労働観

※色々とガバいのは承知してますが当座の見解です。(2025年9月)

 そもそもどうして人は働くのか。

 「人は」というか「私は」でしょう。他人の労働観なんかどうでもいいし。

 じゃあ、どうして私は働くのか。

 金が要るから。生きるためには飯を食わないといかんし、着るものも住む場所も基本的には買って手に入れないといかん。病気になったら治すのに金が要るし、本も買って読みたいし、ゲームもしたいし。

 生活保護とかもあるけどバッシングがすごいし、資力調査はあるし、水際作戦もあるし、捕捉率20%だし。どうせ大した額は貰えないし。窓口に暴力団関係者を雇って申請拒否してたりするらしいじゃん? 怖いわ。あれは安易に利用できる制度じゃないよ。

 だから基本的には働いて金を稼いで生きていくことになる。金をたくさん稼げれば、それを投資に回して増やすこともできるだろうけれども。でも投資の結果資産が減ることもあるし、定期的な収入は欲しいところだよね。

 一生働かなくていい額を稼ぐこと自体かなり難しい。

 いくらあれば一生働かなくていいのかね?

 それは一生の間どれだけ消費したいかによるね。なんなら、今持ってるだけの金しか消費しない!って固く誓うことさえできれば、その金がなくなったら死ぬという前提で、働くことを放棄して生きていくことはできるだろうね。

 脅迫だよなあ。

 そう、脅迫されて働いている。「生活を人質に取られている」という言い方もあるね。

 脅迫に屈することで成り立つ生活か。

 まあ最初はそうでも、やる気出して働けばそれが「自分事」になる、らしいよ。

 脅迫者に同調しちゃうんだね。自分が脅迫されているという事実に耐えられないから、脅迫されてない! むしろ自分からこれをやっているんだ! っていう風に誤魔化し始めるんだよ。ストックホルム症候群だ。

 いや、それはちょっと悪意のある見方じゃないかな。「自分事」って言ってる人からすれば、実際に、現実的に脅迫なんていう事実は無いわけだからね。

 「生活のため」っていうのは大きな理由ではあるんだけど、実際に労働してたら色んなことが起きうる訳で、その中で労働の持っている意味は変化し得る。これは確かな事実だ。

 職務能力が向上する喜びとか?

 できなかったことができるようになること、一緒に働いてる人とか客とかに感謝されること、成果や努力が認められて褒められること、大きなプロジェクトに関わることで社会に大きく影響できること、等々。

 やってるうちに楽しくなってくるっていうのはあり得るよね。それはそれで健全なことだ。そうなれれば、それでいい。そうなれない場合は……

 淡々とこなしていくしかない。

 でも淡々とこなすことができるのは、既にそれ有能さの証なのよね。こなすことすらできない場合は……

 無能として扱われることになる。攻撃の対象だ。

 なぜ無能は攻撃されるのか?

 それが集団に対する倫理の問題になるから。「できない」ことは罪なのだ。なぜなら仕事は集団でやるもので、向かうべき方向が決まっていて、時間が限られている。だから無能は周囲の足を引っ張っていることになる。

 「社会の全体」みたいなものもそんな風に理解されやすいね。社会は人々の労働で回っています、だから労働において有能な人間は多く貢献し、無能な人間は迷惑をかけています、みたいな。

 社会は職場じゃないんだけどね。労働はあくまで社会の一部に過ぎないのであって。

 社会として向かうべき方向も特に決まってないしね。

 でもそういう「社会=巨大な職場」式の見方はそれなりに根強いんじゃないかな。「社会とは人々が労働を通じて互いに利益を与え合う場である」みたいな。

 労働していない人は、「社会をサボっている」ことになるわけね。

 そこまではっきりとは言わないだろうけど、でも例えば「働いてる人と働いてない人では、どちらの方が偉いでしょう?」って訊かれたら、大抵の人が「働いてる人」って即答するだろうね。

 労働にどっぷり浸かってると、だんだんそんな風に思えてくるのかもしれないね。

 ほとんどの人が毎日労働に勤しんで、労働の中で格付けされて、それをアイデンティティにするからね。

 無能な人間も規範を内面化して、罪悪感とか持っちゃったりして。でも「働いてるだけ自分はマシ」とか、思っちゃったりして。

 あと有能な人間は調子に乗って、その有能さを拡大解釈したがるところがあるね。で、「自分が社会を支えている/あいつは足を引っ張っている」と。

 「誇らしい」と「恥ずかしい」は労働の根幹をなす概念だよね。

 「成し遂げたことが誇らしいからもっと頑張る」「このままでは恥ずかしいからもっと頑張る」って、どっちも「頑張る」ための概念なんだけどね。

 「頑張る」気になれない奴は?

 異常者だ。頑張ることが労働の根幹だからね。

 頑張る気になれない人は、頑張らなくてもできる仕事を探すしかない。

 でも頑張ることが労働の根幹なら、どの仕事をするにしても頑張る必要はあるんだよなあ。

 「辛いからこそ仕事なのです! 辛いからこそお給料をもらう資格があるのです!」ってね。

 だからただ単に生活するってことだけのために、人は苦しまねばならないと。

 いやまあ、頑張るのが苦にならないような活動ってのもあるとは思うよ。上手くそういう仕事に行き着くことができればそれでいいわけよ。で、やはり行き着けなかった場合は……

 自己責任です。

 本当はみんな働きたくないんじゃないの?

 みんな頑張っています。みんな我慢しています。それで結構幸せなんです。みんなにできるんだから、あなたにもできます。できないなら、それはあなたが悪いのです。さあ早くあなたもそうなりなさい、と。

 脅迫だよなあ。

 単純に考えてさあ、知ったこっちゃないわけよ。なんか気付いたらいつの間にか生まれていて、こういう社会でこういう仕組みになっていて、あなたは労働する必要があります、さあ、「やりたいこと」、「なりたいもの」を探しなさい、とか言われても。

 将来の夢とかね。

 進路の選択。一度きりの人生、後悔しないようにね……って、なんでそんなことになってるわけ?

 生きるために食べましょう。ただし食べ物は湧いて出ません。金を払って買いましょう。ただし金は湧いて出ません。働いて稼ぎましょう。ただし働くのは大変です。

 労働の内容は千差万別ですが、実際なってみないと上手く行くかは分かりません。でも間違えないように選択してください。

 1日8時間以上、週40時間以上の労働が基本となります。拒否した場合、まともな生活費は得られません。

 仕事の種類とそこでの働き次第で、褒められたり、貶されたりします。職業には貴賤があり、能力には差があり、競争が求められます。

 嫌なことをたくさん経験したり、過大な負担やストレスにより病気になったり死んだりします。

 でもそれは全て自分の選択の結果です。選択の結果どうなるかは予測がつきませんが、自分の選択なのだから、自分で責任を負いましょう。

 人生は不可逆です。一度下した選択は取り返しがつきません。

 普通に生きてるだけで老いていきます。老いると可能性がなくなってきます。可能性がなくなると選択もできなくなります。可能性が無くなる前に選択しましょう。やり直しはできません。選択をしないということも選択のうちです。時間は待ってくれません。

 考えるより動きましょう。でもよく考えて動きましょう。

 すべて自分の成長のためです。何もせずに生きると、何もできない人になります。人生には詰みがあります。もう駄目だと思ったら、他人に迷惑をかけず黙って一人で死んでください。なお、最終的には事故か病気か老衰で死ぬことが確定しております。

 ……どういう神経で言ってるの?と思うよね。「一度きりの人生」って、最後は死ぬってことじゃん。死ぬんだけど、死にたくないから、死なないために色々苦労しろって言ってるんでしょ? そのための手段を考えて動けと。え、なぜそんなことをしないといけないの? というかなぜそんなことをさせようと思ったの……?

 それが「自然」だったから。

 うまく適応できた人からすれば、自分の環境がまったく自然だと思ってるわけだから、自然に労働して、自然に子供産んで、子供も自然に労働して、っていう風に自然に考えてるんだろう。まあ、子供を産む理由っていうのは時代と場所によるけどね。

 時代によってはどう生きていくかについての選択肢自体がなかったりもするんだから、それについてはありがたく思うべきなのかね?

 いやいや、選択肢がない社会だったら、子供を産むか産まないかについても選択肢はないんでしょうよ。選択肢があるんだったら、産むなよ。と、むしろ思いません?

 「選択をした」って感覚は無いんだろうね。単に、それが自然だから、産んだ。それだけ。

 適応すれば、それが自然になる。私は大丈夫だったから、私の子供も大丈夫。生存バイアスってやつだね。

 生まれてきて何も知らない赤ちゃんこそ本当に「自然」だと思うけどなあ。大人がやることなんか人為であって、不自然に決まってんじゃん。

 社会を維持するために必然的に労働が必要なんだったら、まあ、それが社会における「自然」なのだと言ってもいいとは思うよ。

 人が使うものはほとんどすべて、人が作ったものだからね。

 自分の身体ですら、親が生産したから使用できるものであって。

 こんなもん作らなくてよかったのに。

 いや、作るのが彼らの「自然」だったからさ……。それは仕方ないんだよ。

 でもさ、人の使うものが人の作ったものだからといって、万人が何か作らないといけないってことになるのかね?

 極端な話、世界が仮に100人の村だったとして、1人で100人分の需要を満たせるなら99人は働かなくていいわけだ。

 じゃ、現状の世界はどうなってるのかね。

 少子化で労働力が足りない! って言われりゃそうですか、とは思うよね。

 今日日老人も働いてるんだけどね。

 でもさ、お店に行っても物が無くて買えなかったこととかあるかい?

 基本的な生活物資に関しては、そんな経験はないね。特に「労働力が足りなくて品切れです」なんてのは聞いたこともない。

 じゃ、生産は今でも間に合ってるわけだ。少なくとも生活に直接必要な範囲については。

 そもそも人口が減るなら、必要な労働力も減るはずだし。今よりもっともっと労働を増やしていく必要があるのかって言ったら、そんなことないよね。

 じゃあ、どのくらい減らせるのかね?

 そりゃ正確には分からんが。ブルシットジョブってのも世の中にはあるからねえ。

 少なくとも労働者数=生産力、って訳じゃないよね。

 違うね。まあそういう領域もあるっちゃあるとは思うけど。何にせよ、現代の労働に求められてるのって専門技能でしょ。

 単純な作業は機械に代替されていくからね。

 専門技能が必要な職場に、技能のない人を10人投入しようが100人投入しようが生産性は上がらない。むしろ下がる。

 手を動かしてるだけでいい仕事はこれからもどんどん減ってくだろうね。

 頭を使って工夫しないとね。

 この先どんどん厳しくなっていくんだね。

 万人がそんな特殊能力・専門技能を持ってるとも思えないのだけれど。

 だからベーシックインカムが必要なんだよなあ。

 生活費をただで配る。そんなことしたら働く必要がなくなっちゃうよ!

 なくなっていいんじゃないの?

 何も生産され無くなったら生きていけないよ! 社会が崩壊しちゃうよ!

 すればいいんじゃない? あのね、タダでお金を貰えるようになった瞬間、それまで従事していた労働を全て放り捨てて人々は何もしなくなるのかね?

 「この仕事は社会に必要だ」と思ったなら、続けるよね。「別に要らないんじゃね?」と思ったら、たぶん辞めるね。

 もしそれが社会に(あるいは特定の、誰か好きな人に)不可欠なものだとしたら、それを辞めるのはアホなことだよね。もしみんながアホで、そういう必要な仕事までほっぽりだしてぐうたらし始めるようなら、そういう集団は滅ぶべくして滅ぶんだよね。

 そんなアホな集団は滅んでよろしい。

 というか、自分の仕事が「別に要らないんじゃね?」と思ってる人がその労働を辞めれば、必要な仕事の方に人が流れるだろうし、必要な仕事に必要な知識の習得だって、ベーシックインカムで生活が保障されてれば、時間はたくさんあるんだから可能なはずじゃん?

 だからむしろ生産力は上がるよね。ベーシックインカムでみんな怠けて社会崩壊!っていうのはちょっと自分が属する集団の成員を舐めすぎだと思うわ。

 「社会に必要な仕事かどうか」っていうのはどう決まるの?

 まずはその仕事の成果に需要があるかどうか。次に、その仕事をしたがる人がいるかどうか。

 成果の需要と、労働そのものの需要ね。

 ベーシックインカムはただの給付金と違って恒久的に生活を保障するものだから、人々はある程度は安心して金を使い切ることができるようになる。遠慮なく欲しいものを買うようになれば、需要に合わせてその商品の生産が増える。それが社会に必要な仕事ってことだ。

 景気が悪いと物が売れず、物が売れなきゃ、作られることもない。需要を喚起しないと経済は縮んでいくだけだ。生産することで豊かになる。そして生産は需要で決まる。

 買いたい人がいないと、作る人や売る人もいない。

 生活は保障されることになるから、やりたくない仕事はやらなくて済むようになる。成果に需要があっても人々がやりたがらない仕事については、待遇を上げることで人員を募ることになる。

 生活が保障されているのに、それ以上の収入を人は欲しがるかね。

 当然だ。いわゆる贅沢をしたがる人はたくさんいる。商品は低級なものから高級なものまでたくさんあるんだから、各々自分の欲求を満たせる分だけ稼ぐようになるだろう。

 海外を旅したいとか、良いもの食いたい、良い車乗りたい、良い家に住みたい、良い物を持ちたい、子供を良い環境で育てたい云々。

 で、待遇を上げてもなお誰もやりたがらない仕事は、たぶんそれは本当に要らない仕事だ。必要なのに誰もやらないのはおかしいからね。

 でも本当に大丈夫かな。人ってほんとにそんなに稼ぎたがる生き物なんだろうか。誰もやらない仕事が増え過ぎて、社会が回らなくなってしまうんじゃ……。やっぱり社会を維持するためには、必要な仕事を誰かが必ずやるシステムが必要なんじゃないかな。

 いや、だから、必要なのに、待遇を上げたのに、それでも誰もやらないようなら、もうやらなくていいんだよ。「いかにやらせるか」なんか考えても仕方ないでしょ。「必要だから、やらせる」って一体誰目線なの? やらせるなよ。自由でいいよ。自由のために滅ぶんだったら、滅んでよろしい。持続可能な社会を考える前に、そもそも持続が必要かどうかを考えよう。

 というわけで、私は基本、「人々が各々好き勝手やってればいいんじゃないか?」としか考えていない。だから「好き勝手できるように制度を作ればいいんじゃないか?」と。

 私は人の善意にも期待するし、人の欲望にも期待する。だから、「誰かがやってくれる」と考えている。もちろん私も何かやるだろうが、それは私の自由だし、実際他の誰が何をするかもその誰かの自由だ。「誰かがやってくれる」は責任放棄じゃなくて、単に事実としてそう考えるしかないことだ。

 現状は「誰かにやらせる」仕組みだ。

 誰かがやらなければならない。でもやりたがる人はいない。よし、じゃあ悪人にやらせよう! 誰が一番悪いかな? ……善くなる努力をしなかったやつだ!

 その仕事に就くのが嫌なら、もっと努力すれば良かったじゃない? しなかったんだから、これをやってくれないとね。いつでも求人はあるよ! 選ばなければ仕事はあるよ! 辞めていく人も多いけど、どうせ生きるためには働かなきゃいけないんだから、いくら辞めてもまた人が来るよ! だから賃金は低いまま! 仕方ないよね、社会に必要な仕事だから!

 というかそもそも、「社会に必要な仕事かどうか」自体が第二義でしかないんだよな。まず働かないと生きられないんだし。エッセンシャルワークだろうがそうじゃなかろうが、ブラック企業だろうが何だろうが、そこにいるしかないなら、そこにいるしかない。

 悪い環境で働くことを拒否できない。だから悪い環境のまま。その上で歳をとっていけば、さらに一層そこにいるしかない。

 地獄が社会の受け皿になるっていうのは、ある種の思想からすれば合理的ではある。努力教とか強制労働教とか自己責任教とか。

 人の労働環境を「地獄」と呼ぶのは失礼だって? じゃあなんて呼べばいいんだ。「尊い犠牲」か? え、違う? 「それぞれの人間が自由意志により望んで辿り着いた居場所」? そりゃすごい。

 ある職種とか業界とか職場とかにたどり着く経緯は人それぞれだけど、先の予測なんかつかないじゃん。予測はつかないけど選択は必要で、責任も生じるって意味不明よね。

 実際には選択肢がなくても、そもそも生まれてからの全ての思考・行動が「自分の選択」と見なされてるから、最後に行き着くところもまた「自分の選択」の結果として処理されるわけだ。

 まさに因果の理、前世の業。地獄と呼ぼうが呼ぶまいが、十二分に宗教的だ。

 諸悪の根源は、働かないと生きていけない仕組み、および働かないと生きてちゃいけない道徳だよね。

 「死にたくない」って気持ちに訴えるシステムね。労働全体が負の感情に満たされるのも当然なんじゃない?

 階層制みたいになるからね。「ああはなりたくないから今の仕事で頑張るしかない」とか。「仕事辞めたら野垂れ死に」とか連想しちゃったりね。バカみたい。

 待遇がどうであれ要求は高い。仕事なんだから真面目にやってくれないと困る。雇ってやっているんだから貢献してくれないと困る。人件費がかかって大変なんだ。

 売上! 利益! 目標!

 で、「やりがい」を作り出す。お客様の笑顔のために! 自分の成長のために! プロとしての誇りのために! 社会人として!

 社会人とは会社員のことです。

 あれやこれやの呪文を唱えて士気を高めようとするんだよなあ。呪術だよ。

 金が欲しいだけなんだが。

 なんというかね、「働くのは金が欲しいからだ」っていうのは、そう言えば多分みんな認めるんだよ。「冷めた目で見ればそうだね」とか「客観的にはそうだね」とか「本音ではそうだね。労働で自己実現とか社会貢献とかいうのは、まあ建前として言ってるだけだよ、あんまり気にしなくていいよ」とか何とか言って。

 「給料が出ないなら仕事なんかしないよね」ってことは共通認識ではある。

 ところがそう言っている人でも「働かないと金がもらえない」こと自体については何の疑問も違和感も持ってないんだなあ。そこは世の中の仕組みというか、物理法則みたいなものだから仕方ない、とか考えている。

 働かざる者食うべからずってやつか?

 自分自身を商品として扱うことに慣れ切っている感じ?

 奴隷根性とも言う。

 商品は商品としての価値を発揮しないと商品じゃなくなっちゃうからね。捨てられてしまうよ。

 自分自身の価値を高めようとする商品かあ……。

 仕事とは自分の技術を磨くためにあるのである。

 そういう「道」みたいなものを労働に見出せるならまあ結構だけどね。

 自分には高い価値があると確信している商品。少しでも高く自分を売ることを考える商品。逆に、自分には価値がないと思ってしょげかえっている商品。どれも同じ商品。商品でしかない。自分が商品であることには疑問を持たない。

 商品にあらずば人にあらず。

 商品やってる方が人をやめてると思うんですがその辺どうなんすかね……。

 有用な道具であることが何よりの幸せっていうのも一面事実ではあるよね。

 「必要とされる」快楽とか、「問題を解く」快楽とか?

 有用であることにより、迷いが無くなるからね。自分が邁進する道が分かっているというのは良いもんだ。

 人生の何が問題かって、見通しがつかないことだよ。死ぬまでに自分が大体何をどうして、どうなっていきたいかっていうのを、妄想でもなんでも持ってないときつい。

 死ぬことがどうして怖いかって言ったら、その先に何があるか分からないからだ。でも死を迎えるまでもなく、生がそもそも意味不明なものだし、その中で暗中模索をするのは相当な不安を伴うと思う。まあ、死が分からないからこそ生も分からないままだ、っていう面もあるけど。

 分からないものを分かるものに変換するために、何らかの「軸」が必要になるんだね。労働はそれになり得る。なにしろ生きていくために労働するしかない構造になっているから、生活の中心も自然と労働になっていくし、生活の中心は人生の中心になっていくだろうし。

 「死とは何か、生とは何かは知らないが、今何をすべきかは分かっている。労働だ。働いて金を稼いで生きていくことだ」。

 当面やるべきことをやるのだ。生きるためにやるべきことがある。生きることには義務がある。とにかく労働してりゃあ、義務は果たしたことになる。義務を果たす限り生きていける。義務である以上、そこに意味はある・・・労働は生きる意味を与える!

 労働してれば生きる意味を考えなくて済む、だろ?

 キャリアプラン即ライフプランなり。職業の選択は人生の選択、職業人としての成長は人間としての成長、職務上の義務は人生の義務、職務の失敗は人生の失敗、職務における有能・無能は人生における有能・無能、職務をおろそかにするは人生をおろそかにするなり。職務に展望を持たぬは人生に展望を持たぬなり……。

 人生が労働で埋まっている!

 違う、労働が人生なんだ。人生を埋めているなんて感覚は無いんだよ。普通は。

 私としては、労働の合間に人生をやっている感覚。好きなことをする人生という時間・空間に、労働という異物がぶっ刺さっている感覚。

 世間一般には、労働こそ人生。労働の合間にあるのは飽くまで、労働への添え物、余暇、気力・体力を回復してさらなる労働に励むための、已むを得ざる準備期間。当然、労働が忙しければ無しで済ませてよいもの。

 自分が一生をかけて取り組む仕事を見つけ、それに邁進して、死ぬまで「進歩」、「成長」を続けることが求められている。一つのことに特化された、使い勝手の良い道具としてね。

 道具は便利で、機能の優れたものでなければならない。労働に従事するなら、できうる限り全ての時間を労働者として過ごし、優れた道具になり切らねばならない。それ以外の活動は単にメンテナンスに過ぎない。メンテナンスに手間がかかるのは欠陥と見なされる。

 趣味も休暇も、食事や睡眠ですら、商品価値を高める、回復するためのものでしかない。

 人生には何かしら軸というか、中心となる習慣みたいなのは必要だと思うよ。ただその軸が労働となると……。

 労働を軸にできなかった場合どうするの?という話になる。

 そういう人間の存在は想定されてない。結局これが全ての問題なんだよな。

 人生の合間に労働をやるというには、労働が重すぎる思想設計になっている。

 職業選択の自由があるんだから、誰でも自分で選んで職業に就くはずだ。自分で選んだんなら不満は生じないはずだ。要するにあなたは、その職業を自分の人生として選んだのだ。職務への態度は人生への態度だ。努力して自己の能力を磨き職務を全うする有能な者だけが、人生における有能者として誇らしく、力強く生きていけるのだ。職務上での無能者は人生における無能者として自分を恥じつつ、つまらない人生をやり過ごしていくしかないのだ、云々。

 いや、でもみんなそんなに本気で労働してる訳じゃないんじゃないかな。飽くまで本筋はプライベートにあって、労働は生活に必要だからやってるだけで……。

 はは、みんな建前としてそう言うんだよ。みんな、「建前としては労働は大事だけど、本音としてはプライベートが人生なんだ」って主張するよね。でもね、そういう主張自体が一個の巨大な建前なんだな。そういう「プライベートの方が実は大事なんだ」って主張すること自体が、労働の規範として組み込まれてるんだよ。労働をある程度卑下して見せるっていうのも、労働におけるマナーなんだな。「労働についてある程度のニヒルな態度を取ること」「ワークライフバランスは大事だと主張すること」は労働道徳的に善である。

 プライベートを大事にしてこそ有能な労働者!だからね。なんてことはない、コードに合わせてるだけ。プライベート「も」大事って言ってるだけ。空気を読んでそうなってるだけ。その程度の言葉。

 あいつらの言う「働きたくない」はただの社交辞令、冗談の類でしかない。

 「嫌々仕事をする」っていうのも規範の内かもね。

 みんな、仕事は嫌だって言うんだよ。でも仕方なくやってるにしては、妙に真面目なんだよなあ。「ほんとに嫌がってる?」ってこっちは思うわけ。嫌がってみせるのがマナーだからそうしてるだけで、あんたほんとはお仕事大好きでしょ?ってね。

 「最低限のことはきっちりこなす」とか言ってるけど、その最低限って、かなりその、ボリュームがありますね、という。

 嫌々やってんならもうちょいテキトーになってもよさそうなもんだが。

 そもそもなんだけどさあ、一般的な賃金労働者の労働さあ、難しくない?

 「お仕事というのは何であれ大変なのですよ」。「お金をいただいて仕事をするのだから、大変に決まっています」。……お決まりの台詞。それにしたってねえ。

 たかが生存維持のためになんでこんなことせにゃいかんのか?

 やる気の無い奴は邪魔だ。じゃあ、どうしてやる気のない奴が、そもそも職場に入り込めるのだろうか? 言うまでもない、生きるためだ。

 互いに好きで一緒にいる訳でもない人たちが、好きでもない人のどうでもいい利益のために、別に好きでもない役割を果たさねばならない。生きるために。これが雇われるということだ。

 雇われるっていうのは、クソどうでもいい他人の事業を手伝ってさしあげることです。

 「自分事」として、「主体性」を持ってその事業を引き受けねばなりません。会社に共感し、明確な「価値観」や「ミッション」を抱いて、会社を大きくすることが自分を大きくすること、社会に貢献することが自分に貢献することであるというこの宇宙の真理を信じて邁進せねばなりません。

 アホくせ。生存のために自分を売り込んで試験を受けて、誰かの下について働かせていただいて。

 少しは使えるやつのようだな。よしここで労働する権利をやろう。

 ごく自然に偉そうな社長。我々のあるべき姿を語るありがたいお言葉。

 制度は上が勝手に決めます。でもコミュニケーションは双方向的であることを望んでいます。忌憚ない意見を求めています。でも上が決めた方針は絶対です。

 上司という曖昧な存在。奴隷を管理するための奴隷。労働者の中から一定数、経営側に引き込むことができるシステム。これがあるおかげで労働者と経営者ははっきりと区分されなくなる。

 で、労働者は将来の管理職として、「経営者目線」を求められる訳だ。「広い視野を持ちましょう。目先の仕事をこなすだけでなく、会社の将来を、一歩先の未来を、そして10年後、20年後の自分と社会の有り方を想像して――」。

 くだらない。労働者は目先の仕事をするだけだ。でもそれは経営者目線においては「サボり」なんだな。死ぬ気でやればもっとできるだろう。だからサボり。

 そうだ、労働者はなるべくサボりたい。経営者はなるべく使い倒したい。両者の間には組織として矛盾・反発する力が働く。反発が激化すれば組織は崩壊する。そうならないように制度が作成される。

 経営する人間あっての会社なのだから、経営者の権利は前提だ。あとはどこまで労働者の権利が認められるかについてのバランスの話になる。権利を多めに認めるとそれが所謂ホワイトで、権利を認めないようにすると所謂ブラックになる。どちらも結局は、労働者を上手く組織に取り込むための仕組みだ。

 ホワイト企業については、他の会社よりちょっぴり待遇を良くすることで忠誠心を生み出す。条件が良いので人が集まるし、留まる。こちらは単純だ。

 ブラック企業は会社の権力を増強し、社員を縛る。安月給で残業塗れ、でも残業代は出ません、とか。そんな会社辞めればいいだろうと誰もが思う。でも辞められない。マインドコントロールにより社員は縛られているからだ。ブラック企業の本領は洗脳だ。ハラスメントもその一環だ。あからさまな暴言でなくてもいいのだ。「どこもこんなもんだよ」「ここでやってけないようなら他でもやってけないよ」「この会社ほどあなたにとって良い環境はないんだよ(成長、やりがい、価値提供!)」とかね。

 目標管理制度とかもそれだね。上手くできた者には褒賞(ちょっぴり高いボーナス)と賞賛を与え、会社に感謝させる。上手くできなかった者には懲罰(ちょっぴり低いボーナス)を与え、自信を喪失させる。「他に行ってもやっていけないんじゃないか?」と思わせる。

 単純だが、これで縛れる。縛れないやつはさっさと辞めるので、縛られる奴だけが残る。たくさん雇って、縛れる奴だけ残せばいい。残った者は自分で自分を縛り始める。「そうだ、ここで頑張るしかない」「こんな自分を居させてくれるのはこの会社しかない!」「自分の本当の居場所はここだ!」「ここほど良い環境はない!」そうなると勝手に他人をも縛り始める。自分の判断が間違いだとは思いたくないからだ。その極限において立ち現れるのが、管理職という存在だ。まあ、家庭を持つと出世するという論理の通り、妻子を人質に取られているというのもあるが。

 ……そんなに人の下に就くのが嫌なら、自分で起業すればいいじゃない?

 そうか。そうだな。……では、えー、私は何屋さんをやればいいんでしょうか。

 それは自分で考えてよ。自分で考える奴だけが生き残れるんだよ?

 「生き残る」だの「淘汰される」だの、ここは本当に文明社会ですか? 野生動物の話なら分かるんだけどさ。

 文明社会は、人間の労働により維持されるのです。フリーランチは存在せず、フリーライダーは存在してはならない。

 しかしね、フリーライダーっていうのは誰のことなのかね。一体誰が社会にタダ乗りしている? だって何をするにも金はかかるんだよ。金を払って何かを買って生きているわけ。払った金は、払った先にいる誰かの利益になる訳よ。だから、例えその金が労働して得たものだろうが、どこかから降ってきたものだろうが、支払いができるならタダ乗りなんて事実は存在しないってことになる。

 どうもね、「人々は互いに労働を交換し合っている」っていう思い込みがあるよね。現状、金を得るためには労働しないといけないから、金=労働。経済とは売買であり、商品と金を交換すること。商品は労働により生まれる、金も労働により得られる。だから経済とは労働と労働を交換することである、みたいな。

 アホ臭い。労働しないと金が貰えないっていうのはただの現状追認でしょうに。商品と金を交換してるだけなんだよ。労働と労働を交換してるわけじゃないの。だからね、労働することと生存することは概念的に切り離されてないとおかしいの。文明社会では生存の保障はただの前提になってないとおかしいの。だってそれこそ、タダ飯食わせるだけの生産力は既にあるし、この先も技術革新は起き続けるはずでしょ? だからそれに合わせて金を配ればいいだけ……と、またベーシックインカムの話になってしまうが、そういうことなの。

 技術革新だって労働から生まれるところはあるけどさ、革新を起こすのは高度な専門性を持った少数者でしょ? 大多数の人間にはそんな変化は起こせない。大多数の人間は、誰かがかつて起こした技術革新の上に乗っかって恩恵を享受しているだけだ。ということは、そもそも大多数がこれまでの技術の歴史にタダ乗りしてるだけのフリーライダーだってことになる。誰かが作ったものを保存し、普遍化・普及させ、みんなで使うことができるようにする。これが社会の素晴らしいところだ。我々は皆、先人たちの知の蓄積の上にタダ乗りさせていただいている。自立している奴などいない。

 それは肯定されるべきことなのだ。なぜなら、そもそも、フリーライダーこそ社会の存在意義だからだ。生存する力が強い人間も弱い人間もいる。「強い」ということは、つまり勝手に生きていけるということだ。「弱い」ということは、そのままでは生きられないということだ。じゃあ、社会なるものを必要とするのはどちらなのか。強者は、野生でも生きていけるのだ。弱者が社会を必要とする。だから社会は弱者のためにある。そのままでは生きられない人が生きられるようになることが、社会の成功なのだ。

 「強い者が弱いものから搾取して幸せに暮らすための機構が社会なのである」、みたいな考え方もあるけどね。

 ああ、資本家とか、闇の勢力とか……? それはね、被害妄想だね。その搾取している人というのは、どこにいるの? 搾取している人は、搾取してどうしたいの? 儲けたいの? 儲けたいんだったらみんなが金持ってた方がいいよね? 儲けたい人が裏にいるんだったらとっくにベーシックインカムは導入されてるよ。

 でも経営者は労働者を搾取するでしょう?

 多かれ少なかれそうだね。でも経営者は会社を牛耳ってるだけで、社会を牛耳ってる訳じゃないでしょ。

 大体経営者だって労働者の賃金については、上げられるなら上げてやりたいと思ってるでしょ。上げていかないと辞めて他所に行かれちゃうからね。でも実際不景気で売り上げが悪いから上げられないっていうのがほとんどよ。極端なブラック経営者を除けばね。賃金上げなくても人が来てしまう構造については既に書いたけど、それは経営者が悪いというよりシステムが悪いのであって。

 何かしらの経営者は景気が良い方が良いと思ってるはずだ。じゃ、経営をやってない金持ちとかは? 自分の持ってる金の価値を下げないために、庶民が豊かになることを恐れている人たちはいるんじゃないかな。

 金持ちはさ、金を使って稼げるわけじゃん。資本っていうのは自分が労働しないでも生きていける力のことでさ。金持ってる奴は金を使って簡単に稼げるわけで、庶民が豊かになったら、相対的に多少貧しくはなるだろうけども、そんなん気にするかね。俺が金持ちだったら、そんなん気にしないな。

 そりゃね、富裕層はいるよ。社会の動きに大きく関わってる人もたくさんいるでしょうよ。まあ「安全な」人たちだね。もしかしたら「立派な」人たちかもね。ぎりぎりで生きてる労働者からすれば嫉妬の対象だ。

 多く持ってる人を見るとどうしても「なぜあいつばかり」と思ってしまうもんだ。生まれも育ちも選べない。自由意志だって実のところ環境から生じるものだ。自分の選択って言ったって、選択してから結果が出るまでに、自分ではどうしようもない無数の作用・事象が挟まってくるんだから、結局自分が何を選択したことになるのかは、選択した時点では分からないのだ。だから突き詰めると全部運だ。運が良かっただけの奴が、運が悪かった奴を虐げているとすれば、それは実に問題だ。

 ただ、所有すること自体には何の問題もないからね。「お前は運が良かっただけなんだから、運が悪かった奴に施す義務がある」とか言われたら、金持ちだって困惑するさ。何に金を使うかは、持ってる奴の自由なんだから。全てが運で決まるのだとしたら、慈善家になるか守銭奴になるかも、本人が決めることではない。

 別に金持ちは社会の敵じゃない。貧乏人が社会の敵じゃないのと同じだ。ただ金持ちはほっといてもいいが、貧乏人はほっとくと飢えて死んだり、犯罪をやったりするからね。そこで「強者/弱者」の対は強調されてくる。

 ああそうだ、治安維持のためにも貧困はなくすべきだ。貧困が人を犯罪に走らせる側面ってのが確実にある。でもそこで「貧困の原因は金持ちだ!」なんて言ってたら話が進まないのよ。貧困をなくすには底上げできればいいのであって、金持ちから奪う必要はない。その意味で、格差はそこまで大きな意味を持たない。当たり前だけど金の量って一定じゃないからね。誰かが金を多く持つと他の人は少なくしか持てないとか、そんなわけないから。経済を巨大なゼロサムゲームと見るのはやめましょう。

 というわけで、別に富裕だろうが貧困だろうが、社会に確固たる悪者がいるわけじゃない。だからシンプルに、金持ちが安全なのと同じく、貧乏人も安全にしろ、と要求するだけでいい。それを可能にするだけの歴史的な蓄積、技術による生産力が既にあるんだから。

 でも弱い人が増え過ぎたら、いつかは支えきれなくなってしまいますよ。

 なってから考えればいいじゃん。なんなんだ。なぜ今、この歴史の最先端たる文明社会において、カツカツの飢餓状態を想定して動くのか? 「みんなで働かねば社会が回らない」という認識自体、生産と消費のバランスがギリギリの原始的小集団の理屈に過ぎないよねという話をしているのに、なぜ高度な文明社会で「みんなで働かねば!」などという話をしだすのか? 全く理解できない。

 弱者というのは相対的なものだ。生活的にギリギリの集団においては、少しでも動ける人は動いてくれないと困るし、何もできない人はごく少数に抑えておかないと、動ける人まで共倒れになる。そういう「存在が許されない人」が「弱者」の定義だとしたら、集団の生産性が高まれば、弱者は減っていくと言っていい。高度な社会において弱者はいない。全員が存在していていいのだ。

 また、技術が高まれば、それまでの労働において強者とされてきた人もお役御免になってくる。技術的失業は今でも起き続けている。よって弱者と同様、強者も減っていくだろう。逆に技術が破壊されて文明が崩壊したら、そこには強者も弱者もどんどん湧いてくるだろう。強者と弱者を規定するのは個人の特性というより、文明の状態である。

 技術は保全・継承し、さらに発展させていくべきもので、包摂できる人間の数は基本的には増えていくだろう。そういう技術の段階を積極的に向上させていける人こそ真の強者と言えるかもしれんが、それはごく少数だ。現状の強制労働社会で強いだの弱いだの言ってる人のほとんどは、むしろ全然強者ではない。

 それにしても、「労働ってそんなに必要不可欠なものじゃないよね」と言っただけで強烈な拒否感を抱く人は多いんじゃないかね。そんなに不安か? 一体何を心配しているのだろう。

 人類の未来? むしろ明るい未来は脱労働の方向にしかないと思うぞ。

 自分が飢える心配? だから、飢えないように労働と生存を切り離そうという話をしているのに。

 労働を馬鹿にされると、自分が馬鹿にされたように感じる? 労働と人格が一体化しているのだろうか。

 自分の生命線だから、生命そのものと勘違いしちゃうんじゃないか? そんなことあるか?

 労働を通じて、「より大きな何か」と繋がっている感覚とかがあるんじゃね? 創造神的な何かと……誇大妄想もいいところだ。

 嫌々やってるところに、「それは実は不要なんですよ」とか言われたら腹立つんじゃないかね。「でも現状働かないと生きていけないだろうが! それはただの理想論だ、現実を見ろ!」みたいな怒り方。……「現状がこうだから、現状はこうである」。では一体いつ「どうすべきか」の話ができるのか。現実っていうのは、あり得る可能性も含んでの現実なのに。

 あるいは、現状の強制労働社会で有能扱いされて良い思いをしている場合、その状況を否定されることへの恐れ・怒り。……別に、あなたに仕事辞めろと言ってるわけじゃないんだが。

 あとは、とにかくやってることが無意味だとは思いたくない心理。「こんなに苦労しているのだから、良いことをしているに違いない!」。「お給料をもらっているのだから、何かしら貢献できているに違いない!」。

 むしろ社会の足引っ張ってるだけなんだけどね。

 みんなで労働しているから給料は上がらないし、労働環境は改善されないし、必要な仕事と無駄な仕事の区別もつかなくなってるし、全般的に労働の価値ってやつが低くなっているのだが、そういうことは認識できない。

 過重労働やブラック企業は問題視する癖に、8時間労働が過重であることや、みんなで働いたら必然的にブラック企業が生じることについては認識できない。

 「だけど人手不足なんだ!」。誰もそんな待遇で働きたくないからね。でも働かないと生きていけないからまだ人が来て、そのお陰で人手不足でもどうにか維持できるわけだ。みんなで働くの辞めたら人が来るよ。来ないなら、潰れていいよ。みんなで働くのを辞めたら、人が余るだろ。人が余ったら、みんなそれぞれ自分にとって意義のある仕事に移動できるだろ。

 型にはめられた状態で「選択」して、「競争」して、「成長」して、「使える/使えない」「有能/無能」で互いにしばきあって、「どうにかなる」と自分や他人を慰めて、実際にどうにかして、だから何も変わらない。

 「社会に適応できない奴の負け惜しみだ!」「本当は適応できないのが悔しいから労働を馬鹿にしているんだ!」……むしろ本当は、君の方こそ労働塗れの日々が悔しいから、労働を馬鹿にできないのではないかね? 働かざるを得ないから、働くことは善なのか? 労働における「優等/劣等」自体が労働の枠内のものだと分からないのか? 枠の外があるという話をしているのに、枠の中の論理でしか応答できないのか? そこまで頭が極まってしまっているのか?

 というと、今度は「金だけもらってただ遊んで生きていくなんて家畜みたいだ!」などと言い始めるだろう。家畜は嫌なのに、社畜はいいのか。労働に依存した生存がそんなに好きなのか? いや、家畜が嫌なら、働けばいいだけだ。誰もそれを止めはしないのだ。「労働しなくても生きていけるようにしよう」と言っているのであり、「労働を禁止しよう」とは言っていない。むしろ、労働に依存せずに労働する方が、ずっと価値が高いし、立派な行いだと言えるだろう。

 あるいは、「金を配ったらインフレする!」とか言い始めるのだろうか。たしかに、生産能力のない状態、つまり買えるものの無い状態で金だけ配ったら、配れば配るほど金の価値は落ちるだろう。しかし、今は何も買えないのか? 生産能力0なのか? 戦後の焼け野原なのか? 違う。買えるものはたくさんある。金が無いのだ。働かないと生きていけないから。みんなで働くから。賃金が上がらないから。だから配ってしまえばいいのだ。

 インフレすることが問題なんじゃなくて、物が買えなくなることが問題なのだ。物が買えるなら、インフレしても何も問題ない。今は物が余っていて金が足りてないのだから、金を与えればいい。それだけのことなのだ。

 金を配ったらみんな働かなくなるから、生産能力は結局落ちてしまうって? だからね、人員をたくさん投入すれば生産力が上がるって訳でもないのよ。最低限の人員がいればいいわけ。人が働かなくなれば、ますます機械技術の開発も進むだろうしね。それに人々が金を持つようになれば、それだけの需要が生じる。つまり商品が売れる。売れるから売り手は儲かる。儲かるから、待遇を上げて人を雇うことができる。だから働く人は無くならない。他人より儲けたい人は必ずいる。みんな一律同額のベーシックインカムで満足できない人は必ずいるだろ? ベーシックインカムがあるからって、それで何でも買えるようになるわけじゃないんだから。働かないと買えないものについては、働いて買う。それは今までと何も変わらないのだ。

 それにしても金を配ったら生産が需要に追い付かなくなってインフレするだろうって? インフレして困るものってなんなの? 必需品だろ? 必需品って無限に消費できるの? どんな人でも1日24時間、胃袋は1個、立って半畳寝て一畳……要するに消費する量には限界があるのよ? 金があるからって食事が1日10回になるとか、冷蔵庫は一家に10台必要だとか、そんなんなる訳ないでしょ? 必要なものの生産は足りなくならないよ。需要には限度があるんだから、価格上昇が止まらなくなることもない。

 仮にインフレして、ベーシックインカムだけで生活できなくなると仮定したって、少なくとも労働しないと一円も金が入らない現状よりはマシだろう。例えばベーシックインカムが月20万として、月の生活費はどう節約しても40万かかるみたいな状況になったとしても、一応生活費の半分はそれでまかなえていることになる。一切食えない状態と、少しでも食える状態ではどう考えても後者の方がマシだ。

 あとはあれかな、「財源がない」かな。財源って金の出所だろ? どうやって金を生み出すかって、金なんかただのデータなんだから、出すだけだよ。政府が出すの。それだけ。配る前に集める必要はない。スペンディングファースト。それだけ。

 「賃上げ」は良いことだとされてるが、儲かってないと賃上げはできないわけで、その儲けるための金はどこから来るの?という話だ。政府が出すしかない。政府が出さないと金は増えない。儲けを出すには需要が必要、需要のために金が必要。それだけ。

 労働しても金は生まれない。買っても売っても、既存の金をぐるぐる回しているだけだ。経済の規模を大きくするには金の総量を増やすしかない。供給は需要によって決まる。だから金を増やせば経済は大きくなる。出さないと縮む。需要が減るから供給が減って、生産能力も毀損される。これを続けて行ったら本当に何も作れなくなる。何も作れなくなったら、いよいよ金を増やしても本当に意味がなくなってくる。だから金を増やしましょう、という単純な話。

 「労働と労働を交換する」教義に嵌っていると、本当に、「みんなで頑張って働けば経済は大きくなる!」みたいな錯誤に陥りやすいのだ。働くことで金が生まれて、その金を回すことで経済が成長するという幻想。マクロの話は個人や組織の頑張りとは関係ないのだ。

 あとはもう、「とにかくみんなで働く方が、働かない人がいるよりは良いに違いない」という素朴な論理か。「金は政府が発行するもの」ということが分かった上で、……通貨発行の上限は生産能力の上限である。――まあ、そうだな。よって通貨発行の上限は労働力の上限である。――うん?……うん、まあ、そうだな。よって国民は須らく労働すべきである。――ちょっと待て、と。別に、労働人口を最大にした上でそれに合わせて通貨発行・支出をする、とかやる必要ないじゃん。今いるだけの労働力に合わせて支出すればいいじゃん。支出する、景気が良くなる、それに合わせて労働人口が増える、って順番が普通でしょ? なぜ先に働かせようとするのか、これが分からない。

 「こちらが何かをしてあげた分だけ、社会はこちらに何かを与えてくれる」みたいな発想ももはや病的と言っていい。どうしてそうみみっちくてケチ臭いのだろう。何かをしてあげることと、何かを享受することとはもはや無関係だ。これを書くのに使っているパソコンだって別に私が作ったわけではない。でも私はこれを正当に使うことができるのだ。あらゆる技術はそういうものだ。与えなくとも得られるくらい豊かになった社会で分配を渋ることは、掠奪しているのと同じだ。

 そうでなくても、そもそも人が生きているのは社会を生かすためではなく、自分を生かすためだ。生きていくためのあらゆる活動がコストであり、労働だ。賃労働だけが労働なのではない。我々は皆等しく、理不尽にこの世に投げ出された存在者なのだ。なぜ連帯できないのか? みんな生きてて偉いのだ。だから報酬をよこせ、となぜ言えないのか?

 さてまとめに入るか。あんまり長くやってもね。なんか労働観というかベーシックインカムについての意見みたいになってしまったな。まあ両者の関係は密接だから仕方ない。

 ベーシックインカムが無いから働く。みんなで働くからみんなで貧乏になる。みんな貧乏だから景気が悪い。景気が悪いから会社が潰れる。会社が潰れるので、働く場所がなくなる。働く場所がなくなるとさらに必死で労働にしがみつく。労働にしがみつくから賃金は上がらない。そうこうしているうちに生産能力が縮小し、失われる。文明が終わる。分かるか。ベーシックインカムで社会が崩壊するのではなく、ベーシックインカムがなければ社会はいずれ崩壊するのだ。

 「低賃金で働く奴隷がいなければ社会を維持できない!」。違う。奴隷が必要な社会こそ持続できないし、持続すべきでない。社会を維持するのに不可欠な仕事なら、賃金は上がっていかないとおかしいのだ。恐怖と圧力で人を労働に就かせる構造が問題だ。まあベーシックインカムがある状況では、「低賃金でもやる」って人と「低賃金ならやらない」って人が両方出るだろうから、実際賃金がどうなるかは組織次第なところもあるけど。全体としては上がっていくはずだ。少しでも金が稼げるところで働きたいのが大多数だろう。

 ともあれ、やりたくてやってるなら良い。やるべきだからやってるのも、「やるべき」の定義次第では良い。「やらないと生きていけないから、やるべき」はクソだ。なぜなら「やらないと生きていけない」などということは現代社会において本来あってはならないことだからだ。生存は苦労して勝ち取るべきものであってはならない。

 「やってて楽しいから」やるべきだ。その楽しさが貢献感のためであれ、金銭目的であれそうだ。

 それにしても現代の会社で言われる「仕事を楽しみましょう!」の虚しさと言ったら……! 正気の人間に耐えられるものではない。「(どうせやらないと生きていけないんだから、せめて)仕事を楽しみましょう!」ってね。これが奴隷根性じゃなくて何なのだろう。健気さか。いじらしさか。それでいいのか。いいらしい。楽しんでいるフリをしているうちに、だんだん本当に楽しくなってくるそうだ。狂人の真似とて、いや皆まで言うまい。

 労働は自らの体力、知力、感情、時間を売って金を得ることである。

 自分の課題に頭を使うのは楽しいことだ。頭を使われるのはこの上ない屈辱であり、苦痛だ。

 人生の時間は限られている。嫌々労働すればするほど、他人の人生を生きることになる。

 しかしまあ、落ち着いて冷めた目で人生を眺めてみよう。労働に終始し、自分の時間を持たなかった生と、労働を一切せず、全て自分の思うがままに時間を使った生とでは何か違いがあるのだろうか?――などと問うことで、人は労働を正当化しようとするのだ。健気で、いじらしく、切ない! 「どうせ何をしても同じだから」。「最後はみんな死ぬから――」。

 不本意に労働することは屈辱であり、感情的コストを要する。感情的コストを削減し、少しでも労働の負担を下げるため、労働者は屈辱感を隠蔽する。「やらされているんじゃない、やりたいからやっている!」。おお自発的隷従、従属的主体性!

 「自由には責任が伴う。従って自由は存在しない」というのが、人を病気にする現代の理屈だと思う。責任の伴う自由って自由なのだろうか。要は脅しをかけられている自由なのであり、脅しをかけられているのだから自由ではないし、「主体性」などというものも期待できない。にも拘らず企業に属せば「主体性」が求められるのであり、しかもそれが当たり前なのだ。これでは全く何を言っているのか、さっぱり意味不明だ。

 それというのも言葉の意味が捻じ曲がって使われているのが問題なのだ。文句を言わず(言うとしても「生産的」である範囲でなければならない)、与えられた状況に感謝し、「働いて稼がないと生きていけない厳しい現実」をありのままに認め、その中で努力に勤しむことが「主体性」なのだ。つまり保身と惰性と協調性と従属性と利便性が「主体性」の内実なのだ。自由時間に好きなことをするのは「主体性」ではない。自由時間にも「自己研鑽」「自分磨き」に打ち込むのが「主体性」である。「自己」「自分」とは仕事のことだ。

 ならなぜ「服従しろ」「都合の良い存在であれ」と素直に言わないのかというと、それが「モチベーションを下げる」からで、「自発的に頑張ってほしい」からだ。「組織の一員としての自覚」「自分事として」「やらされ感を出してはいけません」「価値観を会社に合わせていきましょう」どうたら、こうたら。

 全てただの呪文にしか聞こえん! 何かの宗教儀式に間違って参加してしまったような感覚をずっと持ち続けている。

 労働に救いは無い。主体性も無い。なんなら普遍性も無い。なのに「論理的」であることはみんながやけに気にしていて、馬鹿みたいだ。互いに監視し合い、承認し合い、束縛し合っている。それが社会の「支え合い」だってね!! 一生懸命、労働教の論理に合わせて「論理的」な答えを出し続ける訳ですよ。涙ぐましい。救いは無いのに。そして「嫌なんだったら、辞めてよい」。ただし「自由には、責任が伴う」。よって「好きにしていいが、どうなっても知らないよ」。はあ、なんと論理的!! 論理的な行動! 論理的な選択! 論理的なコミュニケーション!

 悪口は少量なら清涼剤になるが、言い過ぎるとくどくて不快だ。

 いや、別に「労働者は奴隷だ」と言ったからといって、個々の労働者を馬鹿にしている訳ではない。労働者が奴隷にならざるを得ない構造を指摘したまでだ。もちろん、自分を磨いて、組織に必要不可欠な人材(人財?)になって、受け身で働くのではなく積極的に貢献して、新しい価値を提供して、自分がこの社会を良くしてやるのだ!を意気込んでいる人は、素晴らしい。そうすればいい。やる気のある奴隷は奴隷ではない。多分ね。ただ本当に、「全員でそれをやる必要ありますか?」と言いたいだけだ。

 真面目に働きたい人にとっても、真面目に働かない人って邪魔じゃないんだろうか。邪魔者がいなくなった方が仕事がスムーズになるとは思わないのだろうか。労働とは真剣で厳粛な、尊い場所でなければならないのでは? だから、「やる気のない奴は出て行け」となんの気兼ねもなく言える社会の方が良くないか? それでこそ「主体性」も発揮されるというものだ。

 解雇規制とかもね、労働なしで生活が保障されてりゃ不要なわけで。やる気のある奴は足を引っ張られるし、やる気のない奴は嫌々やらされるだけだし、誰も得してないね。

 現場における「無能」に対する憎悪っていうのは凄まじいものがある。しかし残念ながら、無能の側に立ってみれば「俺を雇った方が悪い」としかならないのだな。本来不要なはずのことを仕方なくやってあげてるだけなんだから。誰も幸せにならない。それは個人の問題ではない。システムの問題だ。だから無能な個人に怒ってもしょうがない。システムを批判せねば。そういう観点は皆無で、現状の外を認識できず、枠の中をひたすらぐるぐる回って結局「自己責任!」と言い張るだけなら、まあ、終わってますわね。しかしそういう個人を非難することもまたできない。有能な方々には引き続き熱心に働いていただく他ない。

 個人が社会に対し持つ責任なんてものが本当にあるかは知らないが、あるとしたら、それは「社会を良くする」ことに尽きるだろう。そして「良くする」にも様々な手段・角度があるものだ。社会の必要を満たすための労働を行うことも貢献だが、無意味に労働にしがみつかないこともまた貢献なのだ。労働者を増やすとか、移民を入れるとか、そんな話では社会は変わらない。社会を変えるのは技術革新と、労働しない人間が増えることによるのである。