< メモ >
日常の中に幸福なひとときがある、じゃ駄目なんだよな。日常そのものが幸福でなければ……。
ただのメモだからな。ひたすら自由に書けばいい。
平凡なことを、考えた通り平凡に書くこと。
自分用の処世訓は必要になるだろう。
私がどういう人間なのかをきちんと自分で知っておきたい。
話すのが嫌いだ。黙っているのが好きだ。
違う。優位に立っている時には軽く口が利ける。自分が劣っていると思うと口が開かない。
私は能力の優劣を気にするタイプの人間だ。
対等な関係も築けない。必ず何らかの差が気になって、どこがどう優れており、どこがどう劣っているか見つけようとする。
ただ劣っているから、嫉妬するというのでもない。向上して優位に立ちたいとも思わない。ただ優れた人物が傍にいると、「じゃあ、もう全部あんたがやってくれ」という気持ちになるだけだ。
私には競う気持ちが無い。ただ優れた者が全て決めるべきだと思っている。劣った者はついていけばいいだけだ。
私は親に従うように他人に従う。実際、私は親に反対したことはほとんどない。
人と人が関わる場が徹底的に面倒だ。誰がどう動くかを決めるのが面倒だ。私抜きで勝手にやっていて欲しい。
私が行動に喜びを覚えるのは、私一人でできることをやる時だけだ。あるいはその場で有能な者が私しかいない状態、私が最も優れている状態、私がやるしかない状態で、ようやくやる気が出る。
ということは、私は尊敬されたがっていて、尊敬されずに何かをすることに耐えられない傲慢さを持っているのではないか? 尊敬されたがりの凡愚。
人と関わるのに向いていない人というのはいるものだ。
快活に、自分と他人が対等な立場で、対等にできることを探っていくような積極的な態度を、彼らはどうやって身に付けたのか?
子供の頃は今ほど内気ではなかったと思う。今よりは他人に話しかけることに抵抗が無かった。好きでもなかったが。しかしそれは、私は勉強はできたので、学校という場で自分が優れているという自信のもとでの振舞いだったかもしれない。事実進級して、高校生くらいになると特に私は勉強においても成績が優れなくなってきたが、人が嫌になってきたのもその辺りからだったかもしれない。
勉強はできたが運動はさっぱりだったので、自分にはどうしてもできないことがあるということは、よく知っていた。その上で、改善する気も無かった。子供時代のことだからなおさら、生まれつきできることはできるし、できないことはできないものだと考えていた。だから努力をするという習慣も無く、自分を変えるという発想も無かった。
受験勉強に熱心な学校に行ったのも良くなかった。私は努力をせず、流れのままに行き着いたところに居つくことができればそれでよかった。ところが流れで辿り着いた学校で努力を強いられたのだから、当然私は傷付いた。
志望校というものを決めるタイミングは高校と大学で2度あった訳だが、どちらも自分で決めなかった。周囲が勧めたところに何となく行った。行きたいところが無かったからだ。就職活動も、大学に説明に来ていた企業を適当に受けて、引っ掛かったところに入った。
まあつまり、適当に流れ着いたところに居つけばいい、という自分の格率にはこれまで従ってこれたと言える。指針を持たないというのがむしろ指針だった。
万事優れた者が決めればいいと思っているが、指図されるのは嫌いだ。私自身の行動指針に従うことについては、どう考えても私が最も優れているからだ。だがその私自身に志望が無ければ、仕方ない、雰囲気で選ぶしかない。後のことは後の私がどうにかするだろう、といつもこれで済ましてきた。
志望が無かった。というのも、すっかり優れたところの無い人物になっていたからだ。優れていないと何かをする資格は無いと思っていた。今も思っている。
怠惰に過ごすとそうなる。といっても、一体何を勤勉にやるべきなのか分からなかったのだが。初めから優れていないのなら、勤勉にもなれないはずではないか。
要は才能の有ることがしたかったのだが、才能の有ることが無かった。これという道が見つからなかった。
就職先では適当にごまかしつつ日々を過ごした。自分のためではなく他人のために頭を使わねばならないというのは凄まじい苦痛だ。
私は哲学や宗教が好きだ。哲学や宗教においてだけは、優れた者を自分より先に置いて「じゃあ、もう全部あんたがやってくれ」という訳にはいかないからだ。
存在や世界や死について考えることは自分のためにしかならないからだ。
公的な学問となると話が違ってくるが。公的ということには優劣があるのだ。カント哲学の秀逸な解釈についてなら、誰か詳しい奴が勝手にやればいいだろう。
「哲学は私のものだ」という主張もまた公的な場においてはなんと虚しいことか。
私自身のものの見方や思想というのもほとんど他人の写しに過ぎないとはいえ、原本より写しが劣っているということはない。少なくとも対象をきちんと見れていないと写すこともできないのだし、正確な写しなら、誇りを持ってその写しを自分のものと言い張ってよく、不正確な写しなら、それはそれでその不正確さの中に自分のものがある。そしてそれが自分のものだというだけで、他人のそれより優っているのだ。
オリジナリティがない? いいんだよ。良いことは誰が何回言っても良いんだから。
生活の中の諸要素については正確さと不正確さはそのまま明確な優劣だ。優れたものに承認されないと仕事にならない。その場にいる熟練者とか、客とかだ。厳しい評価に晒されてこそ、素晴らしいものができるのだ。知ったことか。誰だお前は。文句があるなら自分でやれ。と私は思う。だから私は労働に向いていないのだ。
だから私は優れた者に従うというよりは、興味の無いことについては私抜きで勝手にやっててくれとしか思えないのだ。
そんな私に向いている職業があるとすれば、誰がやっても同じで優劣のつかない完全な単純作業くらいのものだろう。しかし今日日そういう仕事は機械がやるのだ。だから私は仕方なくやりたくもない頭脳労働に従事することになる。他人のために頭を使うのは、身体を縛られて引きずり回されることよりなお辛いと思う。「やらされている」ことは明らかなのだが、されるがままにはなれないからだ。
衣食住は前提とした上で私の人生に必要なものは、本を読む時間と考える時間と書く時間と、本を買う金だけだ。あ、あとパソコンか。
試験は嫌いだ。評価も。人が人を評価するってのはどういうことなのかもうちょっと考えてから評価して欲しいね。
対等な友人も仲間もいない。「私ごときが誰かの友人になれるか?」という気持ちと、「お前らごときが私の友人になれるか?」という気持ちが同時に。
評価されるのが嫌いなのは、自分が評価ばかりしているからだ。そんなのは自明だ。互いに評価しなくて済むようなやつはどこかにいないのか。
自分より劣ったやつなら愛せる。それは愛ではない。これも自明のことだ。つまらん。
学業と職業が人生の本題だというようなルートをずっとたどってきたが、もっと違った道もあったんだろう。
それで言えば、いつでも私は本題以外に全力だったな。
いや、私にとっての本題が周りと違っただけだ。
「やるべきことをやってから、やりたいことをやるんだぞ」と父に説教されたことがある。そんなの言ってて悲しくならないのか? しかし人生の悲哀がどうのこうのということもなく、自然にそう思っているようで、それが恐ろしかった。
全く悩まず苦しまず、考えず生きて死ぬ輩も世の中にはいるだろう。そうなりたいかと言われると、なりたくはない。苦しみは美化されるべきではないが……。
「死ぬこと以外かすり傷」なんて言われたら殺したくなっちゃうよ。
良い人ほど自分を卑下しがちだ。だから私は良い人なのだ。卑屈な者に幸いあれ。
困っていない人は「困っていない」と言う。少し困っている人は「困っている」と言う。大いに困っている人は、「困っているのかよく分からない」と言う。
全てを間に合わせで生きてきてしまった感がある。
間に合わせるのではなく、常に努力して余裕を持ってことを運ぶのが良かったのではないかと、たまに考える。
しかし「努力して余裕を持つ」というのはおかしいのではないか。努力なんぞしているということは、余裕が無いということなのでは。
より良い未来を見据えて、かっちりとした未来を定めて、そこに合わせて現在を動かすのが立派な生き方だとされている。
未来に囚われないのは難しい。
未来に囚われず、行き当たりばったりに生きると、今度はそれに後悔して、過去に囚われたりする。
過去が変えられないのは自明なので、過去に囚われないことは割合簡単ではある。深刻な心的外傷を負わない限りは。
未来に囚われないというのは難しいのだ。何となく、未来は変えられるような気がするからだ。実際のところまだ未来は無いのだから、何が変わるということも無いのだけれど。
既定路線があるような気がしてしまうのだ。「このままだとこうなる」。それはまずいから、「じゃああっちの道に移ろう」ということで、「未来が変わる」と。しかしやっぱり、まだ無いんだから、変えるも何もないのではないか?
行き当たりばったりを極めることだ。私に人生論があるとすれば、それだけだ。
「人生」という言葉は、もちろん私もたまには使うが、あまり好きな言葉ではない。なんか胡散臭い。「人生」などというものが本当にあるのか?
「人生を賭ける」というのは、何を賭けているのか。「人生が滅茶苦茶になる」「人生が壊れる」という場合、何が壊れるのか?
根拠らしきものを添えて断言されると、その根拠が実はあやふやなものでも、正しいことが主張されているような気がしてくるものだ。
より良い社会を構築するために科学があるのではないし、より良い人生を送るために哲学がある訳ではない。知識はそれ自体で愛されねばならない。
哲学的認識を知識と呼んでいいかどうかには一考の余地がありそうだけれども。哲学の知識と言えば、やっぱり過去の哲学者の主張と、哲学史についての知識になる。
先人たちに敬意を。彼らは私にとって最も大事なことを、私の代わりに考えてくれたのだ。
しかし「誰々哲学の正しい理解」とかには興味がない。ただ自分の考えたいことを考えるだけだ。だから私のやっていることが哲学であるかそうでないかも、どうでもいい。
やっぱり、どいつもこいつも全員死ねばいいと思った時の最適解は、自分が死ぬことなんだろう。
弱い奴、苦しんでいる奴、うじうじした奴、人の足を引っ張る奴、周りを暗くする奴、人生を力強く生きていくつもりのない奴……にはさっさと死んでもらった方が世の中がすっきりしてせいせいするだろう、というのも分からんでもない。
しかし「死にたい」と言っている人に対して「死ねばいいじゃん、邪魔臭えなあ」などと言うのが普通の世間にはなって欲しくない。
他人には目一杯優しくしてやればいい。では自分の場合はどうだ。優柔不断は良くない。さっぱりと生きるか、さっぱりと死ぬかだ。
大抵の悩みは金か健康か、愛や地位や能力の問題だろう。愛されないことや地位がないことの悩みはどうしようもないが、金や健康なら普遍的に保障されても良いはずだ。社会・国家・政府はそのためにある。
弱肉強食が自然の掟であり、人間もそれに倣うべきで、社会とは強い者が弱い者を支配し、自己利益を最大化するための構造のことだ、とする理解もある。
自然になろうとする人間は不自然だし、人間の不自然さもまた自然の一部ということで、両者を対立させるのはおかしい。
社会という単一の集団があり、その中に構成要素としての集団や個人がいる、のではなく、社会とはそもそもある集団、ある個人から見られたものに過ぎない。
社会なる集団は無い。社会人という人もいない。
人は社会に貢献するために生まれてくるわけではない。
人は活躍するために生まれてくるわけではない。
人は成長するために生まれてくるわけではない。
「ために」というのは生の中にあるのであって、生そのものが何のためにあるかというのは不適切な問いだ。
それでも生が何のためにあるかと問いたくなるのは、生が時間により分断されるからだ。現在が未来のためにあると思うからだ。
だけど現在が苦痛に満ちているならどうするのか。より良い状況を目指さねばならない。ということは、やはり現在は未来のためにあることになる。
要するに、現在が苦痛に満ちており、より良い未来に向かう見込みも無い時、生は何の為にあるのか、という問いが出てくる。これは全く適切な問いだ。人は苦しめられると、自分自身を手段としか見做せなくなる。
世界がそれ自体で良いか悪いかは、判断できない。それぞれの世界があるだけだ。
同時に現実には世界はこれ一つしか無いのだから、比較対象は無く、良し悪しを超えている。
また同時に、唯一の現実の世界において、それが悪いと思われたなら、思われた通り、それは悪い。
命を救うことは誰にもできない。延期するだけ。
金があれば自由になれる。自由は良い。みんなが自由になるべきだ。だから金を配るべきだ。
現代社会は、全員で労働しないとやっていけないような状況ではない。むしろやっている本人ですら無意味だと断定できるような仕事が増えている。
だから労働者は減るべきだ。労働者が減ることの心配はすべきではない。
むしろ、ブルシットジョブから解放されてこそ、ブルシットではないような仕事ができるようになるはずだ。
ブルシットジョブが辞められないのは、辞めると収入が断たれるからだ。ベーシックインカムがあればその心配は無くなる。
必要な仕事は、誰かが必ずやる。全員が労働好きであることはあり得ないが、全員が労働嫌いであることもまたあり得ない。
人手が不足するなら、その仕事の賃金は上がる。嫌々でもやってくれる人がいるなら、高い金を出さなければならない。
誰も働かなくなったらまずい、などということは誰でも知っている。誰でも知っているのだから、実際そうはならない。
ベーシックインカムで誰も働かなくなり社会が崩壊するようなら、それは成員が社会を維持する意志を持たないということになるので、崩壊するのに任せればよい。
「嫌なら出ていけ、出ていかないなら、従え」が集団の論理だ。組織であれ国家であれ家族であれ。「自分で選んでここにいるのだから、ここでのルールに従ってもらわねば困る」。
これは生そのものにも適用される。「自殺しないということは、生き続けることを選んでいることであり、今の人生は死ぬよりはましだということになる。だから人生に文句を言うな」。
集団に入ることには試験があり、そこで「参加する意志」が確かめられ、約束されたことになる。
国家や家族の場合、試験は無いが、そこに居続けるということは、そこでのルールに同意していることと見なされる。
詳細な生き方は指示されないが、大まかなところは強固に設定されている。例えば大金を持っていないのに労働を辞めた場合、その人は愚か者であり、はみ出し者であり、(賃金という)庇護を自ら捨てたのであり、社会的アイデンティティを捨てたのであり、「役に立つ」ことを辞めたのであり、だから酷い目にあっても文句を言う資格は無い、一言で言えば自己責任。
だが自己責任の概念を実現するのは他者なのだ。
因果応報は実在するが、それは世界がそういう構造になっているからではなく、人々がそうしたがるからだ。
「嫌なら出ていけ」が成り立つ限り、義務もまた成り立つ。「嫌なら出ていく」が現実的選択肢となり得るかどうかが問題なのだ。「嫌なら出ていく」が現実的選択肢となり得ない場合、「出ていかないなら義務を守れ」もまた成り立たない。
義務は従うべきもので、その意味で自由を制限するが、同時に義務から離脱する自由が保障されていなければ、義務は意味を持たない。
つまり義務とは、意志によって従うところに生じるべきものなのだ。自由意志無しの義務とは要するに脅迫に過ぎない。
労働には自由意志により行う場合と、脅迫されて行わざるを得ない場合があり、どちらも「職務上の義務を果たしている」と表現され得るのだが、これが良くない。
自由意志により自ら義務に服していることと、脅迫されてそれに従事せざるを得ないこととは異なる。しかし脅迫は基本的に脅迫と見なされない。何と言っても「望んでそこにいる」のであり、「嫌なら辞めればいい」であり、「結果は自己責任」だからだ。概念的・規範的にそうなっている。
ここにいることを選んでいるのは事実だが、しかし義務に服すること、最適な人員であるよう努力することにも乗れない、という場合、息苦しい生き方になる。
それは「自由意志でここにいること」を強制されるからだ。これに対抗するように、「私は最適な人員になる気は無いし、それは悪いことではない」と宣言しておかねば、人は集団の中で苦しむことになる。
いや、しかし……やはり嫌なら辞めればいいだけなのでは……? 「嫌なら出ていく」は本当に現実的選択肢にならないのだろうか。
所得が保障されていなければ、辞めづらいのは事実だろう。だからベーシックインカムは必要なのだ。
その人の性格上問題が起きている場合、それはその人の責任なのか?
社会は誰かの労働で成り立っている。社会の中で生きるということは、他人の労働を買うことである。ところで現状、買うための金を得るためには自分も労働せねばならない。だから社会で生きるということは、自分の労働で他人の労働を買うことだ、ということになる(なってしまう)。
労働で金を稼ぐということは、自分の時間、能力、体力、身体、心を売ることである。
労働者は自らの商品価値を高めねばならない。
労働者は自分を売る商人である。主人と奴隷が同一人物。
商品がいるだけなのだ。売ったり売られたり、買ったり買われたりする商品が。
自分が一生をかけて取り組む仕事を見つけ、それに邁進して、死ぬまで「進歩」、「成長」を続けること、が求められている。
そのような人間は、一つのことに特化された、使い勝手の良い道具だからだ。人間は人間に使われるために生きている。道具は便利で、機能の優れたものでなければならない。
そこで、道具であることに快楽を求める人間と、道具であるよりはもっと無為な者でありたいと考える人間とで、生の相貌が全く異なってくる。
労働に従事するなら、できうる限り全ての時間を労働者として過ごし、優れた道具になり切らねばならない。それ以外の活動は単にメンテナンスに過ぎない。メンテナンスに手間がかかるのは欠陥と見なされる。
「必要な休息」「余暇の活動」「趣味」は認められている。回復のための、二次的な、「やむを得ない」ものとして、怠惰の証、弱さの証として。「遊びたければ、遊んでてもいいよ。でもその間に、優秀な人たちはみんな努力して、先に進んでいくけどね」。
「趣味」も「休暇」も、食事や睡眠ですら、商品価値を高める、回復するためのものでしかない。
自分自身が目的であるような人間がいない。商品が、道具がいるだけだ。
建前上、仕事は自発的に行われるものである。
人は一人では生きていけないという現実がある。生きる上で満たされるべき必要が多岐にわたり、そのすべてを自分で賄うことはできないので、他人に頼る必要がある。しかし人は他人に何かをしてあげるだけでは満足できず、自分も何かをしてもらわねば気が済まない。因果応報の感覚というものがある。復讐の精神とも言う。損失には埋め合わせがなければ気が済まないのだ。この原理が逆転すると、今度はしてもらったからにはその分だけして上げねばならないという原則が出て来る。こうして、誰もが他人から得たものによって暮らしているのだから、他人に与えるように努めなければならない、というような規範が生じる。要するに、なるべく労働すべしという規範である。
ここには飛躍がある。仕事の成果は金と交換されるのだから、消費者も生産者に報酬を与えている。だからそこで相互関係は完結しているのであり、労働を労働と交換すべし、という規範は生じない。だから労働外からの収入があれば、労働すべしという規範も消え去るはずである。実際金持ちが働かないことについて文句を言う人は少ない。ところが現行の社会制度上、収入源はほとんど労働に限られているので、金と労働はそのまま同一視されてしまう。なので実質言われていることは、労働を労働と交換せよ、ということになる。労働によって手に入れたのではない金は、不正なものと見なされ、軽蔑の元となる。
大多数の人が嫌々労働する。それに耐えられないので、何らかの意義を見出す。「社会の役に立つ!」「自分が成長できる!」。「これだけ苦労しているのだから、良いことをしているに違いない!」。
それどころではないのだ。そうなると人間は、苦しんでいないと何か悪いことをしているような気がするという状態になる。個人の問題ではない。社会病理だ。人生には苦しみが必要である、苦しみを乗り越えることこそ真の幸福である!
こうなってくると嫌よ嫌よも好きの内ということで、嫌々がそのまま自発性になる。「嫌々仕事をするのが社会的に正しい」となってくる。仕事の愚痴をこぼすことの幸福感である。「一生懸命やってるからこそ愚痴が言えるんだ!」かくして「嫌々ながらやるということ自体を喜んでやる」というのが常態となる。なんと悲惨な弁証法!
なので人々は喜んで自発的に仕事をしている。これで一応自由は達成されたことになるのだ。いまや労働をする積極的な理由が見出されたからである。「しないと軽蔑されたり、生活できなくなったりするから」という消極的な理由ではなく、「それが正しいから」という積極的な、倫理的な理由である。すべきなのは、できるからである。できるからやるのが善であり、できるのにやらないのが悪である。倫理的な問題になると、それは自由の問題になる。善を行うということは、善を選ぶということである。労働は善である。だから労働は自由に行われる。規範のある所に自由はあり(自由とは従うことも逆らうこともできることであるから)、労働は規範である。だから労働のあるところに自由はある、とされる。労働は人を自由にする!
職業選択の自由なるものがこれに拍車をかける。嫌なら辞めればいいのである。辞める自由があるのだから、仕事をするのも自由で自発的である、ということになる。隷従先は選べても隷従しないこと一般は選べないのだが、そこはさっぱり無視される。理想の職場があるはずなのだ。なぜなら労働一般は正しいのだから。問題があるとすれば個別的な事情、個人と職場の相性に違いないからである。正しいことをしている人間は幸福なはずである(因果応報、復讐)。
労働者の勤勉さは奴隷根性なのだ。
商品が商品を再生産するから、「それが普通」「それが世の中」になってしまうのだ。
「成長」する商品、「自分磨き」する商品、「自分の価値を高める」商品、「自分に投資する」商品、より高く売れることで喜ぶ商品。
神が死んだ時には、まだ人間に語りかけることができた。人間が死んだ今、誰に語ればいい?
人間が自分の時間、身体、心を売る。人間に対した人間は、もはや相手を人間として見ない。人間がいない。商品があるだけだ。だから相手と過ごすことは、自分の価値を提供して相手の時間を買うこと、相手の価値を測って自分の時間を売ることだ。そういう交換にしかならない。だから「貴重なお時間」だ。「今何の時間?」だ。お時間は時給に換算できるのだ。
使えるものは使わないともったいない訳だ。儲けを出すためには、激しく活動=換金しないといかん。だから、働けるのに働かない奴については「もったいない」のだ。「無駄がある」ことが許せないのだ。
「それが普通」だから、「労働市場」で高値が付く人間は、無邪気に勝ち誇ることができる。「労働市場」への批判は単に負け惜しみだ。彼らは悪ではない。商品に善も悪も無い。
だが労働は悪だ。これを「奴隷道徳」と呼べるだろうか? 「労働市場」で評価されない者が、「労働市場」において有能なものを僻んで、「労働市場」を「悪」と見做し、転覆させようとしていると。だが測られることに喜びを覚えることこそ、奴隷根性ではないのか?
犠牲を捧げると、神は本物になる。コストを支払わないと気分が出ない。気分こそリアリティだ。犠牲を捧げることで、労働は神聖となる。これだけ苦労しているのだから、善いことをしているに違いない!
喜んで奴隷をやっているなら、それは奴隷ではない。本当にそうか?
労働について考えるのは、哲学的ではない。哲学は労働や社会制度のような偶然には関わらない。労働は単に現実であるに過ぎない。私の現実だ。だから考えざるを得ない。
測られることに喜ぶのではなく、単にこの活動それ自体が喜ばしいのだ、という形で、労働は営まれねばならない。
そうすると、「ではそういう、それ自体として喜ばしいことを探して、『それを仕事にしよう!』」などということになる訳だ。人間が単に活動することは認められず、「それを仕事に」せねばならない。何をどうしても、売ることしか考えられないのだ。収入と労働が分離していないから。
「お客様のために」だの「社会のために」だのはどうでもいいけど、一緒に労働する仲間の役に立てれば嬉しいな。でもその嬉しさって上下関係の嬉しさだよね。
自分の性格を形成してきたのは自分なのだから、自分には責任があるのか?
「自分の人生は自分で決めた」と言っている人も、「自分で決める流れ」だったからそうしただけで、流れを作ったのは自分ではない。
動ける時が来たら動けるようになるから、それを待つこと。
動けない時に動こうとしても仕方ないからね。
でも動けないと思い込まないようにね。自縄自縛って言葉もあるから。
自分のことは放っておくに限る。
私は私の主人ではないので、私に命令もしない。気遣いはするが。基本的には好きにやっていてくれればいい。苦境には同情するが、他に何もできはしない。本人の意志次第だ。
意志とは発揮するものではなく湧いてくるものなのだ。
取捨選択せず、葛藤せず、好悪によらず、素朴にすべきことをすること。
自発性とは、良く従属し得ることである。
喜んで従えば自発、嫌々従えば隷属と呼ばれる。
すべきことができねば生は虚しいのだ。
すべきこととは必ずしも自分の欲求ではない。それは状況が与える。
生の全体を考えようとしても、よく分からない。今この瞬間に集中しようとしても、やはりよく分からない。
今日1日のすべきことをするというのが、最も人間らしく自然なことなのだろう。
怠けなければ時間はある。
怠けてないのに時間が無いなら、まあそれは、状況が悪い。
「これが何になるのか」などと考えず、ともかく真剣にやってみることだ。
意味があるからやるのではなく、やるから意味が出てくる。
何であれ、犠牲を捧げてこそ本物になり、現実になる。
まともな大人なら、感情を抑え制御する術を自然に身につけている。自然に、と言ってもこれは技術だ。意識的に改善しなければ、何かの拍子に崩れてくる。
一つ一つ読み解いて、覚えて、記録して、相談して、解決するように。するといつの間にか、理解している。
喜んで、自発的に従属する時、人間は最も幸福なのだ。
神に生まれたかった。さもなくば虫に生まれたかった。
自分の意志を信じるくらいなら、神仏を信じた方がましだ。
罪があるから神が裁くのではない。神は裁きたかったから罪を作ったのだ。
世界を無から創造するものは、それ自身無から出てくるのでなければならない。
歴史的には、人間が神を作った。非歴史的には、神が人間に自己を現した。
人間が神を作らねば、神は存在できない。神が許さねば、人間は神を知ることも信じることも、作ることもできない。
押し付けがましい創造神より、私を導く死神と仲良くしたいものだ。
誰かが悪いという発想を捨てるべきだ。誰も悪くないからだ。
「誰も悪くないなら、このようなことになるはずがない!」いや、なるのだ。起きることはあっても、起こすものは無いからだ。
人は悪くないし、社会は悪くないし、環境は悪くないし、歴史は悪くない。全て完璧だったのだ。それでもこうなる。
自分の生活の苦しみを、人生そのものの本質的苦しみと取り違えないように。生活は変えられるかもしれない。
「そういう場合もある」や「そういう面もある」や「そういう解釈もできる」を指して、「本質」だの「構造」だの「起源」だの言わないようにしましょう。
どうしようもない状況では、宗教に頼るか自殺するかしかないのもまた事実なのだが。
マシな方を選んでいくしかない。
一時凌ぎを繰り返していれば、いつの間にか終わっている。
興味の無さを隠すのが苦手だ。日常会話を上手くこなすことすら苦手だ。内容に興味がないと頭が真っ白になる。問い合わせはしてるのだが、脳味噌が回答しない。
そういう無関心さ、どうでもよさ、投げ遣りさは相手に確実に伝わる。それが「主体性」や「自分事」や「責任」の概念が好きな人には受け入れられず、そういう人からは大抵嫌われる。
つまりよく言えば正直で、悪く言えば幼稚なのが私だ。これは今更変えられないと思う。
協調って支配だよな。
一緒に音楽をやる場合もそう。労働も、単なる会話ですら。
物理学的に自由意志が否定されたとしても、社会的な自由の概念には何の影響も無い。そもそも自由というのは、社会の中で人間が人間の処遇を取り決める時、そのつど使用したりしなかったりするだけの概念に過ぎない。その人が自由だったと見なすべきか、不自由だったと見なすべきかが重要で、実際に自由であったかは重要ではない。
脳の働きの話と人間の自由意志の話ではカテゴリーが違う、と単純に言うこともできる。人間は意志し責任を負うが、脳は物として機能するだけだ。人間の意志を脳の機能に還元し、責任を無効にすることはもちろんできるし、「責任能力」の概念の下すでにされている。が、それも「そうしようとすればそうできる」というだけで、「そうすべきだ」ということはない。「それが客観的真理だから」は根拠にならない。客観的真理が何であるかはそのつどの場において人間が決めることだからだ。
一冊を散漫に読むよりは、一箇所を注意深く読む方が良い。
読んだことを完全に記憶しておく必要はない。しかし読むことを楽しめていれば、何かしら勝手に残るはずだ。だからまずは楽しむことだ。
インスタントラーメンの醤油と豚骨を混ぜて食うと美味い。お湯の量は600mlくらい。
デンタルリンスを使って磨いた後、口をよく濯ぎ、あらためて歯磨き粉ありで軽く磨くのがベスト。
ヘッドがでかい歯ブラシを使う場合、ブラシの先端のみを使うようにすると良い。
歯磨きする時にはスマホはいじらない方が良い。雑になる。
髪の毛はまとめて切るのではなく、毎日少しずつ切っていくのが良い、かも。
夏は日差しを防ぐため、冬は窓から来る冷気を防ぐため、カーテンは常に閉めておくのが良い。
瓶ビールや缶ビールは容器から直接飲んだ方が美味いと思う。でも缶に口を付けるのって不衛生じゃないだろうか。
何も調味せず肉を食うのもたまには良い。蛋白質の淡白な味わい……。
寿司に醤油は要らない。
カニにカニ酢は要る。
初めて聞いた曲が分かることは稀だ。分かるには何度も聞かないといかん。というかもう、ある程度はその曲を覚えて、慣れないといかん。慣れている曲が名曲なのだ。最終的に、曲を聞いているのか、慣れを聞いているのか、分からなくなってくる。
慣れ過ぎると魅力が分からなくなることもある。そういう時は曲を改めて分析してみることだ。主旋律とそれ以外を切り離してみたり、一つの楽器の音だけを追ってみたり、高音部と低音部で分けて聞いてみたり。
音楽を真剣に聴くには、特定の身体感覚(感情)を自ら作り出し、その音楽に身体を合わせていかねばならない。
初めから自分の気質に合った音楽を聴く時には、わざわざこちらから合わせに行かなくとも、音楽の方から特定の身体感覚をこちらにもたらしてくる。
合わない音楽にはこちらから合わせに行かねばならない。ある音楽がわかるようになるというのは、ある感情を学んでいくというのに等しい。
合わせていくためには、音楽を聴きながら、僅かにでも身体を動かしてみる必要がある。耳だけでなく、筋肉の感覚により、リズムや音形や和音を聴かねばならない。
というか音楽に限らず芸術はそう。芸術でなくても、多分生活の全域がそう。何処にでも特有の、あるべき感情がある。
食事もそうだ。選べるなら気分に合ったものを食う訳だが、そうでないなら気分の方を食い物に合わせていかねばならん。
身体を使うことについては私は全く下手くそだ。だから病みやすい。
身体の制御は精神の制御だ。普通の人間のメンタルには身体由来の強さがある。
少年性って何かね。やっぱり美しい肌と髪かね。精神性のことではないと思う。精神はどうでもいい。
肌と髪なら少女でも同じではないかと思うが、やはり違う。少女の美しさは分からない。美しいと思ったことが無い。
人類の中で存在が許されるのは少年だけだ。それは分かる。
『カラマーゾフの兄弟』の最後の場面だって、少年たちだから良いんだ。一人でも少女が混じってたら台無しだ。
少年は男の最も美しい時期だが、少女は女の最も醜い時期だ。成熟するにつれて美醜は均等になっていく。
もはや手に入らないものへの絶望としての少年美。私も昔は美しかったんだが。
私のほっぺは、いつの間にただの頬になってしまったのか。
髭も生えてきた。まあ髭も悪くないけどな。少しずつ似合うようになってきた気はするし。
老いを通じて死に近づいていくのを感じる訳だが、一番やるせないのはやはり少年を見た時だなあ。
彼らもまた老いるのではあるが。残念なことだ。美しいものが儚いからといって、「儚いからこそ美しい」などと言い始めるのはただの誤魔化しだ。
これは少年愛の一種だが、「あれが欲しい」欲と「あれになりたい」欲は違うからな。
少年の美は対象の美じゃないのだ。かつてここに有った美なのだ。
ただまあ、自分が少年だったころは、そんなもの美しいとも何とも思わなかったが。
見目美しい少年だけなら良いが、現実には粗悪品ばっかだし。
子供というのは小さいから可愛いって側面もあるよな。でも自分が子供の頃は、子供って言っても私よりでかいんだから、可愛いもクソも無かった。
美しいのは観念であって、現実の存在じゃない。当たり前のことだ。
私はナルシストだ。しかも過去の自分が好きなナルシストだ。こんなもんどうすればいいのか。
いや、大丈夫だ。過去だけではない。今でも私は、もし自分の肉体がもう一つあったら、ずっと眺め合っていたいし、触れ合いたいし、性交もしたい。
自分以外を愛するということがほとんど分からない。
同性愛者には心が異性なタイプと、ナルシストなタイプがあると思う。
「幼少期から同性が好きでした」って言ってるやつは多分もともと心が異性なタイプだ。
幼少期には誰でも自分自身と一致しているから、ナルシストが自分を対象にした性愛を持っていることを自覚するのは遅めになると思う。
ナルシストの性愛は本当は自分に対する性愛なのだが、自分はどうしても対象にはできないから、似たようなものを外に求めざるを得ない。
異性愛者にナルシストがいないかって言ったらそんなこともないと思うけどね。
一般に他者への愛が自己愛に基づくものだとしたら、人類全員ナルシストである可能性も捨てきれない。
むしろ真性のナルシストにこそ、他者をそのまま他者として扱う誠実さがある。
ナルシシズムは自分の魅力を外に向けることにも向かうし、内なる自分とじっと見つめ合う方にも向かいうると思う。
ナルシストが哲学をするとどうなるか? 自分に閉じた哲学になる。その上で、自分を自分と見なさず、対象化するような哲学になる。
ずっと一緒にいよう。決してお互いを見捨てずにいよう。共に老い、共に死のう! 何がどうなろうと、私は私を愛している。
自分自身に語りかけることが何よりも慰めになる。
他人とは一緒にいることもできるし、いないこともできる。その上で一緒にいることを選ぶのが、愛するということだ。それに対し自分は常に自分と一緒にいる。一緒にいるかいないか選ぶ余地は無い。だから自分への愛などというのは成り立たない。……本当にそうか? 言うほど自分は自分といつも一緒にいるだろうか。むしろ自分を対象にすることを避けていないか? 「私はずっと私だ」とか「自己同一性」自体、単なる抽象か、あるいはむしろ自分を避けることから得られた統一に過ぎないのではないか?
愛している相手を放っておき過ぎるのもいけないし、干渉しすぎてもいけない。しかし自分に対しては干渉せざるを得ない。自分のすることを決めているのは常に自分だからだ。自分は自分に命令するのであり、放っておくことはできない。だからやはり自分を愛するのは無理だ。……これもまあ同じことだな。実際のところ自分で自分を放っておくことも、干渉することもできるだろう。
自分の考えていることは自分で分かっている。だから自分を愛するというのは一人芝居と同じだ。何を考えているか分からない他人だからこそ、愛することができる。……これも同じだ。そもそも自分の思考とは、自分との対話ではないのか? むしろ自分の考えが本当に分かっている訳ではないから、思考できるのだ。
ただの対人恐怖症なんじゃないでしょうか。
心を病んでるからね。……病まない奴のがおかしいんだよ。
病んでいる人、苦しんでいる人、不幸な人が好きだ。でもずっと不幸でいて欲しいわけじゃない。幸せになってほしい。ただし、彼らより先に私が幸せになりたい、というだけだ。でないと彼らの幸せに、私は耐えられないだろう。
自分と戦うのは嘘だ。人は状況と戦うのであって、自分とは戦わない。克己は幻想だ。自分は味方でなければ。
不安な時に祈るのは、事態を却って深刻に感じさせるので良くないかなと思った。
祈ったり許したり愛したり、不安の誤魔化し方にも色んな変奏があるな。