私が心安らぐのは言葉に没入している時だけだということ。

 裏の仕組みを考えるのは科学の仕事だ。哲学は表面を扱う。

 瞬間は瞬間に総合されない。滅したものに総合することはできない。

 現在する瞬間が過ぎ去った瞬間を把持するのでもない。過ぎ去り滅した瞬間と、把持された瞬間が同じものだと何故分かるのか。

 瞬間に瞬間を総合することで世界が動くのではない。現に有る瞬間の内部に過去の瞬間が有ることで「動いた」という認識が成り立つのでもない。

 動くことの裏に仕組みは無い。世界は動くから動く。瞬間は動から取り出されるのであり、瞬間が動を成り立たせるのではない。

 全てが一瞬間に収まる。生じ滅する全てがそこに有る。にも拘らずその全ては滅し、また生じる。一瞬間が有ってそれが全てであり外など無いのに、その全ては即座に滅して自らの外を作り出す。作り出された外はしかし即座にまた瞬間の内に有る。本来単一であり絶対であるこの瞬間が、同時に自ら複数となり相対となり、その複数性相対性の在処がまた絶対である。生じ滅する瞬間は複数だが、複数の瞬間はそれぞれに単一であり、しかしそのような複数の単一、複数の絶対の立ち並ぶ処を外から見ることなどできず、必ず現に有る瞬間の真なる単一性においてそれらは直観され、尚且つその直観の全体がまた複数の瞬間として生じ滅して行く。全てがそこに有って外は無いのに、尚そこが置かれる更なる外を持つという、この矛盾が瞬間である。

  1.  生きても死んでもこれは続いていくのだろうという、予感以上確信未満の感覚がある。

     それは「今こうして生きている私が、死んだ後別の何かに生まれ変わる」とかいう話ではなく、単に「今こうしているのと同じように、いつでもこうしているだろう、そして『こうする』ということは決して『ただひたすらにある』という形を取ることはできず、何かしらの苦とそれへの対処という分離を前提するのだろう」という空漠たる話でしかないのだが。

  2.  ずっとこうして来たのだし、ずっとこうして行くのだろう。無など何処にも無かった。無であったことも無いし、無になることも無いし、さりとて純粋な有であることも無い。ふと気付けば侵略があり、抵抗がある。押したり引いたりしている。しているうちに線が見えてきて、形ができて、それが私と他者になる。関係とは力の干渉だ。また力とは動くものであるのだから、その動きの中にしか私も他者もない。

  3.  その感覚に根拠は無い。元より存在に根拠など無い。強いて言うなら次のような疑念があるだけだ。「死ねば無になってそれで万事終わりだなどと、そんな都合の良い話がある訳ないだろう」。しかしこの疑念も所詮「死にたくない」ということの単なる言い換えかもしれない。

 自己は主体であり、客体ではない。だから自己を外から見ることはできないし、内から感じることもできない。自己の外には立てないし、自己の内は無い。

 考えても仕方ない問題について考えないようにしたところで、問題が消えてなくなるわけではないですよね。

 一切の苦痛も前触れもなく突如として生が終わる場合、それは死なのか? あるいは深く眠っている最中に、そのまま消え入るように死ぬ場合、それは死なのか? あるいは突然事故に遭い、考えを巡らす間もなく即死する場合、それは死なのか?

 いや、突然の死は死ではないのだ。死が死であるためには時間が要る。いつか来るが、まだ来ていないものとして気付かれ、しかしいつ来るかは分からない、そのようにじわじわと迫ってくるものが死である。最後の苦痛として、あるいは救いとして死はやって来る。死が有るためには、死ぬ前に死に気付かねばならない。

 また死んだ後にも、自分が死んだことに自分で気付くようなものでなければならない。死んだことに自分で気付けないようなら、結局それは死んだことにならないではないか? だから死は時間をもって受け入れられ実現され、また時間をもって回顧され得るものでもなければならない。

 ……という訳でここに2つの可能性が有る。「死んだ後、自分が死んだことに気付く場合」。意識があるので、これは結局死んでいないことになる。「死んだ後、自分が死んだことに気付かない場合」。死んだことに気付かないので、死んでいないことになる。どちらにせよ、死んでいない。死は生においてのみ死である。

 「人生は死ぬまでの暇潰し」という言葉について、以下のように憤っている人がいた。「こんなに大変な暇潰しもないもんだ。今まで苦労して生きてきたが、とても暇潰しと言えるような気楽なものではなかった」。……これも一つの真っ当な受け止め方だろう。  私としては、暇潰しというのは時間的状態であって、「暇ではない時間」や「暇だけど暇潰しはしてない時間」との区別により成り立つと考えた。だから人生の全体が暇潰しだとすれば、暇潰しという概念は意味を失う。よって「人生は死ぬまでの暇潰し」という言葉が意味を持ち得るとしたら、人生の全体とは異なる時間を前提した場合、つまり「死んだ後は暇潰しではない」=「死んでからが本番!」と主張している場合だけだ。これは極めて宗教的思想の強い主張である。  ……と、思ったのだが別の解釈もできることに気付いた。人生には暇でない時間や、暇だけど暇潰しはしてない時間があり得る、ということは認めた上での、「この私の人生には、暇潰しの時間しか存在しなかったなあ」という詠嘆または卑下の表現として、この言葉は解釈できる。もちろんこの表現が成り立つためにも「暇でない時間」や「暇だけど暇潰しはしてない時間」の存在を知っている必要はあるのだが、それらを知るのに自分が実体験を積む必要はないのだ。ただ人生の過ごし方が明らかに自分とは異なる、他人の振舞いを見ることができればよい。つまり「何かに執着して全力で打ち込んでいる他人」や「何もすることはなさそうだがそれを苦にすることなく、無為を無為として受け容れている他人」を見ることができればよい。あるいは、「かつては自分も暇ではない時間を過ごしたことがある、と思っていたのだけれど、今になって思うとあれも所詮は暇潰しに過ぎなかったのだなあ」、と思うような体験をするのでもよい。そういった他人や過去の自分との比較によって成り立つ現在の詠嘆表現が、「人生は死ぬまでの暇潰し」という言葉である、と解釈できる。  そういう風に解釈する場合、暇潰しであるのは飽くまで「人生は死ぬまでの暇潰し」を主張しているその人についてのみ言えることであり、一般化されない。ただ言葉としては「私のこれまでの人生は、現在の私が思う限りでは~」ではなく単純に「人生は~」とされているから、一般化されて聞こえるだけなのだ。だからこれを聞いた人は憤ったり、「人生の全てが暇潰しだとしたら~」というような変に論理的な解釈をしたりする。だがこれは客観的主張ではなく主観的情感的表現なのだと捉えれば、そのままに味わうことができるだろう。表現としては個別的なまま、分かる人にだけ分かればよい。この言葉は「私の人生は所詮暇潰しに過ぎなかった」と感じている人の共感を呼んだり、「生きているうちに何かを成し遂げなければ!」と張り切り過ぎて苦しんでいる人に届いたりして、そこに安堵をもたらすことができる。

 「死ぬこと以外かすり傷」なんて言われたら、殺したくなっちゃうよ。というかそこまで言うなら、なんで死ぬことだけはかすり傷じゃないんだよ。死んでも平然としてろよ。訳が分からんわ。

 一度きりの人生だから、悔いの残らないように懸命に生きねばならない……のか? しかし一度きりというのは、死んだら無になってそれで終わり、ということではないのか? 無になって終わりであるなら、どう生きても同じではないか……?

 物は法則に従わない。むしろ法則が物に従う。法則が物を縛るのではなく、物が法則を実現する。

 物が一切無いが法則だけは有る、という状態は有り得ない。そんな法則は有名無実だ。物が有るが法則は無い状態、これは有り得る。だから法則より物が先に有るのだ。

 法則とは、物の振る舞いを観察し、データを取り、まとめ上げて一般化・抽象化した結果得られるものに過ぎない。それは予め有って物の動きを規制するものではなく、物が動いた後、結果的に残るものでしかない。自然に絶対の法則は無い。

 物は何故こう動くのですか?

 ――そういう法則があるから。

 そういう法則は何故あるのですか?

 ――物がそう動くから。

 「こうすると幸福になれます」みたいな話はよくある。曰く「今ここに集中すると幸福になれる」「何事にも感謝をすると幸福になれる」「貢献すると幸福になれる」「目標を持つと幸福になれる」「考え方を変えると幸福になれる」「身体を鍛えると幸福になれる」云々。

 これらは幸福な人の幸福を分析した結果に過ぎないのであって、「これをやったら幸福になれる」という方法論として提示するのはおかしいのではないか? 今ここに集中して幸福になれるのは、今ここが元々幸福だった場合だけなのではなかろうか。今ここが虚しかったらどうするのか。或いは死ぬほど腹が痛い時に今ここに集中したら、幸福になれるのか?

 他人に感謝したり貢献したり、目標を追いかけたり身体を鍛えたりして幸福になれる人というのは、元々幸福な人なのではなかろうか。そもそも感謝できること、貢献できる能力があること、身体を鍛える気力があること等々は、それ自体が幸福の証なのであって、幸福に先立つものではないのではないか? ということは、不幸な人間が幸福になる方法というのは無く、ただ偶然にそうなるしかないのではないか?

 「自由意志(自由選択意志)は本当は存在しない」という話のバリエーション。

 まず最もポピュラーなものとして、因果関係とか物理法則とかに基づいた自由意志批判がありますね。意思決定は脳味噌、脳味噌は物体、物体は物理法則に従う!原因があって結果がある、全部初めから決まってる!ってやつですね。しかしこれはあんまり筋が良くないです。何かって言ったら因果っていうのは因と果が揃って初めて因果な訳です。まだ結果を生じさせていない原因っていうのは、実のところ原因でも何でもない訳ですよ。つまり因果関係ってのはすでに完結したことについて言える関係であり、過去について言うことはできても未来においては成立しないんですね。今この状況がどういう原因から生じたものか、っていうのは色々挙げられるでしょうけど、この状況が原因になって今後何が起きるか、なんてのは予め言えるもんじゃないのです。というかそれこそ「意志次第」ということになってしまうでしょう。もちろん過去の経緯、知識、記憶に基づいて未来を予測することっていうのはできるんですが、それでも実際どうなるかは、やってみないとわかりません。というわけで、起こる出来事は因果関係によってあらかじめ決まってるから意志は存在しないのだ、って説明は成り立たないのです。因果関係はただの事後処理です。

 じゃあ因果なしでどうやって自由意志を否定するのかって言ったら、(まあ因果関係が否定されただけで突然自由意志が出てくるはずもないのですが、)「必然性」って概念が鍵になります。因果関係は必然性を担保しません。しかし世界は必然です。何故かって言ったらそもそも世界は一個しかないからです。全てが存在する場所を世界と言うのだから、一個しかありようがないのです。もし複数の世界が存在するとしたら、その複数の世界を一個、二個、って数えてるその場の方が一個の現実世界なのです。そして世界が一個しかないってことは、当然起こることも一個しかありえないわけでして、だから世界内で起きることは全部必然(それ以外があり得ないってこと)になる訳です。世界の進行というのは、「因果関係があるから一個しかあり得ない」のではなく、「一個しかあり得ないから因果関係を見出すことができる」のです。

 そうじゃない、世界には複数の可能性があって、その中から選択されたり、あるいは意志によって選択したりするのだ、とも考えられます。しかし現実は常に一つなので、可能性は妄想だと言うことが可能です。そもそも、因果関係が事後的であるのと同じくらい、自由意志だって事後的です。まず行為があります。行為があってから、その善悪(都合の良し悪し)が判断されます。「あっやべ、やっちまった!」って思います。そう思ってから、別の行為を選択する「べき」だったという考えがでてきます。飽くまで「べき」です。しかしその「べき」が現実的に可能だったかというと、不可能だったのです。だって現に起きたのは、現に起きたことだけだったんだから。(「べき」と思うからには、可能だったはずだ。不可能なことをする「べき」だなどと考えられる「はず」がないから、という考えがあります。しかし「はず」もやっぱり所詮は「はず」です。)「自由だから後悔がある」、じゃなくて、「後悔するから自由がある」なんですね。一切後悔をしない人というのを思い浮かべてみましょう。多分彼は自由なんて概念は思いつかないし、理解できないし、興味もないでしょう。羨ましいことです。そもそも自由は不安と強く結びついています。これもやはり自由だから不安を感じるのではなく、不安だから、自由なる概念を捏造するのです。自由意志があれば向かう先を自分で決められますからね。しかしそれはただの願望であって、現実ではないです。

 というか自由意志って因果関係の一種(意志が原因になって身体運動を結果として引き起こすわけですからね)なので、因果関係が否定された時点で自由意志も否定されないとおかしいのではありますね。つまり因果関係が過去志向なのと全く同じく、自由意志だって過去志向なのです。

 しかしとにかく、そういう「やっちまった」後悔の記憶を持って今度は未来の選択に向かう訳ですね? しかし「右にも左にも行ける」って言ってるときには、まだどっちにも行ってないので、どっちに行く意志も現実ではありません。(意志があって選択するのではなく、選択がそのまま意志なのです。実現してない意志は意志ではなく、ただの願望です。)そして実際に右や左に行った時には、既に行ってしまったので、どちらも選べるわけではなくなっています。まだ行為してないときには意志がなくて、もう行為したときには選択肢がないのです。「まだ行為してないので自由ではない」って状態から、「もう行為しちゃったので自由ではない」って状態への移行だけがあります。もちろん実際に行為をしているときには、正にその行為をしているのであってそれ以外はできません。という訳で、「選択肢があってその中から選んで行為する」ということは不可能なのです。選択の余地はありません。

 もちろん「すべてが初めから決まっている」なんてことがある訳ありません。決まってるってんなら具体的にどうなるか言ってみましょう。具体的に言えないならそんな宣言に意味はないです。それもやっぱりただの願望です。ところが全てが初めから決まっている訳ではないにしても、それで自由意志が出てくる訳ではないのです。何が起こるかわからないにも拘わらず、必然なのです。だって一個しかないんだもの。

 さらに仮に「行為を選択する」ってことがあり得るとしても、その動機が問題になってきます。根拠があってそうしたなら、その逆は不可能だったので自由じゃないです。根拠がなくてそうしたなら、その自由は偶然と区別がつかないです。というか事象は単にそのように起こるだけであって、それが自由のたまものだの、いや必然だの、偶然だのというのは全部後から概念的に構成されます。事象そのものはそのうちのいずれでもないのです。

  1.  主体とその行為とは、両者揃って現れることもあれば、片方のみ現れることもある。

     行為が実際に為され、その行為の主体の観念が反省により伴っている時には、両者が存在する。

     行為が為されてはいるが、主体に関する反省を欠いている場合、行為のみが存在し、主体は存在しない。

     実際に行為が為されてはいないが、それを為し得る主体だけは認識されている場合、行為は存在せず、主体は存在している。

  2.  行為の基体としての身体は常に存在しているはずであると考えることはできる。しかし身体は主体ではない。身体を動かすものが主体である。また身体も主体と同じく、それとして認識される限りで存在する。

 理由が有って行為する時、私は自由である。その理由に納得するにせよ抵抗を抱いているにせよ、とにかくその理由を理由として認め、従う意志を見せているのは他ならぬ自分であるという意識が、その行為には伴うからである。理由を持つ時、私は内的に自己を制御している。私は理由に従っているのだが、従わないこともできる。理由に従うことを通して、自己に命じ、自己を従えている。そこに私の自由がある。

 理由が無くて行為する時、私は自由である。その行為は私の内奥から、自体から発したものであるから。その行為は理由に束縛されず偶然に起こるが、同時に私自身の自然な本性の発露である限り必然でもある。自然な本性とは固定的実体的自己ではない。そのような実体に従う自己なら、必然でしかない。だが自然は自ら変化する故に自然である。本性は束縛とならない。理由を経由せず、意志が直接に現れる時、意志は自由であると同時に必然でもある。

 理由への服従が自己への命令となり自己の自由となるのと同じく、自然への服従が自己の発露となり自己の自由となる。

 理由が自由となるためには、理由が内的によくこなされて(消化され、同化されて)いなければならない。理由はよく受け容れられねば自由とならない。理性的にそれが善であると判断されているのでなければならない。必然的にそうすべきであるから、そうするのでなければならない。内的にこなされない理由は、単に外的理由であり、強制となる。

 偶然に事が起こるという場合、それは何者の意図にもよらなかったということを意味するのだから、外的強制であり、自由はそこで否定されていると解釈し得る。ただ、内的偶然ということもある。自己が概念的にはっきりと意図した訳でなくとも、それが自己の意志であることがあり得る。「これが自分の意図だ」と強いて規定することが、却って自己を束縛することもあり得るからだ。確固たる理由無くとも何となくそうするのが良いと思われる場合、その偶然性はむしろ自己の自然な在り方なのだ。その意味では偶然は自由である。

  1.  同一というのは複数のものの間の関係だ。一方にAがある。もう一方にBがある。AとBは同一である。A=B、という訳だ。しかし2つある時点で、同一ではないのではないか? AはAであり、BはBであるのだから。AとBが区別されている限り、同一ではない。そしてAとBが本当に同一なら、実のところそこにAもBも無いはずなのだ。区別がつかないのだから。そういう訳で、同一などあり得ない。ものがあれば、それらは全て異なる。時間的にも空間的にもそうだ。同じものは2つと無いし、同じ時も2度と無い。あの時のあれと、今あるこれは別物だ。何もかも別だ。同一性は虚構だ。AとBは違うし、AとA自身の間には距離が無く、関係が結べない。A=Aがあるとしたら、左のAと右のAはもう別物だ。

  2.  物がそこにあるのを見る。後ろを向いたらそれは視界から消える。もう一度見直す。さて、さっき見たものと今見たものは同じか? 同じだ。当たり前だ。でも「本当は同じではないのだ」と言い張ることもできる。さっきと今は異なるのだから。さっきと今が同じだったら、時が流れないではないか? これも当たり前だ。

     そもそも同一ということがあり得ず、全てのものが根本的には異なるものであるとしたら、真なる同一と偽なる同一を区別することはできないことになるだろう。「これとあれは同じ」というのが同一だ。「これとあれは違う」というのが非同一だ。「これとあれは同じ」というのは全て偽だ。しかし現実には、ものは時間的にあるのであって、過去があり、持続があり、同一がある。「今あるこれは、あの時のあれと同じものだ」と認識することができる。言い換えれば、「あれがこれになった」と認識することができる。

     昨日の私と今日の私は異なる。しかし同じでもある。昨日の私が、私であるままに、今日の私となっている。今日の私は昨日の私と同一だ。しかし私以外とは同一でない。昨日見た犬と、今日の私は同一ではない。犬は犬であり、私は私であり、ペンはペンであり、机は机であり……というように、それぞれのものに、それぞれの同一性、持続があるように思われる。しかしながら、話を戻すと、それらの同一性は実際、偽である。昨日の私と今日の私は、それらを二つ並べて語っている時点で別人である。であるならば、そもそも同一性自体が無いのだから、私に独自の同一性などというものも無い。犬に独自の同一性も無い。それらは交わり得る、ということになる。昨日の私が今日の私になるなどというあり得ないことが起きるなら、昨日の犬が今日の私になるなどというあり得ないことが起きたって、何もおかしくないはずだ。だから、何が何になることもあり得る。私と私の同一性が真で、私と犬の同一性は偽だ、などとは言い切れない。

     時間は過去と現在との関わりだ。過去と現在は同時にある。過去は現在するのでなければ過去にならない。過去が過去であるためには、過去が過去として、現在認識されねばならないからだ。現在から孤立した過去は無い。だから、過去から現在に至るまでのものの同一性も、現在認識されてある。時間的関係は実のところ、時間的ではない。時間的関係は現在に、無時間的に、瞬間的にあるのだから。何かと何かの同一が主張されるとしたら、それはその認識が生じる、正にその時主張されるだけなのだ。

     客観的に(現在の外に)存在する過去におけるそれと、今現在存在するそれとの同一性を、その過去から現在を通して完全に全体として把握し証明することはできない。言えるのは、今、過去のそれと現在のそれが同じと主張されている、というこのことだけだ。そして同時に、その今もまた、今として認識されるや否や、既に過去となっている。時間は散発的である。過去から現在の全体を把握することは不可能だ。ところが現在は実際に過去になり、常に新たに生じて止むことが無い。その現実の動きが、現実の時である。要するに、同一性とは散発的な時においてその都度主張され、その都度撤回される、その程度のものでしかない。散発的な時間において、時間的でない時間があり、そこに同一や非同一がある。

     つまり、時間という容器のようなものが客観的にあり、その中にまた客観的にものが配置されて、そのものがまた客観的時間的に連続して、一つの物の同一性を成立させている、という風にはなっていない。そのような客観的時間を観察することはできない。もし仮に客観的時間を観察することができるとしても、その観察している視座、観察する作用は、観察対象としての客観的時間とは異なる現実的な時、動きの中にあるはずだろう。客観的な時間を見ている時、既に現実的時間は見られない。

     単に今この時があり、今このものがあって、「ああ、今あるこれは、あの時のあれと同じだね」と認識している。それだけだ。それが実際に同じだったか違っていたかなど確かめようがない。だから同一・非同一に真偽など無い。その認識は、端的に為される。無論様々に思考を巡らしたり検証したりしながら、同一・非同一が徐々にはっきり判定されてくる、という過程を体験することはあるだろうが、同じことだ。その過程を体験した自分と、体験し終えた自分が同一か否かを、どう保証できるというのか。この瞬間における関係が、全ての関係であり関係の全てなのだ。だから究極的には、全ての判断はこの瞬間になされるしかない。これは時の必然だ。だから認識は端的だ。同一・非同一も端的だ。ああ、今あるこれはあの時のあれだ(というよりさらに端的に、「ああ、これはあの時の!」)、と判断できれば、もうそれで終わりだ。同じものは端的に同じで、違うものは端的に違う。

     さらにその「端的に同じ」ということを縮めて言うとどうなるか。端的に同じであるとき、もはや2つのものを並べて、総合して、関係として「同じだ」と言っているのではない。同一であるもの、時間的に連続するものは、一切分割されない一つの実在として認識される。棒切れの端と、もう一方の端とは、分ければ別々の両端だ。しかし分けねば一本の棒だ。一本の棒を一本の棒として成立させるために、両端をまず認識してからそれらを総合する、などという操作を行う必要はない。同じように、時間的に連続するものは、単純に時間的に連続する一つのものであり、いかなる総合の結果としてそうなるのでもない。つまりそのような時間性も含めての「これ!」があるだけだ。一つの連続するものにあっては、もはや現在と過去が「同じ」とか「違う」とかいうことは問題にならない。一つしか無いのだから。だから同一性とはA=Bということではないし、A=Aということですらない。

     棒の両端を分けないところに一つの棒があるように、実のところ、存在している全てのものを分けないこともできるはずだ。これは時間的同一、持続、に対する空間的同一の話だ。というより、時間的関係は同時的関係なので、初めから空間的なのではあるが。空間的に、一つのものは一つであり、複数の物は複数である。

     一つの物が一つであるなら、もうそこにおいて同じであるとか違うとかいうことは問題にならない。複数のものがあるなら、それらは絶対にお互い異なる。それらは全て同時に一瞬間にある。一つのものは端的に一つであり、同一性により一つなのではない。複数のものには、そもそも同一性はあり得ない。だから結局、非同一しか残らない。全て互いに異なるものが瞬間に犇めき合い、世界を埋め尽くしている。

 記憶は自己同一の根拠になるのか? その記憶が今降って湧いたものでないことをどうやって確かめるのか? 記憶はそもそも何かの根拠になり得るのか? それを言うなら、そもそも何かが何かの根拠になり得るとはどういうことなのか?

 現実は常に動いている。動きとは瞬間から瞬間への動きである。現に有る瞬間が即座に滅して次の瞬間が生じる、その移り行きのことである。であるのだが、それはどうして可能か。瞬間から瞬間への移行は、前の瞬間が有り、後の瞬間が有り、その二つを乗り越える、ということではない。ばらばらな瞬間が個別に有り、その間を架橋するということではない。そんなことは不可能だ。前の瞬間が有る時には後の瞬間は無く、後の瞬間が有る時には前の瞬間は無いのに、どうやって超えられるというのか。二つの瞬間が予め有ってそれを跨ぐということが可能であるためには、その二つの瞬間がそれ自体で、個別に、同時に、客観的に有り、その客観的に有る瞬間を、その瞬間を体験する主体が通過する、というような図式が考えられている。だが現実の瞬間は一つでしかあり得ない。過去ではなく未来でもない、過去や未来がまとめて一つの世界として現成する場が瞬間なのであるから。だがそのように唯一絶対の瞬間を言ったところで、その一つの、ただ一つの瞬間からどうやって動きが生じるのか。瞬間は唯一絶対であり、唯一絶対のままで、それ単独で現に有って、それで終わり、などということはない。瞬間は現実に生滅しているのだ。つまり予め複数の瞬間が有ると見る図式には無理があるし、かと言って瞬間が絶対的に一つしか無いと考えてもやはり現実にそぐわない。瞬間は複数でも単数でも無い、ということになる。そして複数でも単数でもないようなものは現実に存在できない。よって瞬間は現実に存在しない。それは観念である。世界が何故動くかと言えば、瞬間が生滅する、入れ替わり立ち替わり現れるから、ではない。そのような瞬間の生滅・連続は、既に動いているということを抽象した結果得られる観念に過ぎない。瞬間の生滅が動きを成すのではなく、初めから有る動きの中に、瞬間の生と滅が分かれ、単数と複数が分かれるのだと、こう考えねばならない。

 Aと見做されることによりAとなる、ということは、Aと見做されなければAでない、ということを含意している。見做されることが条件となって、AでないものがAとなるのだと。しかしそれを言うなら、見做されていないものなどあるのか。見做されていないものは、見做されていないものとして見做されているのではないか。見做されていないものがないのであれば、「もし見做されなかったら」などという仮定も成り立たないのだから、見做されることによりAとなるということもまた成り立たない。見做されてAであることと、それ自体でAであることが区別されない。よって見做されてAであるものは、そもそもAである、ということになる。

 世界は一つの全体である。全体を分けた所に個が有る。一つのものを分けるのだから、分けたものは元々一つで、分けられることにより互いに繋がり合っている。全ての個は関係する。だから一つの個を取れば、そこには全てが含まれる。これが全ての個について言える。個は互いに入れ子の関係にある。

 このことは単に世界が一つでありその中に多様が有ることからの、当然の帰結である。個が空間的に内包し合うことは単に平板な関係に過ぎない。重要なのは、内包し合って「有る」ことではなく、内包し合って「生じる」ことである。空間ではなく、時間なのだ。互いが互いに収まることではなく、互いが互いを収めながら現れ出ることなのだ。一個が生じること、瞬間にこの世に現れ出ることが、全ての現れをその一個の現われにおいて強制することである、というこのこと。全ての個についてこれが言えるということ。空間的相互包摂ではなく、時間的意志的相互作用、自由としての個の現成。

 現れる一個は、自他の全てを率いて現れ出るのだ。だから私もそこに巻き込まれている。今この時の生は、これの生でありあれの生であり私の生であり、全てが互いに生じようとすることであり、結果として世界を成すことだ。何が生じているのか、生起は何の生起であるのか、ということは究極的には言えない。私は私の意志により動きつつ、それは他者の意志を呼び込み交わり強制されてある。私の意志は同時に他者の意志でもある。他者の意志は同時に私の意志でもある。全てが同時に、自由に、互いに互いを生じさせつつ自ら現れ出る。生起は何による生起とも言えず、しかも紛れもなく全ての、それぞれの個の全力の生起である。一個の現れが全ての現れである。それが世界なのだ。空間的に客観的に、静止して、単に有って、それで終わり、ではない。

 原因が結果を引き起こす。諸原因の和合が、結果を成立させる。原因としての要素の集合が、結果としての総体を引き起こす。全ての原因の集合は、結果と一致する。とすると、原因と結果との区別はできなくなる。原因の全体がそのまま結果なのであるから。諸原因のうち一つでも欠けていれば、違った結果となる。原因の集合Aは、結果Aとして生起する。同様に原因の集合Bは、結果Bとして生起する。そうして、もし結果Aが成ったなら、そこには原因の集合Aが有ったことになり、結果Bが成ったなら、原因の集合Bが有ったことになる。これは単に結果を分析して原因を得ているだけであるから、実のところ原因の集合は結果の生起に遅れて得られることになる。よって原因は結果に先行せず、結果を引き起こすこともない。

 今現在存在している全ての要素を原因とし、次に生起する状態を結果とした場合、原因と結果の間には間隙がある。結果が出るためには原因に何かが付け加わる必要がある。原因に何が付け加わるかは、原因により規定されない。もし規定されるとしたら、その付け加わる何かがまたその原因による結果であって、そこにまた間隙が有り、そこでまた原因に何かが付け加えられねばならなくなるからだ。よって原因に何が付け加わって結果となるかは、原因によって規定されない。よって原因は結果を引き起こさない。

 構成要素は、既に構成された物を分析することにより得られる。構成要素が構成要素たり得るのは、既に構成されて有るものについてのことである。実際に構成する前の構成要素は、未だ構成していないのだから、構成要素ではない。構成要素は構成対象に先行しない。

 一つの空が個々のものとして現れると考えられる。同一の極限としての空。全てが同一であるなら、その全体の一は何であるのでもない。

 全ての空が互いに関係し作用しつつ現れると考えられる。別異の極限としての空。全てが別異であるなら、一々のものは何であるのでもない。

 AがBになるとき、そのなることの基体は、AでもBでもない。AにもBにもなり得る、故にAでもBでもないCが、AとBの間にある。それは同一としての空なるものCである。

 だがCがAにもBにもなるのであるなら、それらの間にまたAにもBにもCにもなり得るDを求めねばならない。それが真に空なる基体Dである。当然この過程は永遠に続く。

 同一の空なる基体の探究は永遠に続くので、遂にそれは得られないことが分かる。A、B、C、D・・・の間に同一などない。それらは全て別個なのである。同一の何かが仮現してそれらとなるのではない。むしろ、別異であるそれらが相寄って同一を表現するという方が正しい。よって同一の探究の逆、別異の探究が行われるべきである。全て識別されて有るものは相互に別異である。別異だからこそ関係する。

 別異を突き詰めると、それぞれのものは、それぞれ自分自身とすら同一ではない、と言わねばならない。A=Aもまた関係の一種なのであるから。だから空性はそれぞれのものにおける全き別異性として存在することが分かる。それぞれのものは、それぞれ何とも同一でないものとして空である。

 空は普遍性の否定でもあり、個体性の否定でもある。一般概念的本質の否定でもあり、それのそれとしてのそれ性の否定でもある。だから各個の空(無自性)は、一般性の否定として個的でしかあり得ないものでありながら、それがそれ自身であることの否定として存在の全てなのでもある。