性は決して無くなりません。実際に起きなくても、可能性は可能性のままですからね。現に有るものは無ではない。無ではない以上、無にはならない。
まあずっと永いこと、一人でいることもあるでしょう。再会してもお互いそれと分からないこともあるでしょう。忘れてしまっていることもあるでしょう。それはそれで、何も問題はありませんが。しかしとにかく、分かる時にははっきりそれと分かるでしょう。同一性なんてそんなもんです。物が壊れても観念が残ります。観念すら失われた時、その喪失は認識されません。だから却って観念は永続するのです。そして不意に再来します。
心が思い通りに動かないことがある。すべきことがあるのに、実際にする気になれない。その気になれば、身体は動くだろう。だがその気になれない。身体はただ心が決断するのを待っている。思いさえすれば、身体は思い通りに動く。身体は自由自在に動かせる。だがその手前に、自由自在には動かせない何かがある。これが心である。自由な心であれば、心として認識されない。不自由だからこそ心は対象として取り出されてくる。
身体に指示を出すのが心なら、心には何が指示を出すのか。脳・身体か。となると循環してしまう。だがそうではない。身体の動きと心の動きは一つの動きでしかない。どちらかがどちらかを動かすという関係ではない。行為が自然に問題なく遂行されている限り、心と身体は分かれない。自然な行為は一つの心身の行為である。思い通りに行かない行為があって初めて、心と身体が分かれる。
行為が思い通りに行かないということには、身体に異常があってうまく動かせない場合と、心の方が身体に無理な動きを要求している場合とがある。両者の複合もある。例えば怪我をして動かせない足を無理矢理動かそうとしても、歩行は失敗するだろう。
単に身体が故障で動かないという場合には、まだ心は対象となっておらず、心と身体の間の関係も問題とならない。無理なことをやろうとしていたということを、心自身が反省した時に初めて心が対象となり、心と身体の間の関係も成り立つ。
人は経験的に、できることとできないことがあることを学んでいく。自分にできないことは、失敗により明らかとなる。行為の失敗において、失敗の根拠が問われる。単に身体的にできなかったというだけでなく、それをやろうとした自分(心)が間違っていたということが気付かれ、行為は断念される。その時、「心が身体を動かす」というこの関係もまた成り立つ。この反省を経て、心は身体を動かす主体となる。
その上で、今度は心そのものが問題となる。身体が心の思う通りに動かないのと同じく、心もまた心の思う通りには動かないのだ。すべきであると思ったことが、できない。これもまた失敗した行為の一種である。ここで再び根拠が問われる。何故心は思い通りには動かないのか。そして、「身体が心を規定するからだ」という答えが得られる。この推論を経て、心は身体に動かされる客体となる。
世界は無常であり、何であれ失われ得る。だが失ったものはいつでも回帰し、再会し得る。とは言え全く同じものに再会するのではない。全く同じであれば、それが再会だと分からないだろう。前と同じだと分かるのは、前と違うからだ。物は常に異なりながら同じ物である。
恒常不変の物が過去と現在を通して存在しているのではない。むしろ物に同一を見出すところに過去と現在がある。物が非同一だから過去と現在も異なるのであり、物が同じ物だから、過去と現在もまた同じ一つの時間、一つの世界にある。物を抜きにして時間は無い。物が時間の中にあるのでは無い。物があることが時間である。
過去は現在に有る。自分の体験した過去は想起されるし、自分のものでない過去は言語的に構成される。
ただし、想起・構成された限りでの過去が、過去の全てであるのではない。実在する過去は想起より大きい。想起・構成されるのは飽くまで過去の一部である。現に知覚されている世界が私の知覚であり、実在する世界はより大きな全体であるというのと同じく、それが私の想起・想像である限り、実在する過去はより大きな全体である。
そのような全体は部分に先行しない。予め過去の全体が与えられ、そこから私が部分を選択して想起・構成するというようにはなっていない。むしろ全体は、部分的な想起・構成に付け加えられ補うものとして、後から生じてくるように思われる。
だがそうではない。部分に全体が加えられるのではなく、両者は同時に有る。全体は、部分と識別されたものである。だから想起が私の想起であると規定されることと、それが過去全体の一部であると規定されることとは、同時である。全体があるから私の領域があり、私の領域があるから全体がある。私が世界内に置かれることにより、全体もまた世界として私を包むようになる。その意味で、部分も全体も対等に実在する。過去の全体があり、その中に私の過去がある。
だが部分と全体が区分される以前をなお想定できる。その以前、原初においては、私は世界と同じであり、従って私ではなく、世界でもなかった。絶対的な無名の生起があった。その生起が属する全体が想定されると同時に、生起は相対的な、私的領域となった。今私的領域と呼ばれるそれは、かつては主客以前の絶対であった。無名の生起が私的領域となると同時に、主客以前の絶対性は、主客以後の、主客を超えた全体性へとずれ込んだ。
過去の全体は見通せない。全体は、現に明瞭に与えられていないからこそ全体である。だが現れないものが、なぜ有ると言えるか。それは過去の全体なるものが、現にある想起の出てくる元、根拠として要請されるからである。根拠が要請されるのは、想起の真偽を分けるためである。想起の真偽を分けるのは、想起にまつわる利害を調整するためである。つまり過去の全体なるものは、対人関係において要請される。利害を調整するためには、可能性が留保されねばならない。可能性の詰まった未確定の領域として、過去は不明瞭である。
確定された過去は公共の真理である。私の過去の想起があり、他者の過去の想起があり、両者を修正し得る真なる過去がある。また真なる過去もその都度真とされた過去に過ぎず、いずれ修正され得る。これは要請された事実であり、倫理である。
私がいて、他者がいる。時間的展開として、私が先にいるように思える。
私の知覚・思考こそ直接与えられていて、他者のそれらは間接的に知られるだけだ。私のそれらがあることは考えるまでもなく分かる。他者にもそれらがあることは、考えないと分からない。だから、どこかの時点で私は他者の知覚・思考を知った(学んだ)のだ、と考えられる。
だが他者を知る前の私はまだ私ではない。単に直接あるだけのものは、まだ直接ではない。間接的なもの、他者を知るから、却って自分は直接的なものとなるのだ。そのような直接と間接の区分された認識そのものは、改めて私の認識として直接に生起している。だがその直接性は、間接性を経由してのみ直接となるのだから、直接と言いつつ、間接なのだ。真に直接なもの、原初の直接性は、私という立場から見られるから直接性と呼ばれるのであり、本来直接でも間接でもない。
直接と間接が区分されて現れる認識そのものは、直接でも間接でもない。私も他者も直接と間接として対立しながら、その対立によって両者共に間接であり、両者の間接が私の認識として直接成り立つ場そのものは、直接でも間接でもない。「それが私の認識である」と言われるその場そのものは、私のものではない。自分と他者の成り立ちを時間的経過において考えること自体は、私も他者も無いところで、今与えられている。
つまり私でも他者でもないところに、私と他者が乗っている。これは単純に、私がいて、他者がいる、同時に実在するということを意味するに過ぎない。どちらが先にいることもない。
世界が現にある通りの知覚・思考の有り様であり、別様でないのは何故か? 特に理由は無い。偶然である。
では現にあるのとは別様の世界は存在しないのか? そうだとも言えるし、違うとも言える。現にこのようであるのだから、同時に別様である訳にはいかない。なおかつ、いつでも世界は別様になり得るし、現になりつつある。
私の世界と他者の世界についても同じく言える。私がこの私であることに特段理由は無い。他者の世界は存在しないが、しかし私は他者になり得る。
あらゆる思考は原理的に言語として展開可能である。
雑多な物事が単に存在している。その雑多さを要素に切り分け、関係として結ぶのが思考の作用であり、その形式・規則が論理であり、言語である。
何が何をしており、どのように有るか、またどのように有ることが可能であるかを、規定しているのが言語である。表立って音や記号としての言葉で表現されずとも、言語は思考の形式として常に作動している、と考えられる。
だが実際に行われている思考以外に、思考の形式としての言語なるものは必要なのか?
「思考は言語を必要とする」という認識は、「思考なるものはいかにして可能か?」と問うことにより成り立つ。思考の根拠として、言語が取り出される。根拠を問うということ自体思考の働きであり、根拠・帰結の関係は言語的構造だと考えられる。では言語の根拠は何であるのか? 経験や歴史だろうか。脳・身体だろうか。ではそれら何故言語の根拠たり得るのか? それは、経験や脳を言語の根拠とする思考が働いているから、ということになるだろう。ここで根拠は循環してしまう。
つまり物事の根拠を問うための思考作用自体には、根拠がないのだ。思考の作用を「思考」と「思考の根拠としての言語」に分けているのもまた、思考の作用である。作用としての思考の背後には回れない。だとするなら、思考の根拠を問うこと、それが言語であるということは、本来無意味なことではないか? そこで扱われている思考なるもの・言語なるものは、実体化・概念化されたものでしかない。根拠のある思考は思考ではないし、思考として捉えられたものは、思考そのものではない。その都度の思考作用は単にそのように有るのみであり、形式・規則を根拠として持つのではない。
「言語無しに思考することはできない」と言う時、それは「両者を分けることに意味が無い」という点では正しい。「働き」があるなら、「どのように働いているか」もまた必ずある。思考には何らかの言語が伴う。
しかし「言語なるものが予めあり、それに従って思考が為される」と考えられる時、それは誤っている。思考が言語なのであり、どちらがどちらを成り立たせるのでもない。
私が思考しているのではない。世界が思考している。
何かが現れる。現れたそれを要素に分解し、関係として繋ぐ。また何かが現れる。分解して、繋ぐ。ひたすらに分析と総合を繰り返す。これが生起した事態を理解するということである。だが要素に分解する前の生起そのものは、延々と理解されないのだ。
瞬間を超えるものはない。法則は常に消失し得る。法則の消失が現実に観察されようがされまいが、原理的にそうである。
瞬間は前後を断絶する。だが真に断絶するとしたら、それを断絶と捉えることはできない。かと言って連続するとしたら、変化ということがあり得ない。瞬間は真には断絶しないし、連続もしない。