記憶は自己同一の根拠になるのか? その記憶が今降って湧いたものでないことをどうやって確かめるのか? 記憶はそもそも何かの根拠になり得るのか? それを言うなら、そもそも何かが何かの根拠になり得るとはどういうことなのか?
現実は常に動いている。動きとは瞬間から瞬間への動きである。現に有る瞬間が即座に滅して次の瞬間が生じる、その移り行きのことである。であるのだが、それはどうして可能か。瞬間から瞬間への移行は、前の瞬間が有り、後の瞬間が有り、その二つを乗り越える、ということではない。ばらばらな瞬間が個別に有り、その間を架橋するということではない。そんなことは不可能だ。前の瞬間が有る時には後の瞬間は無く、後の瞬間が有る時には前の瞬間は無いのに、どうやって超えられるというのか。二つの瞬間が予め有ってそれを跨ぐということが可能であるためには、その二つの瞬間がそれ自体で、個別に、同時に、客観的に有り、その客観的に有る瞬間を、その瞬間を体験する主体が通過する、というような図式が考えられている。だが現実の瞬間は一つでしかあり得ない。過去ではなく未来でもない、過去や未来がまとめて一つの世界として現成する場が瞬間なのであるから。だがそのように唯一絶対の瞬間を言ったところで、その一つの、ただ一つの瞬間からどうやって動きが生じるのか。瞬間は唯一絶対であり、唯一絶対のままで、それ単独で現に有って、それで終わり、などということはない。瞬間は現実に生滅しているのだ。つまり予め複数の瞬間が有ると見る図式には無理があるし、かと言って瞬間が絶対的に一つしか無いと考えてもやはり現実にそぐわない。瞬間は複数でも単数でも無い、ということになる。そして複数でも単数でもないようなものは現実に存在できない。よって瞬間は現実に存在しない。それは観念である。世界が何故動くかと言えば、瞬間が生滅する、入れ替わり立ち替わり現れるから、ではない。そのような瞬間の生滅・連続は、既に動いているということを抽象した結果得られる観念に過ぎない。瞬間の生滅が動きを成すのではなく、初めから有る動きの中に、瞬間の生と滅が分かれ、単数と複数が分かれるのだと、こう考えねばならない。
Aと見做されることによりAとなる、ということは、Aと見做されなければAでない、ということを含意している。見做されることが条件となって、AでないものがAとなるのだと。しかしそれを言うなら、見做されていないものなどあるのか。見做されていないものは、見做されていないものとして見做されているのではないか。見做されていないものがないのであれば、「もし見做されなかったら」などという仮定も成り立たないのだから、見做されることによりAとなるということもまた成り立たない。見做されてAであることと、それ自体でAであることが区別されない。よって見做されてAであるものは、そもそもAである、ということになる。
世界は一つの全体である。全体を分けた所に個が有る。一つのものを分けるのだから、分けたものは元々一つで、分けられることにより互いに繋がり合っている。全ての個は関係する。だから一つの個を取れば、そこには全てが含まれる。これが全ての個について言える。個は互いに入れ子の関係にある。
このことは単に世界が一つでありその中に多様が有ることからの、当然の帰結である。個が空間的に内包し合うことは単に平板な関係に過ぎない。重要なのは、内包し合って「有る」ことではなく、内包し合って「生じる」ことである。空間ではなく、時間なのだ。互いが互いに収まることではなく、互いが互いを収めながら現れ出ることなのだ。一個が生じること、瞬間にこの世に現れ出ることが、全ての現れをその一個の現われにおいて強制することである、というこのこと。全ての個についてこれが言えるということ。空間的相互包摂ではなく、時間的意志的相互作用、自由としての個の現成。
現れる一個は、自他の全てを率いて現れ出るのだ。だから私もそこに巻き込まれている。今この時の生は、これの生でありあれの生であり私の生であり、全てが互いに生じようとすることであり、結果として世界を成すことだ。何が生じているのか、生起は何の生起であるのか、ということは究極的には言えない。私は私の意志により動きつつ、それは他者の意志を呼び込み交わり強制されてある。私の意志は同時に他者の意志でもある。他者の意志は同時に私の意志でもある。全てが同時に、自由に、互いに互いを生じさせつつ自ら現れ出る。生起は何による生起とも言えず、しかも紛れもなく全ての、それぞれの個の全力の生起である。一個の現れが全ての現れである。それが世界なのだ。空間的に客観的に、静止して、単に有って、それで終わり、ではない。
原因が結果を引き起こす。諸原因の和合が、結果を成立させる。原因としての要素の集合が、結果としての総体を引き起こす。全ての原因の集合は、結果と一致する。とすると、原因と結果との区別はできなくなる。原因の全体がそのまま結果なのであるから。諸原因のうち一つでも欠けていれば、違った結果となる。原因の集合Aは、結果Aとして生起する。同様に原因の集合Bは、結果Bとして生起する。そうして、もし結果Aが成ったなら、そこには原因の集合Aが有ったことになり、結果Bが成ったなら、原因の集合Bが有ったことになる。これは単に結果を分析して原因を得ているだけであるから、実のところ原因の集合は結果の生起に遅れて得られることになる。よって原因は結果に先行せず、結果を引き起こすこともない。
今現在存在している全ての要素を原因とし、次に生起する状態を結果とした場合、原因と結果の間には間隙がある。結果が出るためには原因に何かが付け加わる必要がある。原因に何が付け加わるかは、原因により規定されない。もし規定されるとしたら、その付け加わる何かがまたその原因による結果であって、そこにまた間隙が有り、そこでまた原因に何かが付け加えられねばならなくなるからだ。よって原因に何が付け加わって結果となるかは、原因によって規定されない。よって原因は結果を引き起こさない。
構成要素は、既に構成された物を分析することにより得られる。構成要素が構成要素たり得るのは、既に構成されて有るものについてのことである。実際に構成する前の構成要素は、未だ構成していないのだから、構成要素ではない。構成要素は構成対象に先行しない。
一つの空が個々のものとして現れると考えられる。同一の極限としての空。全てが同一であるなら、その全体の一は何であるのでもない。
全ての空が互いに関係し作用しつつ現れると考えられる。別異の極限としての空。全てが別異であるなら、一々のものは何であるのでもない。
AがBになるとき、そのなることの基体は、AでもBでもない。AにもBにもなり得る、故にAでもBでもないCが、AとBの間にある。それは同一としての空なるものCである。
だがCがAにもBにもなるのであるなら、それらの間にまたAにもBにもCにもなり得るDを求めねばならない。それが真に空なる基体Dである。当然この過程は永遠に続く。
同一の空なる基体の探究は永遠に続くので、遂にそれは得られないことが分かる。A、B、C、D・・・の間に同一などない。それらは全て別個なのである。同一の何かが仮現してそれらとなるのではない。むしろ、別異であるそれらが相寄って同一を表現するという方が正しい。よって同一の探究の逆、別異の探究が行われるべきである。全て識別されて有るものは相互に別異である。別異だからこそ関係する。
別異を突き詰めると、それぞれのものは、それぞれ自分自身とすら同一ではない、と言わねばならない。A=Aもまた関係の一種なのであるから。だから空性はそれぞれのものにおける全き別異性として存在することが分かる。それぞれのものは、それぞれ何とも同一でないものとして空である。
空は普遍性の否定でもあり、個体性の否定でもある。一般概念的本質の否定でもあり、それのそれとしてのそれ性の否定でもある。だから各個の空(無自性)は、一般性の否定として個的でしかあり得ないものでありながら、それがそれ自身であることの否定として存在の全てなのでもある。
自体は具体の根拠である。自体が具体として現れるのであるから。
自体は具体の根拠でない。自体はその本性上何であるのでもなく、具体とも異なるから。
具体は自体の根拠である。具体が現れてこそ自体を想定可能であるから。
具体は自体の根拠でない。自体はその本性上何にも依らずにあるから。
自体は具体と共にあり、関係する、としか言えない。どのように関係するかは双方の意志による。
もし自体的空が具体的個として自分を現すのだとしたら、自体と具体はその関係において別異である。だから自体として現れる自体と、具体として現れる自体が別々にあることとなる。そうすると、自体の自体の自体……と、具体の自体の自体……が有ることとなり、自体は終に得られない、ということになる。
が、そもそも自体は自体である限り根拠を要しないものであるから、無限背進は問題とならない。自体の根拠として更なる自体は要らない。
また自体の自体の自体……と、具体の自体の自体……とは、現にそのように分別されて有る限り想定され得る。自体が単に自体として、具体が単に具体として単純に分別される限り、無限背信はそこに存在せず、やはり問題とならない。自体があり、具体がある。自体の自体があり、具体の自体がある。自体の自体の自体があり、具体の自体の自体がある、……という操作は可能だが、それはどこまでも有限な分別に留まる。無限遡行は無限である以上、完遂は不可能である。
またそもそも、自体と具体とは別に存在する個である訳でもない。単に、観念として見ればそのように見ることもできるというだけであり、実際の個の自体とは、具体と別に有るのでなく、具体が具体として現に現れることそのものの、その「こと」を指すのであるから。
一つの物は様々な構成要素・部分に分解することができる。それぞれの構成要素もまた様々な構成要素・部分に分解することができる。合成されていない物は何もなく、分解は無限に続けることができる
真実に存在するものはそれ自体で存在するのであり、他のものに依存しない。何かから構成されているもの、要素に分解され得るものは、要素に依存して存在しているのであるから、真実には存在するとは言えない。全ての物は合成されてあるのだから、真実に存在するものはどこにもない。と、考えることができる。
一個の物は、世界の全体において、他の物との関係として、意味を持ったまとまりとして切り出されてある。その意味で、物は観念である。物の構成要素も同様に切り出されてある。構成要素と、構成されるものとは、観念として関係として互いに意味を持つことにより成立している。だから構成要素と構成対象とは、観念として対等である。ものをいくら構成要素に分解・還元したとしても、元の物の観念は残る。
むしろ物を分解したところに構成要素があり、分解しなければないのだから、観念的には要素の方こそ物に依存している。そして物は他の物との関係により意味を持ち存在するのであるから、やはり他のものに、全体の関係に依存しているのであり、真実に存在するとは言えないこととなる。
だが全体が一個の物の現れである、とも考えられる。何故なら、一個の物は世界全体の関係においてあるのだから。つまり一個を取れば、世界全体がついてくる。一個があれば、それは世界全体の関係を内包している。その意味では、一個こそが全体であり、全体における個々の全てのものは、一個の構成要素であると言える。一個の物が構成要素に依存するのではなく、構成要素こそ一個の物に依存している。だからその一個の存在することが、世界全体を存在させることであり、一個の存在は他の何にも依存しない。つまり、一個は真実に存在するものである、と言えることになる。
あるものはより微細な要素に還元できるから、それそのものとしては実在しない、と主張することは誤りである。還元しなければ、要素の方こそ実在しないのだから。
構成されたものは構成されたものとして、構成要素は構成要素として、それぞれに単純に実在している。
ある物は時に有り、時に無い。またある時にはある姿をしており、別の時には違った姿をしている。現れは時により変わる。現れる物のそれ自体は、時を超えて変わらない。しかし時を超える物、時の裏にある物とは、何の性質も持たず、どのようにあるのでもないものであろう。現にそれは知覚されないのであるから。よって全ての物のそれ自体、本体は相互に等しい、ということになり、世界はその一つの等しい物の現れである、ということになる。
自体は自体の観念して現われる限り、いつかの時、どこかの場所において想定された具体であるから、自体を捉えるためには、自体が自体の観念として生起するための、真なる自体が必要となる。自体は自体であり、自体でない。そうして真なる自体は自体として分別されないため、自体として存在することもないということになる。だがそれは、存在する・存在しないということをも性質として超えたところに真なる自体が有る、ということでもある。何でもなく、かつ何にでもなり得る一つの自体が無限に要請される。――自体を存在者と見做す場合。
ある物は時に有り、時に無い。またある時にはある姿をしており、別の時には違った姿をしている。現れは時により変わる。そして時を超えて変わらない物は無い。全ては新たに生じている。持続が有るように思うのは、ただ一瞬間においてそれぞれのものが自分の過去、経歴を主張しながら現れるからで、瞬間を超えているからではない。全てのものは、現に別々に現れる。その別々さを裏から取りまとめているような同一性は、それ自体が一つの観念であり、別々に有る。生起には外も裏も無い。同一は現に無い。別々なら、別々である。もし本当に同一が有ったら、それは分けようがない一個として有るのであって、やはりそこにも同一はない。
それぞれのものが、それぞれの時に、それぞれ現れる。それらは何にもよらずにそれぞれ出る。何かによるとすれば、物は根拠を持つことになる。根拠を持つということは、根拠に動かされるということだ。根拠と帰結は別々だ。だから帰結は根拠に動かされない。
一個の現れは全体の現れである。一つのものは他の全ての関係として有るのであるから。何と関係が有り、何と関係が無いのか、何とどのように関係し、どのように用いられ、扱われるべきであるのか。これが個の内実であり、それを除いて個は無い。全体の関係において一個が有るので、一個を取れば全世界がそこに有る。一個は時間的・空間的繋がりとしての全世界である。と同時に、一個は、瞬間に有る。過去も未来も無いから。今とは端的には、常に変転して止むことの無い動きであるから。そうして動きの極限は瞬間でしか有り得ないから。時間的空間的連続としての一瞬間の現れ、それが一個に集約される。
一個は全体であり、全体に外は無い。個は外から動かされないので、自分の有り方を外から規制されることがない。一個の有り方を外から規制するものはない。だから個は自ら望んでその姿で現れる、そういう意志だということになる。何にでもなれるが、それでしかありえない。意志とはそういうものである。何にでもなれるのだから、その本体は、何であるのでもない。個の本質は空である。空なる自由意志である。
性質を持たない空というものが、生起の外にあるのではない。生起に外などないし、性質を持たない空が、それぞれの個として分別されて有るはずがない。空は具体的に個において、その自由として空なのだ。具体的に有るから、分別されている。分別されて具体的に有るが、自体的に、本質的にそれではないものとして、自由なるものとして、個は空なのである。それ自体それでないからこそ、それであることを意志できる。それが個の自由である。
全ての個がそうである。だからそこには矛盾がある。全ての一個が、一個の全体として瞬間に生起する。意志は一斉に発動している。外から規制されないものが、外から規制されつつ、その外をも自己の内として、個は互いに互いの意志を内包し、関係として現われつつ全体の関係を成す。
それぞれがそれぞれに瞬間に現れ、場所を占める。その自発性が、個の自体である。物は瞬間を超えないが、超えたものとして自己主張する。同一はないが、再会は有り得る。一つのものに、姿を変えて再会し得る。その再現を再現として成り立たせるのが、一つの意志だ。根拠としての意志でなく、物それ自体としての意志。だから無根拠な意志で、自由な意志。
意志はその都度の個の意志であって、生起の外にある、同一を保った個の意志ではない。そのように同一を保つ個は存在しないから。また予め意志というものが有って、それが瞬間に現象するのではない。潜在してはいるが現象していない意志、という観念は不可能である。意志は瞬間から瞬間への意志であるのでもない。瞬間は断絶しているのであるから。だから意志は瞬間において個が現れ出ることそれ自体であり、物でなく、働きである。
――自体を働きと見做す場合。
絶対の自由、他によらず、他を参照せず、純粋に自ら発する自由は、無からの自由であり、空的自由であり、内実が無く、偶然と区別できない。
自由が自由であるためには、自由を束縛する理由が要る。無制約の自由は自由でない。
絶対的自由は未だ抽象的自由である。
無常からは何も帰結しない。帰結がまた無常であるため、帰結にならない。
無常において全ては偽であり、偽もまた偽である故に、真が有り得る。
無常において真も偽も無い。また真も偽も無いということも無い。
無常において真偽は空である。
自分の行為に対し自分で責任を取る必要はない。自分で取るまでもない。いずれ必ず、相応しい形で取らされる。
好きにすればよい。好きにした結果辿り着いた所で、また好きにすればよい。
意志は常に全体への意志である。何かを意志するが、別の何かは意志しない、ということはあり得ない。そのような選り分け自体、全体を意志することにおいて初めて可能となるから。
世界というものがまず有って、そこに世界を知覚するものが生まれて来るのではない。知覚するものが生まれて来る前に、世界など存在しようが無い。
世界を知覚するものがまず有って、そこに世界が内容として生じて来るのでもない。内容が生じる前に、内容を知覚するものだけが有ることは無い。
空である場所がまず有って、そこに世界が流れ込んで来るのでもない。場所は何かを置く場所であって、空である場所はあり得ない。
世界と、世界を知覚するものとは同時に無ければならない。
世界という外界が有り、そこに同時に知覚するものの内界が有る。
外界と内界とは一つの現れにおいて分別されて有る。
知覚するものにおいては内界だけが現実に知覚されるのであるから、内界はそのまま外界である。世界の内に有ることは、世界が外に有ることである。
内界がそのまま外界なのであるから、全てが外界に有ると見做すことができる。外界だけ、知覚だけが有って、外界の中に知覚者の観念は有れど、現実に知覚者はいない。
内界がそのまま外界なのであるから、全てが内界に有ると見做すことができる。内界だけ、知覚だけが有って、内界の中に知覚者を離れた外的実在の観念は有れど、現実に外的実在は無い。
全ては分別されて有る。
分別されたものは外部を持つ。
世界とはXに他ならない、と規定した瞬間、そのX以外の何かの存在を認めたこととなる。
各個に内は無い。
個の内は個の外である。
全ての関係は互いに異なる個と個の外的関係である。
道徳的命題が証明可能かどうかは疑わしいし、証明できたとしても、そこから即座に行為は帰結しない。証明済みの道徳を、無視することは常に可能である。道徳を実体とするためには単にその行為/非行為が理性的に要求されるだけでなく、現実的物理的にその行為をせざるを得なく/することをできなく、することが必要となる。要するに道徳を現実に完成するには権力が必須となる。
「権利を主張するには義務を果たさねばならない」対「権利は条件に左右されない生得のものであって、義務とは関係ない」。
1.義務の側から権利を見る場合。そもそも義務は人間に自然的に備わっているものではない。義務が生じるのは、義務を果たさないと不具合が起こる時だけだ。特別脅されない限り、義務という概念は生じない。義務は「課す・課される」ものである。自分で自分に課す場合もあるし、他人に課す場合もある。誰かに義務を課したければ、脅しをかけるしかない。その脅しに使われる概念が、義務から見た権利なのだ。それで、「義務を果たさないと、権利を失うことになるぞ(お前の権利を失わせてやるぞ)」という話になる。これを言い換えれば、「権利を持っているのは、義務を果たしているからだ」ということが成り立つ。
2.権利の側から義務を見る場合。一方、権利は義務に比べて人間にとっては自然的なことだ。自分が何かを「してよい」ということは誰にでも基本的に備わっている感覚だろう。実際何かする時には、してもよいからそうするのだ。外的な理由や内的な衝迫から「せねばならない」状態は、これに比べて不自然だ。だから、権利の側から義務を見た場合、義務は単に権利を脅かすものにしか見えない。「せねばならない」はその反対をしてはならないということであって、権利の制限だ。ただ権利から見ればそんな必然は無い。権利からすれば義務など知ったことではない。権利は義務に関係せずある。
要するに、権利を常に人質にしないと義務の概念が成り立たないのと対照的に、権利からすれば義務の概念は不要なので、この点から権利に対する認識の齟齬が生じる。
自己が苦を感じるのと同様に、他者もまた苦を感じているのか?――
まず、「自己が苦を感じる」ことはない。自己は感受の主語ではない。自己なるものが有り、その内的世界が有り、そこにおいて苦が感受される、という風にはなっていない。自己にも他者にも内部など無い。よって「他者が苦を感じる」こともない。
感受は誰のものでもない。一つの、単に有る知覚である。誰のものでもない知覚において苦が生じることにより、そこに初めて、苦に対するものとして、知覚の一部分として、自己が生じる。
よって正しい問いは、「苦が生じることにより自己が生じるのと同じく、苦が生じることにより他者が生じるのか?」となる。これは全く肯定される。苦が生じるから、そこに自己が生じ、同時に自己と分別され、関係する他者もまた生じる。同時である。順序は無い。
あるいはまた問いを次のようにも解釈できる。「このように苦が生じこのように自己が生じるのと同じく、別様に苦が生じ、今現に他者と呼ばれる知覚が、今度は自己となる、そういう事態はあり得るか?」これには一応、あり得ると答える。ただし自己はその都度の自己でありその都度の自己同一を表現するものであるから、それは自己が別種の自己に変容した、という風には体験されない。自己が他者となり他者が自己となろうとも、やはりそれは現にその都度の自己であり、他者である。その意味で別様の自己が生じることは、あり得ないとも言える。
ただ、現にあるのとは別様の苦のあり方が、観念として世界内に有ることは可能である。世界内の局所における感受もまた、観念としては可能である。現にある苦・世界を「自己の知覚」と解釈することは可能である。何しろ、他ならぬこの自己が正に対処しているものこそ、現実の苦なのであるから。それでも、自己は世界の一部であって、全体を感じたり表象したりするものではないのであるが。そのような感受や表象の概念もまた世界の一部に過ぎない。ともあれ、同じ操作により別様にある苦・世界を「他者の知覚」と呼ぶこともまた可能である。
その都度認識された関係は、その都度直接真理であり、その通りに実在する。よって「自己が『自己の知覚』において苦を感じるのと同様、他者もまた『他者の知覚』において苦を感じる」という事態も、その都度現実として成り立ち得る、ということとなる。自己の内や他者の内とはそのような観念が現に形を成す限り可能である。
現に有る思考内容の他に、思考する作用は無い。
現に分別されて有る個の他に、個を分別する作用は無い。
作用とその結果とは因果として同時に有る。
主観は主観として認識されねば主観でないが、しかし認識された主観は主観でない。主観の概念には矛盾が有る。
自分が自分を動かすということは、動かすことに応じて感覚が返ってくる限り成り立つ。身体を動かす時、自分で動かす筋肉の感覚や空気に触れる皮膚の感覚、動かそうという意志的な緊張の感覚、そして実際に動く身体や風景を見るという感覚、等が無ければ、そこに自分の動きが有るとは分からないはずである。というより、そもそもそのような感覚の集合が、自分の動きであり意志である。自分の動きに対し他者の感応がなければ自分の動きはない。ただし、自分が動かす時に生じる他者としての感覚もまた、自分が求めるものとして、自分の意志の内に含まれている。例えば私は椅子から立ち上がる時、「いつも通りの立ち上がる感覚」を求めてそれを生起させようとしている。また、初めてある動作を実行する時も、「大体こんな感覚が生じるかな」というのを予め想定しておいて、準備をしてから行為に移る。感覚は自己の一部として意志されている。
寿命が無限であれば、直面した出来事にその都度そのまま全精力を注ぎ込めるだろうが、実際には寿命には限りがあり、生きている間にやれることには限界があり、リソース配分を考えねばならず、選択すること、回避すること、温存すること等々が必須となる。人生における焦燥や空虚さは、死が存在すること、時間が限られていることの、この根本的なケチ臭さに由来している。